選んだ名前
青い瞳が相沢を捉えた。
「ナナ」
今度は、少女が言った。
相沢は動かなかった。
声は昨夜作った、耳当たりのよい少女の声だった。抑揚はまだ平らで、呼びかけなのか反復なのかはわからない。
「それでいいのか」
少女は相沢を見ている。
「ナナって呼ぶ。嫌なら、別のにする」
嫌という言葉が通じる保証はなかった。
「ゼロナナ」
少女は動かなかった。
「七番」
動かない。
「ナナ」
青い瞳の奥で、光が一度だけ走った。
少女は右手を上げた。
人差し指が、自分の胸元へ触れた。
「個体識別。ナナ」
相沢は息を止めた。
数字を読んだだけではなかった。
相沢が差し出した音を、少女が自分の側へ置き直した。
「ナナ」
相沢が確かめる。
「ナナ」
少女が返す。
相沢は自分の胸を指した。
「相沢」
少女の指が相沢へ向いた。
「個体識別。相沢」
次に、指が自分へ戻る。
「個体識別。ナナ」
それだけだった。
それだけのことに、相沢はひどく安心した。
「わかった」
少女、ではなく、ナナが相沢を見た。
名前をつけたから何かが変わったわけではない。重さは百三十八・五キログラムのままだ。床は沈んでいる。青い目は光り、身体の奥ではときどき小さな機械音がする。
それでも、少女と呼ぶより近くなった。
物と呼ぶより、ずっと遠くなった。
その距離を何と呼べばいいのかは、わからなかった。
友達ではない。家族ではない。同居人と呼ぶには、まだ一晩しか経っていない。拾得物なら警察へ届ける必要があるが、拾得物は自分で名前を選ばない。
相沢は玄関の電話機を見た。
昨夜と同じ場所にある。
受話器を上げていないという事実も、昨夜から変わっていない。
変わったのは、電話をかけたときの説明だった。
昨日までは、少女のようなものを拾った、と言えばよかった。
今は、ナナを拾った、と言うことになる。
名前があるだけで、渡してしまうことに後ろめたさが生まれた。
相沢は電話機から目を逸らした。
「とりあえず、そこへ座って」
合板を二枚並べ、指さした。
ナナは板を見た。
相沢が自分で座る真似をすると、膝を曲げた。
身体が下がる。
途中で速度が変わらない。百三十八・五キログラムが一定の速さで床へ近づき、相沢は思わず両手を出した。
ナナは合板へ触れる寸前で、音もなく止まった。
それから残り数センチをゆっくり下ろした。
板が低く鳴った。
相沢は手を引っ込めた。
「そう。そこにいて」
ナナは相沢を見上げた。
「ナナ」
自分を指す。
「うん。ナナ」
相沢が答えると、ナナは手を下ろした。
命令が通じたのではない。
たぶん、名前を確かめただけだった。
それで十分だと、今は思った。
*
午前八時半。
相沢は朝食を作った。
作ったといっても、食パンの袋を開け、二枚取り出しただけだった。台所にトースターはない。魚焼き網へパンを載せ、ガス台の弱火で片面ずつ焼く。
一枚目は端を焦がした。
二枚目は真ん中を焦がした。
三枚目で火加減を諦めた。
ちゃぶ台の上へパンを二枚置き、冷蔵庫からマーガリンを出した。昨日の朝に作った麦茶も、二つのコップへ注ぐ。
ナナは合板の上に座っていた。
相沢が床を守るため、二枚を並べて敷き直したのだ。正座をしているように見えるが、膝と足首の下では合板がわずかに反っている。
「朝飯」
ナナの視線がパンへ移った。
「食べられる?」
返事はない。
相沢はパンを一枚持ち上げ、齧ってみせた。
「こう」
ナナはパンを見た。
次に、相沢の口を見る。
右手を伸ばした。
細い指がパンの縁を挟んだ。力を入れた様子はないのに、焦げた表面が小さく割れた。
親指の下で、パンが深くへこんだ。
ナナはへこんだ場所を見た。
指を少し緩める。
今度はパンが落ちた。
相沢がちゃぶ台の上で受け止めた。
「難しいな」
ナナはパンと自分の指を交互に見た。
相沢は別の一枚を持ち、指先で挟んでみせた。
「これくらい」
ナナは落としたパンを拾った。
表面へ触れるか触れないかの力で持ち上げる。今度はへこまなかった。
「そう」
ナナはパンを口元へ運んだ。
唇を開く。
前歯で、四角く齧った。
口を閉じた。
かち、と小さな音がした。
相沢は手を止めた。
ナナの顎が動いた。
かち。
かち。
音は顎の奥から聞こえた。硬いものが決まった位置まで動き、戻る音だった。
一秒に一回。
同じ角度。
同じ速さ。
ナナは十二回噛んだ。
十三回目で止まり、飲み込んだ。
喉が一度だけ動いた。
「大丈夫か」
青い瞳が相沢へ向いた。
「腹、壊さない?」
ナナは答えない。
相沢は、自分で聞いておいて困った。
腹があるのかも知らない。
ナナは二口目を齧った。
今度は顎の動く間隔が少しずれた。
一度目は速く、二度目は遅い。五回目で止まり、また動く。相沢が食べるときの、考え事をしながら噛む不揃いな動きに似ていた。
かち、という音も、途中から聞こえなくなった。
「味、するの」
ナナは咀嚼を止めた。
相沢を見る。
すぐには答えなかった。
一秒。
二秒。
少しだけ首を傾けた。
「おいしい」
きれいな声で言った。
相沢はパンを持ったまま、ナナを見た。
本当かどうかはわからない。
味がわかるのか。おいしいという言葉の意味を知っているのか。相沢がその答えを望んでいると見抜いて、置いただけなのか。
どれもありそうだった。
焦げたパンだった。
相沢自身、それほどおいしいとは思っていない。
それでも、ナナはもう一口食べた。
相沢も食べた。
ナナの視線が、麦茶のコップへ移った。
相沢は先に自分のコップを持ち上げた。
ナナも持ち上げる。
ガラスの縁へ五本の指が触れた。
相沢はコップが砕けるところを想像した。
砕けなかった。
ナナはパンのときより慎重に、相沢の指の位置まで真似ていた。
麦茶を一口飲む。
喉が動く。
コップをちゃぶ台へ戻す。
とん、と置いた相沢に対して、ナナのコップは音を立てなかった。
底と板の間の最後の一ミリを、測ったように下ろした。
「そっちのほうが上手いな」
ナナは相沢のコップを見た。
相沢は、自分の置き方を少し反省した。
「よかった」
何がよかったのかは、決めないことにした。
部屋の空気が暑くなっていた。
朝の光が畳を白く照らし、壁が夜の熱を吐き出し始めている。相沢は立ち上がり、止めていた扇風機のコードを差した。
弱のボタンを押す。
羽根が一度ためらってから回り始めた。
ぶうん、と低い風が出た。
首振りのつまみを押し込む。
青い台座の上で、扇風機の首が左へ動き始めた。
六秒かけて、ナナの方を向く。
熱を含んだ風が、黒い髪を持ち上げた。
扇風機は止まらず、今度は右へ戻っていく。
七秒かけて、相沢の方を向いた。
風が、汗ばんだ顔へ当たった。
右端で、きゅ、と鳴った。
ナナは扇風機を見た。
羽根を目で追い、青い台座を見て、左右へ動く首へ視線を戻す。
「扇風機」
ナナが言った。
相沢は驚いた。
夜中に指さして教えたときは、言葉だけでは見向きもしなかった。
「そう。扇風機」
「扇風機」
右端で、きゅ、と鳴る。
「そこは壊れてる」
ナナは音のした継ぎ目を見た。
「直したけど、直りきらなかった」
答えはない。
それでもナナの視線は、もう相沢の指先ではなく、言葉の先にある扇風機へ向いていた。
首がまた左へ動く。
六秒。
風がナナへ来る。
ナナの青い瞳は相沢へ向いたままだった。
「相沢」
相沢は目を瞬いた。
扇風機が右へ戻る。
七秒。
風が相沢の頬へ戻る。
「ナナ」
彼女は自分を指した。
右端で、きゅ、と鳴る。
首が左へ向かう。
「相沢」
右へ戻る。
「ナナ」
昨日まで、扇風機が左を向いた先には、空いた畳しかなかった。
今朝はそこに、百三十八・五キログラムの、名前を選んだ少女がいる。
風は二人を区別しなかった。
同じぬるさで相沢の汗を冷まし、ナナの黒い髪を揺らした。
六畳間を、ぬるい風が行き来した。
相沢と、ナナの間を。




