ゼロナナ
少女は、相沢の返事を聞いた。
返事の意味まで通じたかは、わからない。
少なくとも、青い瞳は彼の口元から目へ戻った。
「相沢」
「うん」
「相沢」
「いるって」
「相沢」
「それ以外は?」
少女は黙った。
相沢は、しばらく待った。
「名前」
反応はない。
「おまえの名前」
青い瞳が相沢を見ている。
「俺が相沢。おまえは?」
「個体識別。相沢」
最初へ戻った。
会話に見えたものは、まだ会話ではなかった。相沢という音と、目の前の個体が結びついただけだ。その先へ行く道は見つかっていない。
相沢は、思いつく限りの質問をした。
どこから来た。何をしていた。怪我はないのか。あのスクラップ置場にいた理由は何だ。腹は減るのか。眠るのか。学校へ行ったことはあるか。
最後の質問は必要なかった気がした。
返ってくるのは、沈黙か、相沢という名前だけだった。
午前四時を過ぎるころには、少女の声は完全に安定していた。
発音も高さも、人間の少女と区別がつかない。だが言葉は増えなかった。声だけが先に完成し、その中に入れるものがない。
相沢は湯を沸かし、流し台の前でカップ麺を食べた。
少女はその一部始終を見ていた。
蓋を開けるところ。
湯気が上がるところ。
相沢が麺をすするところ。
視線だけが、箸と口の間を往復した。
「食べる?」
相沢は割り箸で麺を一本持ち上げた。
少女は麺を見た。
「いらない?」
返事はない。
「じゃあ、いらないことにする」
相沢は残りを食べた。
食べ終わると、急に眠気が来た。
前日の午後から、重いものを掘り、持ち上げ、運び、落としかけ、階段を引き上げた。合間に高周波を浴び、自分の呼吸と声を盗まれた。
身体に相談するまでもなく、限界だった。
相沢は壁にもたれた。
「少し寝る」
少女は見ている。
「どこにも行くなよ」
言葉を理解しない相手への指示としては、かなり難しい。
相沢は目を閉じた。
すぐに開けた。
少女は同じ姿勢でいた。
もう一度閉じた。
今度は、開けられなかった。
*
床が沈む音で目が覚めた。
ぎぎ、と長く、家の下から太い木を曲げるような音がした。
相沢は壁に頭をぶつけながら起きた。
少女が、布団の上に座っていた。
窓から朝の光が差している。枕元の時計は七時十五分だった。
薄いカーテンを通った光が、六畳間を昨夜とは別の場所に見せていた。
泥の染みたシート。開いた救急箱。空になったカップ麺。外したままの工具。畳についた深いへこみ。夜のあいだは見ないふりのできたものが、朝になると全部、生活の失敗として並んでいる。
窓の外では蝉が鳴き始めていた。
いつもの夏の朝だった。
布団の上に鉄より重い少女が座っていることを除けば。
少女は両手を身体の脇へつき、上半身を垂直に起こしていた。黒い髪が肩から落ち、白い頬の半分を隠している。
動きそのものは静かだった。
静かなのに、布団の下の畳は大きくへこんでいた。
「待て」
少女が顔を向けた。
相沢は立ち上がった。
「そこから動くな」
少女は動かなかった。
通じたのかもしれない。
そう思った瞬間、少女が立ち上がった。
通じていなかった。
彼女は両足を畳へ置き、膝を伸ばした。
百三十八・五キログラムの荷重が、二つの裸足へ集まった。
畳が沈んだ。
その下で、床板が一本ずつ声を上げた。
ぎ。
ぎ、ぎ。
少女は立った。
相沢より少し低い。華奢な肩。細い腰。灰色の服から伸びる手足は、朝の光の中では昨夜よりいっそう普通の少女に見えた。
足元だけが、普通ではなかった。
畳の縁が沈み、隣の畳がわずかに持ち上がっている。
相沢は本棚の横へ飛びついた。
壁との隙間に、拾ってきた合板が二枚立てかけてある。壊れた棚を直すつもりで持ち帰り、三か月そのままになっていたものだ。
一枚を少女の右足の前へ滑らせた。
「そこ。板の上」
少女は板を見た。
相沢は自分の足を載せてみせた。
「こう」
少女の右足が上がった。
相沢は慌てて足をどけた。
白い足が合板の中央へ下りた。
どん、と音がした。
合板がたわみ、畳へ沈んだ。それでも重さが広く散ったぶん、床板の悲鳴は少なかった。
「そう。それで左も」
二枚目を差し出す。
少女は相沢の動きを見ていた。
左足も板へ載った。
二枚の合板の上に少女が立った。工事現場の仮設足場に、場違いなほどきれいな人形を置いたようだった。
相沢は安堵した。
「それなら、たぶん抜けない」
少女が右足を上げた。
合板の外へ踏み出した。
相沢の安堵は二秒で終わった。
「動くな」
少女は右足を上げた。
「頼むから」
一歩、踏み出した。
どん、と低い振動が来た。
歩き方は滑らかだった。足裏が畳へ触れ、踵から爪先へ重さが移る。膝が曲がり、腰が前へ出る。見た目だけなら、寝起きの少女が窓へ歩いている。
その一歩ごとに、六畳間の床が耐荷重を相談していた。
ちゃぶ台の湯飲みに残っていた水が揺れた。
蛍光灯の紐が小さく振れた。
壁際の本が一冊ずつ前へずれ、三歩目で文庫本が棚から落ちた。
少女は振り返らなかった。
自分の歩行が部屋へ何をしているのか、気づいていないように見えた。
あるいは、気づく必要がないのかもしれなかった。
相沢は少女と窓の間へ回り込んだ。
「止まれ」
少女は止まった。
身体が前へ傾くことも、踏み出した足で重さを逃がすこともなかった。歩いていた姿勢から、映写機の電源を切ったように静止した。
黒い髪の先だけが、遅れて肩へ触れた。
相沢は息を呑んだ。
止まったことより、止まり方が怖かった。
「相沢」
少女が言った。
「そう。相沢。俺」
相沢は自分を指さし、それから少女を指さした。
「おまえは?」
少女の視線が、相沢の指先へ落ちた。
だが、答えはない。
少女はまた歩き出した。
狭い部屋を、窓へ向かって進む。ちゃぶ台の角を正確に避け、救急箱の横を通り、止まった扇風機の前で進路を変える。
家具が急に薄く見えた。
ちゃぶ台も、本棚も、流し台も、この少女が一度よろめけば形を失う。相沢が半年ほど使ってきた部屋は、彼女の質量を前にすると、段ボールで作った舞台装置と変わらなかった。
少女の左足が、救急箱をまたいだ。
朝の光が、内側の踝を斜めに照らした。
何かが見えた。
相沢は目を細めた。
薄い文字だった。
汚れではない。白い皮膚の下へ、ごく細い線で数字が入っている。正面から見ると消え、斜めから光が当たったときだけ浮き上がった。
07。
二桁だけだった。
少女が足を下ろすと、数字は見えなくなった。
「待って」
少女は歩き続けた。
「ゼロ、ナナ」
左足が止まった。
右足も止まる。
少女は窓を向いたままだった。
相沢は近づいた。
「それ、おまえの番号か」
返事はない。
「ゼロナナ」
少女の顔が、ほんの少し横へ動いた。
数字に反応したのか、相沢の声に反応しただけなのかはわからない。
相沢は口の中で繰り返した。
ゼロナナ。
識別記号としては正しいのかもしれない。だが、呼ぶたびに点呼をしているようだった。
番号なら、物につけるものだ。
扇風機にも、ミキサーにも、榊が探していた部品にもある。番号で呼んでいる限り、この少女はスクラップ置場から拾ってきた物のままでいられる。
そのほうが正しいのかもしれない。
脈はない。身体の中で機械の音がする。百三十八・五キログラムあり、床を沈め、人間の声を数時間で作った。
人ではない理由なら、いくつもあった。
それでも、ゼロと七を続けて読めば、別の音になる。
ナナ。
それは番号ではなく、少女の名前に聞こえた。
名前をつけるということが、何を意味するのかはわからなかった。拾ったものを自分のものにする印のようで、少し嫌だった。
だから相沢は、決めるのではなく、尋ねるつもりで口にした。
一度、息を吸った。
ただの呼び方だ、と考えた。
けれど声にしてしまえば、07という二桁は、もう元の番号だけには戻らない気がした。
「ナナ」
二桁を、名前のように読んだ。
相沢は、ただ、少女がどうするのかを待った。
少女が振り向いた。




