個体識別
相沢の呼吸を覚えた少女は、次に音を出した。
最初は、声ではなかった。
きん、と歯の奥が鳴った。
相沢は口を閉じた。自分の歯が鳴ったのだと思った。
もう一度、きん、と鳴る。
今度は窓ガラスが震えた。
少女の唇が、わずかに開いていた。
そこから、耳ではなく頭の骨に触るような音が出ていた。細く、鋭く、途切れない。流し台のアルミ鍋がかすかに震え、電話機の受話器が台の上でじりじり動いた。
止まった扇風機の金網まで鳴り始めた。
相沢は両耳を押さえた。
「ちょっと待て」
音が一段高くなった。
「違う。上げるな」
さらに上がった。
「やめろ!」
音が切れた。
静かになった部屋で、蛍光灯だけが唸っていた。
相沢はそのまま動かず、廊下の気配を待った。
壁の薄いアパートだった。隣の部屋で水道を使えば管の中を水が走る音がし、下の住人がテレビをつければ、内容はわからなくても笑い声だけは聞こえる。今の音が聞こえなかったはずはない。
十秒待った。
誰も壁を叩かなかった。
三十秒待った。
廊下を歩く音もしなかった。
この棟で明かりのつく部屋は、もう三つしかない。一階の老人は耳が遠く、端の部屋に住む男は夜勤が多い。相沢の両隣は、春からずっと空室だった。
こんなときだけ、取り壊し予定の建物でよかったと思う。
よいことではなかった。
少女は相沢を見ている。
相沢は耳から手を離した。耳鳴りが残っていた。世界中の蝉を一匹ずつ細くして、頭の中へ詰めたような音だった。
枕元のデジタル時計は、午前三時二分を示していた。
七月二十六日。
昨日の午後、榊先輩に頼まれた音響機器を探しに家を出たはずだった。それが日付をまたいだ今、相沢の布団には百三十八・五キログラムの少女が寝ていて、人間の可聴域を外側から探っている。
夏休み初日の使い方としては、かなり悪い。
「聞こえてるんだな」
少女の青い瞳に、細い光が走った。
「俺の言葉。わかるか」
返事はない。
少女の喉が動いた。
ご、と低い音が出た。
床下で大型車がアイドリングを始めたような音だった。畳が震え、救急箱の蓋がかたかた鳴った。相沢は慌てて白い箱を押さえた。
低い音は少しずつ高くなった。
男の声に近い高さを通り、女の声に近い高さを通り、子供の泣き声に近いところで一度止まる。そのどれにも言葉はなかった。一本の音が、喉の中で太さを変えているだけだった。
少女の胸は、相沢と同じ周期で上下していた。
呼吸のたびに音が細くなる。
吐くたびに、少しだけ人間の声へ近づく。
放送部に入ってから、相沢は人の声を音として聞く癖がついていた。
口を開く前に吸う息。唇が離れる小さな破裂音。舌が歯の裏へ触れる濁り。機材を通すと消えるものと、逆に大きくなるもの。榊はそこへ名前をつけて説明したがったが、相沢は名前のつかない違いのほうをよく覚えていた。
目の前の音には、その違いがなかった。
最初は平らすぎた。息が混じらず、喉も震えず、ただ空気だけが正確な波になって押し出されている。ところが相沢が声を出すたび、少女の音へ小さな傷が増えた。
息が混じった。
音の始まりが少し遅れた。
同じ高さを保てず、わずかに揺れた。
機械としては悪くなっている。
人の声としては、よくなっていた。
相沢は妙な気分になった。
壊れたラジオの周波数を合わせるのに似ている。雑音の向こうから、まだ存在しない放送局を探している。
ただし、つまみを回しているのはラジオ自身だった。
「あー」
相沢は試しに声を出した。
青い視線が喉へ移った。
「あー」
もう一度、長く伸ばす。
少女の唇が同じ形に開いた。
空気が抜けた。
声にはならない。
唇が閉じ、もう一度開く。
「ァ」
短い音が出た。
人間の声に近かった。
近かったが、安心できる近さではなかった。録音した自分の声を初めて聞いたときのように、知っているはずのものから、知らない部分だけを取り出した音だった。
「そう。それ」
少女の瞳に青い点が瞬いた。
「もう一回」
「ァ」
「もう少し長く」
「ァァ」
「もう少し、普通に」
言ってから、普通という指示がひどく不親切だと気づいた。
少女は困った顔をしなかった。
代わりに、今まで出した二つの音の中間を、正確に出した。
「ア」
澄んだ声だった。
高すぎず、低すぎない。細い身体から自然に出たように聞こえる、少女の声だった。甘さがあり、息の混じり方まで柔らかい。
誰かに似ている気がして、相沢は記憶を探した。
クラスの女子でも、放送部の一年生でもない。テレビで聞く声にも似ていない。むしろ、そういう声から耳当たりのよいところだけを少しずつ集めたようだった。
誰の声でもないから、誰の声としても受け入れられる。
相沢は背中が寒くなった。
うますぎた。
さっきまで窓ガラスを震わせていたものが、数回の試行で、人に警戒されにくい音を選び出した。その選び方には迷いがなかった。
「言葉もわかるのか」
少女は答えない。
「目を閉じて」
青い目は開いたままだった。
「右手を上げる」
右手は夏掛けの上で動かなかった。
相沢が自分の右手を上げると、少女の視線だけがついてきた。
声に反応しているのか、動きに反応しているのか。それとも、どちらもただ記録しているだけなのか。
相沢は扇風機を指さした。
「扇風機」
青い視線が扇風機へ移った。
指を電話機へ向ける。
「電話」
視線も電話機へ移る。
指を下ろしてから、もう一度言った。
「扇風機」
少女は動かなかった。
「電話」
やはり動かない。
相沢は少し安心した。
言葉を理解したのではない。指さした先を見ただけだ。
その安心が正しいのかは、自信がなかった。
少女は口を閉じた。
また開いた。
「コ」
一音ずつ、同じ間隔で出した。
「タ、イ」
青い瞳の奥で、小さな光の列が走る。
「シ、キ、ベ、ツ」
相沢は黙って聞いた。
音の切れ目が短くなった。
「個体。識別」
声は甘いのに、言葉の並べ方は機械の表示だった。
少女は相沢を見た。
「個体識別」
そこで止まった。
何かを待っているように見えた。
相沢は自分を指さした。
「俺?」
青い瞳が指先を追った。
「俺のことを聞いてるのか」
少女は瞬きもしない。
問いかけではないのかもしれない。ただ、空欄がある。そこへ入れるものを要求している。
相沢は少し迷った。
名前を教えることに、ためらう理由などないはずだった。相手が人間なら。
偽名を言うことも考えた。
山田でも鈴木でもいい。榊と答えておけば、あとで何か起きたとき少しだけ溜飲が下がるかもしれない。
だが、青い目は相沢を見ていた。
体温も、呼吸も、声も測られている。今さら名前だけ隠しても、裸のまま名札を伏せるようなものだった。
それに、最初に教えた言葉が嘘になるのは、なぜか嫌だった。
相手は嘘の意味さえ知らないかもしれない。それでも、泥の中から連れてきたものに、自分から最初に渡すものが嘘だというのは落ち着かない。
相沢は、訂正するのが面倒になるからだ、と理由をつけた。
「相沢」
少女の瞳に光が走った。
「俺は、相沢」
少女の唇が動いた。
「アイザワ」
抑揚がなかった。
相沢が言った音を、そのまま平らにして返しただけだった。
「そう」
「個体識別。相沢」
今度は、一息だった。
最初に選んだ甘い声で、はっきりと言った。
相沢は返事ができなかった。
その言葉に親しみはなかった。呼びかけでもなかった。工場の棚に部品番号を書いた札を貼るのと同じように、目の前の人間へ識別名を割り当てただけだ。
わかっていた。
それでも、自分の名前がこの部屋で鳴ったことに、身体のどこかが反応した。
両親が引っ越してから、この六畳間で相沢の名を呼ぶ者はいなかった。
電話は鳴る。榊も呼ぶ。教師も、部員も呼ぶ。
だが、この部屋の畳と、流し台と、壊れかけた扇風機の間で、自分の名前を聞いたのは初めてだった。
少女はもう一度言った。
「相沢」
二度目は、最初より少しだけ自然な抑揚がついていた。
それは呼ばれたのではない。
識別されただけだった。
相沢はそう言い聞かせた。
それから、返事をした。
「いるよ」




