目覚め
そう思った途端、相沢は自分が急に薄くなったような気がした。
体温、身長、汗の量、呼吸の回数。そういう数字に分解されて、青い瞳の向こうへ吸い込まれていく。そこにいるのは自分なのに、自分である必要がない。
少女の視線が、壁の染みから窓のクレセント錠へ移った。
相沢は息を吐いた。
「人を測るな」
返事はなかった。
こちらを見もしなかった。
命令としての強度が不足していたらしい。相沢は自分の発言を取り消したくなった。取り消したところで、会話が成立していないので意味はない。
少女の瞳が動くたび、奥の青い光が細く明滅した。蛍光灯の管。天井から下がる紐。窓ガラスのひび。流し台の上の鍋。畳に落ちた十円玉。ひとつずつ、等しい時間で視線が止まる。
止まった首振り扇風機には、少し長く止まった。
相沢は扇風機を見た。
少女を見た。
今度は自分を見なかった。
なぜか、少し腹が立った。
耳の奥を刺す高い音は続いていた。その下で、かち、かち、と硬いものの触れ合う音がする。やがて、ぎゅる、と何かが短く回り、止まった。少し間を置いて、もう一度回る。
スクラップ置場で聞く音に似ていた。電源を入れた古い機械が、自分の中に何が残っているかを確かめている音だ。
相沢は壁を背にしたまま、膝を立てた。
逃げるなら玄関まで三歩だった。
少女は布団の上に横たわっている。百三十八・五キログラムある。立ち上がる気配はない。こちらへ手を伸ばしても届かない。
少なくとも、そのはずだった。
相沢は三歩を数えた。
それから、逃げなかった。
逃げなかったというより、見届けようとしてしまった。地面に半分埋まっているものを掘り出し、台車へ載せ、坂道を止め、階段を引き上げた。ここで玄関から出ていくと、それまでの苦労が全部、何だったのかわからなくなる。
人間は大変な思いをすると、判断を正当化するために、さらに大変な思いをするらしい。
相沢は四つん這いで近づいた。
「聞こえるか」
少女の瞳が動いた。
青い光が相沢の喉で止まり、口元へ上がり、また喉へ戻った。
聞こえたのかどうかは、わからなかった。
相沢は少女の肩へ手を伸ばした。指が触れる寸前で、一度止める。スクラップ置場で触ったときは、死体だと思った。掘り出したあとは、人間ではないと思った。
では今、これは何なのだろう。
答えが出ないので、触った。
肩は冷たかった。
だが、鉄の冷たさではなかった。夜の床へ置いたガラス瓶のような、表面だけの冷たさだった。指を当てているうちに、ほんの少し温度が移ってくる。
相沢は手首へ指を滑らせた。
脈はない。
首筋にも触れた。
やはり、ない。
鼻先へ手の甲を近づけた。息もない。
救命講習で習った順番を思い出そうとした。意識の確認。呼吸の確認。気道の確保。助けを呼ぶ。
最後だけは、すでに失敗している。
流し台の下には、二つの箱があった。
ひとつは、母親が置いていった白い救急箱だった。消毒液、包帯、絆創膏、胃薬。何に使うのかわからない三角巾。もうひとつは相沢が自分で持ち込んだ灰色の工具箱で、ドライバー、ニッパー、テスター、半田ごてが入っている。
相沢は二つを畳へ並べた。
少女の青い目が、白い箱を見た。
次に灰色の箱を見た。
どちらにも同じ時間だけ止まった。
相沢は困った。
脈のない少女に包帯を巻くのは、たぶん間違っている。腹の中で機械の音がする少女にドライバーを突き立てるのは、もっと間違っている気がした。
迷った末、白い箱を開けた。
理由は単純だった。もし間違えていた場合、絆創膏のほうが謝りやすい。
相沢は消毒液とガーゼを取り出し、少女の手の甲に残る泥を拭いた。細い指。短く整った爪。その付け根には薄い半月まである。掌を返すと、指紋らしい細かな渦が見えた。
よくできている、と思った。
そう思った自分が嫌になった。
人間の手を見て、よくできているとは言わない。
相沢はガーゼを置き、薄い夏掛けを少女の胸までかけた。必要があるのかはわからない。それでも冷たいものを冷たいまま寝かせておくよりはましだった。
少女の指が、夏掛けの縁に触れた。
掴みはしなかった。
そこに布があることを確かめるように、一度だけ撫でた。
相沢は玄関脇の電話機を見た。受話器を上げれば、警察でも救急でも呼べる。事情を話せばいい。スクラップ置場で少女を拾った。少女は百三十八・五キログラムあって、目の中が青く光り、呼吸も脈もないが、部屋の寸法を測っている。
事情という言葉の許容量を超えていた。
「おまえ、病院はたぶん違うよな」
青い目は天井の角を見ていた。
「警察は、もっと違う気がする」
蛍光灯が、じ、と鳴った。
「榊先輩は論外だ」
少女の瞳が相沢へ戻った。
偶然だとわかっていても、そこだけは意見が一致したように見えた。
相沢は濡れたタオルを取り、頬に残った泥を拭った。
そのとき、奇妙なことに気づいた。
頬に細く走っていた擦り傷が、なくなっている。
血は出ていなかった。ただ、スクラップの角でこすったように表面が白く曇り、髪の生え際まで細い筋になっていた。それが今は、蛍光灯の下で探さなければわからないほど薄い。
相沢はタオルを止めた。
白い筋の端が、目の前で短くなった。
皮膚が寄ったのではない。盛り上がりも、かさぶたもなかった。曇ったガラスを内側から磨くように、表面の乱れだけが消えていく。
十秒もすると、頬は最初から傷などなかったように滑らかになった。
きれいだった。
きれいすぎて、相沢は手を引いた。
開いたままの救急箱が、急に場違いなものに見えた。
灰色の工具箱は閉じたままだった。
人間の傷が治るところには、もっと言い訳がある。血が固まり、皮膚が腫れ、何日もかけて色が変わる。痛かった痕跡を残しながら、少しずつ元へ戻る。
少女の頬には、その途中がなかった。
何もなかったことにされた。
ぎゅるる、と腹の奥で音がした。
少女の右手の指が動いた。
五本とも同時ではなかった。小指、薬指、中指、人差し指、親指。順番にわずかに曲がり、伸びる。それを二度繰り返し、今度は逆の順で動いた。
相沢は玄関までの三歩を、もう一度思い出した。
少女の左足が数ミリずれた。
畳の下で床板が鳴った。
ぎ。
少女の肩が動いた。
ぎぎ。
百三十八・五キログラムが寝返りを打とうとしている。
相沢は反射的に両手を出した。助けられる重さではない。それでも、布団から転がり落ちれば床が抜けるかもしれないと思った。
少女は途中で止まった。
横向きにもなれず、仰向けのまま、顔だけが相沢へ向いた。
黒い髪が頬へ落ちた。
青い瞳が、近いところで相沢を捉えた。
今度は視線が動かなかった。
高い音が一段上がった。少女の胸の奥で、小さな火花が弾けたような音がした。右の肩が一度だけ震える。それでも顔には何の変化もない。
滑らかな頬。閉じない瞼。光を宿した青い目。
それは苦しんでいるようには見えなかった。
そもそも、苦しむことがあるのかもわからなかった。
相沢は怖かった。
怖いのに、目を逸らせなかった。
少女の胸が、突然持ち上がった。
相沢は身を引いた。
胸が下がる。
もう一度、持ち上がる。
細い喉の奥で空気が鳴った。呼吸だった。そう見えた。しかし、その間隔は妙に正確で、最初の二回には乱れがなかった。
三度目が、少し遅れた。
相沢は自分の息を止めた。
少女の胸も止まった。
相沢が耐えきれず息を吸う。
少女も、同じ長さだけ息を吸った。
吐く。
少女も吐いた。
もう一度、吸う。
同じ速さで、吸った。
相沢は試しに、短く二度息を吸った。
少女の胸が、わずかに遅れて二度動いた。
今度は、できるだけゆっくり吸ってみた。途中で苦しくなり、最後だけ速くなる。少女の胸も同じ場所で速くなった。
偶然ではなかった。
相沢は胸の前へ手を置いた。
青い視線が、手の甲へ移った。
手を右へずらす。
視線も動く。
左へ戻す。
戻ってくる。
「真似するな」
少女は答えなかった。
呼吸だけはやめなかった。
青い瞳は相沢の胸元を見ていた。
少女は呼吸を始めたのではなかった。
相沢の呼吸を、覚えていた。




