夜の階段
三センチ進むと、台車の四つの車輪がそれぞれ違う声で鳴いた。
一つは低く唸り、一つは周期的に軋み、残り二つは鉄板の細かな振動を地面へ伝えた。全体として聞けば、長いあいだ放置された機械が、自分の仕事ではないと訴えている音だった。
相沢は押した。
少女と台車は、さらに三センチ進んだ。
この調子なら、門へ着くころには卒業している。
相沢は取っ手へ肩を当て、靴底を泥へ食い込ませた。最初の一回転を越えると、車輪はようやく動き始めた。動き始めれば少しは楽になる。ただし、止めるときには同じ苦労が逆向きに来るのだろう。百三十八・五キログラムは、数字でいるあいだだけおとなしかった。
台車を事務所の軒下まで運び、相沢は止まった。
空は濃い青へ変わり、スクラップの山は輪郭を失い始めている。明朝になれば作業員が戻り、選別機が動く。泥の跡と、そこから掘り出した少女を見つける。あとは大人の仕事になる。
それが正しい。
相沢は台車の上を見た。
少女は目を閉じ、灰色の服のまま横たわっていた。夕方より暗くなったせいで、肌の白さだけが浮いている。体温も呼吸も脈もない。人間なら救急車を呼ぶべきで、人間でないなら警察か、少なくともこの土地の持ち主である榊先輩へ知らせるべきだった。
問題は、その全部が今夜には間に合わないことだった。
事務所の回線は止まっている。榊先輩の家の番号は部室の名簿にしかない。道路沿いの公衆電話まで行くには、ここへ少女を置いていくか、台車ごと人目にさらす必要がある。警察へ何と説明するかも決まっていない。死体を見つけたと言えば救急車まで来るだろう。しかし、死体が台秤で百三十八・五キログラムあり、服は水を吸わず、皮膚は金属のように硬いと付け足した時点で、電話の向こうは長く黙るに違いなかった。
軒下へ置いて帰る。
警察まで運ぶ。
自分の部屋へ持ち帰る。
三つ並べると、最後の一つだけが明らかに間違っていた。
相沢は、間違っているものを選んだ。
一晩だけだ、と決めた。
明日の朝、榊先輩を連れてくる。それまで泥と機械の山から離し、誰にも潰されない場所へ置いておく。これは持ち帰るのではない。一時的に移動するだけである。距離が自分の六畳間まであることは、判断の本質には関係しない。
関係しないことにした。
相沢は古いシートを少女の肩までかけた。顔まで覆うと本当に死体を運んでいるように見えたので、そこだけは出しておいた。結果として、死体を隠すことに慣れていない犯人のようになった。
門を開けた。
夜の街へ、台車の音が出ていった。
昼間の熱はアスファルトの中に残っていた。川沿いの工場は窓を暗くし、道路には昼より湿った風が流れている。街灯の下を通るたび、少女の顔が白く現れ、すぐ闇へ戻った。
相沢は大通りを避けた。商店街にはまだ人がいる。駅前には交番もある。どちらも今の相沢には危険だった。工場裏の細い道を選び、閉じた倉庫と川の堤防の間を進んだ。
台車は隠密行動に向いていなかった。
継ぎ目を踏むたび、がしゃん、と鳴る。排水溝の蓋では四輪が順番に跳ね、少女の黒髪がシートの上で揺れた。相沢はそのたび足を止め、頭が台車の縁へ当たっていないことを確かめた。
遠くで単車の排気音がした。
音は川向こうの道路を走り、建物の隙間で何度か大きくなり、やがて消えた。その後の静けさで、台車の軋みは前よりひどく聞こえた。
一度、二階の窓が開いた。
相沢は街灯の届かない塀際へ台車を寄せ、息を止めた。窓から腕が出て、洗面器の水を排水管へ捨てた。水音がして、窓は閉まった。
少女は目を覚まさなかった。
「目を覚まされても困るけど」
小声で言ってから、相沢は考え直した。
やはり覚ました方がいい。自分で歩いてくれるなら、多少の説明不足には目をつぶれる。
堤防を離れる道は、途中から緩い下り坂になった。
相沢は取っ手を引き気味にして進んだ。最初はうまくいった。重さが自分から動いてくれる。登りで払った苦労が返ってきたような気さえした。
途中から、返ってきすぎた。
台車が相沢を押し始めた。靴底を擦っても速度が落ちない。取っ手が腹へ食い込み、足だけが前へ追い立てられる。坂の下には細い交差点があり、その向こうはコンクリートの壁だった。
「待て、待て、待て」
台車は待たなかった。
相沢は身体を横へ向け、全体重を取っ手へかけた。右の車輪が浮き、少女の身体がシートごと滑った。黒髪が台車の縁から落ちる。
相沢は片手を離し、頭の下へ腕を差し込んだ。
台車が歩道の縁石へ当たった。
鉄板が鳴った。相沢の奥歯も鳴った。
止まった。
少女の頭は、相沢の肘の上にあった。閉じた瞼は動かない。白い頬に、相沢の腕から落ちた汗が一滴ついた。灰色の服と違い、皮膚の上では消えず、そのまま細く流れた。
「ごめん」
今日、二度目だった。
相沢は少女を台車の中央へ戻し、シートの端を取っ手へ結び直した。それから坂の残りを、一歩ごとに止まりながら下った。
アパートへ着いたころには、八時を過ぎていた。
道路から見上げると、二階建ての建物は夜の中でさらに古く見えた。外壁のモルタルはところどころ剥がれ、錆びた外階段が二階の共用廊下へ伸びている。残っている入居者は相沢を含めて三世帯だったが、今夜、明かりがついているのは一階の端だけだった。
相沢の部屋は二階にある。
相沢は階段を見た。
少女を見た。
もう一度、階段を見た。
「設計が悪い」
建物の責任にした。
台車は下へ残すしかない。相沢は少女の下からシートを広げ、道具と一緒に運んできた手回しウインチを外階段の踊り場へ取り付けた。最初に手すりへ固定すると、試しに引いただけで全体が嫌な方向へ曲がった。慌てて外し、建物を支える太い鉄柱へ掛け直した。
シートの端をロープでまとめ、頭の下には畳んだタオルを入れた。相沢は一度、階段を上り、ウインチの前へ座った。
ハンドルを回した。
ロープが張った。
少女の身体が最初の段へ触れた。
どん、と建物全体が鳴った。
一階の明かりが消えた。
相沢も動きを止めた。
暗い窓の向こうで、テレビの音だけが続いている。誰も出てこない。寝るために消したのだと思うことにした。
もう一度、ハンドルを回した。
どん。
一段。
どん。
二段。
少女は一段上がるたび、百三十八・五キログラムの事実を建物へ報告した。鉄骨が低く震え、共用廊下の薄い床が共鳴する。相沢は三段ごとに下へ降り、頭と肩の位置を直し、また上へ戻った。
六段目で、ウインチのハンドルが逆回転した。
相沢の手の中から金属棒が跳ね、少女の身体が一段ぶん落ちた。ロープが張り、鉄柱が震えた。相沢はハンドルへ飛びつき、両腕で押さえた。
止まった。
今度は謝る息も残っていなかった。
十分かけて残りを上げ、共用廊下へ引き込んだ。部屋の鍵を開け、狭い玄関の段差を越え、流し台と壁の間を通す。最後に六畳間の畳へシートごと滑らせた。
畳の下で、床板が長く鳴った。
相沢は少女を自分の布団へ横たえた。泥のついたシートを抜き、灰色の服と髪についた汚れを、濡らしたタオルでできる範囲だけ拭った。
壁のスイッチを押した。
古い蛍光灯が二度明滅し、部屋を白く照らした。
スクラップ置場の夕暮れでは見えなかったものが、急に全部見えた。
細い手足。傷一つない裸足。縫い目のない灰色の服。閉じた目。泥を落とした黒髪。人間の少女として整いすぎているのに、人間の生活へつながるものを何一つ持っていない姿だった。
相沢は壁際へ座り込んだ。
首振り扇風機が、止まったまま二人を見ていた。
部屋の中で、かち、と音がした。
相沢は顔を上げた。
かち。かち。
少女の胸か、腹か、その奥で小さなものが縮んだり戻ったりしている。続いて、耳の奥へ針を入れるような高い音が始まった。古い軸受が限界まで回る音に似ていたが、部屋の扇風機は動いていない。
少女の瞼が開いた。
瞳は青かった。
青いというより、瞳の奥に細い光源がある。サファイア色の光が一度だけ強まり、天井、蛍光灯、窓、流し台、止まった扇風機の順に移った。
最後に、相沢で止まった。
見つめられた、と思った。
次の瞬間、青い視線は同じ速さで壁の染みへ移った。
見たのではない。
測ったのだ。




