拾得物
少女の指だった。
だから相沢は、三秒ほど何もしなかった。
考えることを止めたのではない。むしろ頭の中では、指に似た工業製品、精巧な義手、医療訓練用の人形、悪趣味な看板といった候補が、入口でつかえて押し合っていた。ただ、どの候補を通しても、最後には同じ二文字が残った。
死体。
相沢は泥から手を抜き、立ち上がりかけて、膝を棚板へぶつけた。乾いた音がした。痛みは一拍遅れてきた。
「うっ」
少女の指は動かなかった。
動かないことに安心していいのか、動いた方がよかったのか分からない。相沢は膝を押さえたまま周囲を見回した。作業員はいない。選別機は止まっている。事務所の窓にはカーテンが引かれている。蝉だけが、今までと同じ音量で鳴いていた。
「すみません!」
声は鉄の山に当たり、少し間の抜けた響きになって戻ってきた。
もう一度呼んだ。返事はなかった。
事務所まで走り、引き戸を叩いた。鍵がかかっている。脇の壁には外線電話の受話器があったが、耳へ当てても何も聞こえなかった。空域保全措置の最中は回線が止まることがある。掲示板にそう書かれていた気もするし、別の何かと混同している気もした。
道路まで出れば公衆電話がある。自転車なら数分だ。しかし、相沢はもう一度、敷地の奥を振り返った。
埋まっているのが本物の人間なら、まず呼吸を確かめるべきだった。
そうでなければ、それから考えればいい。
相沢は戻った。
白い指の周囲から、泥を取り除いた。金属片を踏まないよう膝をつき、軍手の上へ革手袋を重ねたまま、最初は両手で掻き出した。泥は表面だけ乾いて、その下では油と水を含んで重く粘った。指から手の甲、手首まで現れたところで、相沢は手を止めた。
傷がない。
あれだけの金属屑に埋もれていたのに、白い表面には切り傷一つなかった。泥の薄い膜の下に、細い血管の色まで見える。爪の根元は淡い桃色で、手首の内側には人間と同じ皺が走っている。
相沢は右手の手袋を外した。
人差し指と中指を、手首へ当てる。
硬い。
見た目には柔らかそうな皮膚が、指先を押し返した。石ほどではない。鉄とも違う。押せばほんの少し沈むのに、その奥で、まるで厚い板が支えている。体温はなかった。脈も分からない。
分からないだけかもしれない。
相沢は指の位置を変え、もう一度探した。やはり何も触れない。自分の指先の方が汗で滑り、心臓は他人の分まで働くつもりらしく、胸の内側を速く叩いていた。
「聞こえますか」
返事はない。
掘り出すしかなかった。
相沢は道具置場から、幅の広い金属製のちり取りと短いスコップを持ってきた。刃先を身体へ向ける気にはなれず、スコップで周囲を緩め、ちり取りで泥をすくった。ケーブルを切り、曲がった板をどけ、錆びたボルトを一つずつ拾う。日が傾くにつれ、泥の中から少女の腕が長くなっていった。
肘が現れ、肩が現れた。
灰色の布に包まれている。半袖のワンピースのように見えたが、襟もボタンもファスナーもない。泥を吸って色が変わっているはずなのに、生地は水を弾き、手で払うだけで元の灰色へ戻った。
相沢は見なかったことにした。
胸元まで掘ると、黒い髪が泥の中に広がっていた。一本ずつが細く、肩に届くくらいの長さがある。油の膜をかぶって束になっているのに、切れ毛は見当たらない。相沢は指で髪を分け、頭の下へちり取りを滑らせた。
顔が現れた。
相沢は、また三秒ほど止まった。
美人だと思った。
そう思ったことが、ひどく場違いだった。
閉じた目、真っ直ぐな鼻筋、薄い唇。人形めいた誇張はなく、どこかの学校ですれ違っても不思議ではない顔だった。ただ、泥と廃油の中に半分埋まり、息もしていない少女としては、整いすぎていた。死体ならあるはずの苦しさも、捨てられた物ならあるはずの傷もない。眠っているように見えるのに、眠りにつきものの隙がなかった。
相沢は顔の泥をタオルのきれいな端で拭いた。白い頬が現れた。触れると、手首と同じ冷たさがあった。
鼻先へ指をかざした。
息は感じない。
胸も動かない。
救急車を呼ぶべきだ、と相沢は思った。それは間違いない。問題は、何を救急車に乗せるのかだった。
少女の身体は、胸から下をまだ泥に埋めていた。相沢は脇の下へ腕を差し込み、上半身だけでも起こそうとした。
持ち上がらなかった。
力を入れる位置が悪かったのだと思った。足を開き、腰を落とし、背中を丸めないよう気をつけて、もう一度引いた。
少女は動かなかった。
相沢の背中だけが、いやな具合に動いた。
「待て」
誰に言ったのか分からなかった。
まだ下半身が何かに挟まっているに違いない。相沢はそう決め、さらに泥を掻き出した。腰が現れ、膝が現れ、最後に灰色の布から伸びた裸足が出てきた。両足は揃い、足首にも傷がない。下には薄い鉄板が一枚あるだけで、鎖も、埋まった支柱も、重量物もなかった。
少女だけだった。
相沢は地面へ座り込んだ。
全身を掘り出してみると、背丈は相沢より頭一つ低い。肩も腕も細い。これで持ち上がらないなら、相沢の筋力が夏休み初日に消滅したことになる。
試しに両足首を持ち、引いてみた。
動いた。
ほんの三センチ。
泥の上に、身体の形をした深い跡が残った。引けないのではない。重いのだ。
相沢は胸ポケットから録音機を出した。
再生した。
『八本だ』
停止した。
何の役にも立たなかった。
道具置場の裏に、荷物を運ぶ低い台車があった。作業員がネコと呼んでいる、鉄板に四つの車輪をつけただけのものだ。相沢はそれを押して戻り、少女の横へ並べた。
腕で抱き上げるのは諦めた。古いシートを身体の脇へ敷き、少しずつ傾けて下へ滑り込ませる。曲がった鉄骨へ手回しウインチを固定し、シートの端をロープで結んだ。どう見ても、人命救助よりエンジンの積み替えに近かった。
「ごめん」
少女は抗議しなかった。
物なら、もっと簡単だった。ロープを首へ掛けても文句は出ないし、腕が変な方向へ曲がっても気にせず引ける。人間なら、そもそもこんな方法を選ばない。目の前にあるものは、そのどちらの扱いも許さなかった。肘も膝も眠っている人間と同じ角度に曲がり、首は支えなければ重さに従って傾く。それなのに、身体のどこへ触れても、見た目から想像する柔らかさの奥に、動かしようのない密度があった。
相沢はロープが身体へ直接触れないよう、シートの端だけに結び直した。
ハンドルを回すたび、ウインチがぎり、ぎり、と鳴った。ロープが張り、シートが泥の上を滑る。少女の身体がゆっくり動き、台車の縁へ触れた。相沢は頭をぶつけないよう片手を添え、もう片方でハンドルを回した。三回回しては位置を直し、五回回しては息を整えた。
途中で台車が逃げた。
相沢は脛で止めた。
脛が負けた。
台車を戻し、車輪へ鉄片を噛ませ、最初からやり直した。汗が顎から落ち、灰色の布に丸い跡を作った。その跡も、数秒すると生地の表面から消えた。
日が波板塀の向こうへ半分沈んだころ、少女はようやく台車の上へ横たわった。
四つの車輪が、揃って低く軋んだ。
相沢はその場へ仰向けになった。空はまだ明るい。薄い雲が一筋だけ浮かび、そのさらに上を、光るものが音もなく西へ移動していた。飛行機だろうと思った。翼は見えなかったが、遠ければそんなものかもしれない。
一分休んでから起き上がった。
事務所の脇には、金属を買い取るための台秤がある。相沢は空の台車を一度載せ、表示をゼロへ合わせた。それから少女を載せた台車を、両手で押して秤へ上げた。
赤い数字が点灯した。
`138.5`
相沢は表示を見た。
少女を見た。
もう一度、表示を見た。
台車を降ろし、自分が秤へ乗った。見慣れた数字が出た。降りてゼロを確認し、少女を載せ直した。
`138.5`
数字は変わらなかった。
相沢より二人ぶん以上重い。
少女は目を閉じたまま、台車の上に収まっていた。細い手首も、灰色の服も、泥を拭った白い頬も、その数字を受け入れる場所をどこにも持っていない。相沢は、自分が見落としている何かを探すように、頭から裸足まで見直した。
何も分からなかった。
分かったのは、もうすぐ日が暮れることと、泥の中へ戻すわけにはいかないことだけだった。
「とりあえず、ここから出よう」
返事はない。
相沢は台車の取っ手を握り、押した。
台車は三センチ進んだ。




