殺意の午後
七月二十五日の午後、暑さには重さがあった。
肩にのしかかり、頭のてっぺんを押さえつけ、呼吸をするたび肺の奥へ少しずつ溜まっていく。相沢はサカキ金属のスクラップ置場で、その重さを全身に受け止めながら、壊れた業務用冷蔵庫とコピー機の隙間へ右腕を突っ込んでいた。
目当てのものは、ない。
手を引き抜くと、軍手の甲に黒い油が一本ついてきた。汗を拭えば額まで油まみれになる。拭わなければ汗が目に入る。相沢は人類が長い歴史の果てに獲得した二つの選択肢を慎重に比較し、目を閉じて、汗が通り過ぎるのを待った。
まぶたの裏まで暑かった。
胸ポケットの中で、銀色の録音機が鳴った。
『型番はWR-XS3。横幅はだいたい三十センチ。フェーダー八本。側面に赤い封印がある。見ればわかる』
榊先輩の声だった。これで十四回目である。
相沢は録音機を止めた。停止ボタンの隣には削除ボタンもあったが、押しても無駄だった。元の録音は榊先輩が持っているし、その榊先輩は、相沢が指示を忘れる可能性を人類滅亡と同程度の確率で警戒していた。
『日が暮れるまでに頼む。これは部長命令ではない。先輩から後輩への、純粋に教育的なお願いだ』
そこで一拍、録音の向こうから紙をめくる音がする。
『なお、発見できなかった場合、先週のマイク試験で君が歌ったものを、夏休み明け最初の昼放送に使用する』
お願いには、罰則がついていた。
相沢は録音機を胸ポケットへ戻し、冷蔵庫の陰から這い出した。立ち上がっただけで視界の端に細かな光が飛んだ。頭上では蝉が鳴いている。鳴くというより、空気そのものを薄い刃物で削っているような音だった。スクラップの山に反射した声が四方から戻り、どの木に何匹いるのか見当もつかない。百匹かもしれないし、一匹が異常に頑張っているだけかもしれなかった。
どちらでも腹は立つ。
サカキ金属の敷地は、表の道路から見るより奥に深い。錆びたフェンスの内側に、金属の山がいくつも並んでいた。洗濯機の白い胴、潰れた自動販売機、ブラウン管の抜かれたテレビ、アンテナを根元から切断された無線機。廃油と焼けたゴムの匂いが、熱せられた鉄板から陽炎と一緒に立ち上っている。
事務所の屋根に取り付けられた有線スピーカーが、ひび割れた女の声を流した。
『本日十三時四十分より、第三空域に保全措置が実施されています。許可を受けていない送信機器は、電源部を含めて使用しないでください。繰り返します』
二度目の文句が始まる前、スピーカーの向こうで、小さな白い光が西の高空を横切った。雲の切れ端にも、陽炎に揺れた鉄の反射にも見えた。音はしなかった。
誰も聞いていなかった。
少なくとも、山の向こうで鉄材を選別している作業員は顔も上げなかった。相沢も続きを聞かなかった。送信機を持っていない人間にとって、送信禁止の知らせは天気予報より役に立たない。雨なら洗濯物を取り込めるが、空域を保全しろと言われても、空は最初から相沢の持ち物ではなかった。
相沢は首にかけたタオルで、今度こそ汗を拭いた。
帰りたい。
帰ったところで、取り壊しを待っている木造アパートの六畳間があるだけだった。エアコンはない。壁は薄い。流し台の蛇口は閉めても三分に一滴ずつ水を落とす。親の転勤についていけば、少なくとも冷房のある部屋には住めたはずだ。
しかし転校には書類が要る。新しい教室では自己紹介までしなければならない。相沢はそれらを総合的に勘案し、築年数を数えることが建物への侮辱になるアパートと、高校二年生の一人暮らしを勝ち取った。自由には責任が伴う。そして責任には、電気代を恐れながら回す中古の首振り扇風機が伴った。
今ごろ、あの扇風機は無人の部屋で停止している。
想像すると、少しだけ涼しくなった。気のせいだった。
扇風機も、去年この置場から拾ったものだった。青い台座には黄色く変色した速度ボタンが三つ並んでいるが、弱と中は同じ速さで、強だけが命の危険を感じたように回る。首を左へ振るのに六秒、右へ戻るのに七秒。右端では必ず、きゅ、と小さく鳴った。
モーターを洗い、切れた線をつなぎ、榊先輩から半ば強奪したコンデンサーを入れるまで三晩かかった。冷房器具としての能力は、窓から入る熱風を部屋の中で公平に分配する程度しかない。それでも止めると、六畳間の空気はすぐに壁と同じものになった。相沢は毎晩、あれが扇風機であることを信じて眠っていた。
そう考えると、スクラップ置場にも恩がないわけではなかった。
恩は昨日までに返済済みということにしたかった。
相沢は肩を落とし、次の山へ向かった。
WR-XS3が何をする機械なのか、榊先輩は教えなかった。八本もフェーダーがあるなら音を混ぜるものだろう、と相沢は見当をつけていた。放送部の備品にするつもりなのか、分解して部品を取るのか、枕元に置いて眺めるのかまでは知らない。榊先輩は音響機器に関してだけ、拾った犬を全部家へ連れて帰る子どもに似ていた。違うのは、犬なら自分で歩くという点である。
三十分ほど探して、相沢はフェーダーが四本の卓上ミキサーを見つけた。半分だが、努力を評価してもらえる可能性はある。
録音機を再生した。
『八本だ』
停止した。
別の山では、十二本のものが出てきた。多いぶんにはよさそうに思えたが、側面に赤い封印がなかった。念のため持ち上げようとすると、底が抜け、内部から乾いた鼠の巣が落ちた。
相沢は静かに元へ戻した。
太陽が少し西へ傾いても、暑さは退かなかった。ただ攻撃する角度が変わり、今度は横から耳を焼き始めた。金属の山へ落ちた相沢の影は黒く短く、その影の中に逃げ込めるほど相沢自身は小さくない。
作業員の姿はいつの間にか消えていた。選別機の音も止まっている。事務所の窓には内側からカーテンが引かれ、敷地に残っている動くものは、蝉と相沢と、フェンス際で舌を出している痩せた犬だけになった。
犬は相沢を見た。
相沢も犬を見た。
日陰は犬が使っていた。
交渉の余地はなさそうだった。
相沢は腰のペットボトルを振った。底に二口ぶん残っている。中身はもう水というより、透明で味のないお湯だった。足元から縁の丸いアルミ皿を拾い、油がついていないことを確かめてから、一口ぶんを注いだ。
犬はすぐには近づかなかった。相沢が三歩離れると、ようやく日陰から鼻だけを出した。
これで、この置場にいる動物の中で、相沢だけが水を飲んでいなかった。
「あと一山」
声に出したのは、自分との約束を録音機に聞かせるためだった。榊先輩が遠隔で聞いているわけではない。それくらいは分かっている。それでも胸ポケットの銀色の板には、本人より本人らしい悪意が宿っている気がした。
最後に選んだのは、敷地のいちばん奥、崩れかけた波板塀のそばにある低い山だった。大型機械の外装ではなく、細かな部品やケーブル、基板を抜かれた筐体が捨てられている。先週の夕立で地面がぬかるみ、油の膜を浮かべた泥水が、轍の底にまだ残っていた。
相沢は錆びた棚板をどけ、束になったケーブルを引いた。黒いコードの先から、端子のない切断面が現れる。次に出てきたのは扇風機の保護網だった。羽根も台座もなく、丸い網だけが巨大な虫の抜け殻のように泥へ刺さっている。
縁起でもない。
網を放ると、その下で何か白いものが見えた。
最初は、塩化ビニールの管だと思った。泥の中から、細く滑らかなものが五センチほど出ている。西日を受けても黄ばみがなく、傷もない。スクラップ置場にあるものとしては、妙に新しかった。
相沢はしゃがみ込んだ。
白いものは、泥の下へ斜めに続いている。周囲には細い金属片が散らばっていた。手を入れるには危ない。相沢は軍手の上からもう一枚、作業用の革手袋を重ね、金属片を一本ずつ拾って脇へ置いた。
そこでやめてもよかった。
探しているのは音響機器である。泥に埋まった白い管が何であれ、フェーダーが八本ついている可能性は低い。日も傾いている。帰って水を浴び、扇風機の前で、榊先輩を文化的かつ合法的に破滅させる方法を考える方が有意義だった。
相沢は泥へ手を入れた。
見えているものを、そのままにして帰るのが苦手だった。
指先が白い表面へ触れた。
冷たかった。
冷蔵庫の中のような冷たさではない。熱がないというより、周囲の熱を拒んでいるような温度だった。革手袋と軍手を重ねているのに、冷たさだけが真っ直ぐ皮膚へ届いた。
相沢は手を止めた。
管ではない。
表面には、ごく浅い皺があった。先端には半透明の薄い板がついている。泥を親指で払うと、白いものは一本ではなく、その横にもう一本、その下にさらに三本、静かに揃っていた。
爪だった。
五本の指が、泥の下から出ていた。




