外部のノイズ
コロッケを二つ、皿へ並べたところで、外階段が鳴った。
かん。
かん。
かん。
一段ごとに、迷いのない足音が近づいてくる。
相沢は箸を止めた。
このアパートを訪ねてくる人間は少ない。取り壊し予定の建物へ用があるのは、住んでいる者か、住んでいる者へ用がある者だけだ。
両親は転勤先にいる。
大家は昼間しか来ない。
残る一人に心当たりがあった。
「相沢」
廊下から声がした。
心当たりが正解した。
「いるのはわかっている。おまえの自転車が下にある」
榊弦一郎だった。
相沢はナナを見た。
ナナはコロッケを見ていた。
「隠れて」
「隠れる」
「見つからないところへ」
ナナは六畳間を見回した。
ちゃぶ台の下は入らない。流し台の下も無理だった。百三十八・五キログラムを隠せる場所は、体積より先に耐荷重で限られる。
相沢は押入れを開けた。
下段の布団と衣装箱を引きずり出す。
「ここ」
ナナは暗い空間を見た。
「榊。危険」
「身体にはたぶん。人生には少し」
戸を叩く音がした。
「相沢。開けろ。鍵を壊すと大家がうるさい」
壊すこと自体は問題にしていなかった。
「早く」
ナナは押入れへ入った。
片足を置く。
底板が沈む。
もう片方を置く。
みし、と壁の奥まで音が走った。
「待って」
相沢は本棚の横から合板を持ってきた。押入れへ二枚並べ、荷重を散らす。ナナはその上へ正座した。
頭が上の棚へ触れそうだった。黒い髪を手で押さえ、身体を小さくする。
見た目だけなら、かくれんぼをしている少女だった。
押入れ全体が数ミリ沈んでいることを除けば。
「ここにいて。音を出さない」
「理解」
襖を閉めた。
直後、玄関の戸が開いた。
鍵をかけ忘れていた。
「入るぞ」
許可より報告が遅かった。
榊が靴を脱ぎ、流し台の横を通ってきた。
高校三年生。放送部長。サカキ金属の一人息子。背が高く、夏でも長袖の白いシャツを肘まで捲っている。肩から黒い機材鞄を下げ、右手には練乳のチューブを持っていた。
相沢を放送部へ引きずり込んだのも榊だった。
一年の春、誰もいない視聴覚室で、廃棄予定のオープンリールデッキを分解していたところを見つかった。怒られると思った。榊は怒る代わりに、床へ転がっていたキャプスタンを拾い、回転むらが何パーセントあると思う、と聞いた。
答えられなかった相沢へ、では測るぞ、と言った。
それ以来だった。
榊は人間の話を半分しか聞かない。その代わり、人間が聞き流す音を全部聞いている。蛍光灯の安定器が切れる三日前の唸りも、放送室の壁を走る鼠も、相沢がマイクの前で嘘をついたときに唾を飲む音も聞き逃さなかった。
そういう人間を、いま、この部屋へ入れてしまった。
チューブの蓋を開け、直接吸う。
「先輩、それを夕食にするのはやめた方がいいです」
「これは栄養補助だ」
「主食が別にある人の言い方です」
榊は答えず、六畳間を見回した。
視線が二枚の皿で止まった。
「二人分だな」
「一人で二つ食べます」
「コロッケは二つとも同じ向きに切ってある」
相沢は皿を見た。
ナナが揃えたものだった。
「几帳面になりました」
「三日前まで放送室のケーブルを結び目ごと床へ放置していた人間が?」
「人は変わります」
「二日で?」
「夏ですから」
自分でも意味がわからなかった。
榊は練乳をもう一口吸った。
「WR-XS3はどうした」
本題が来た。
「見つかりませんでした」
「見つからなかった人間は、普通、その日のうちに報告へ来る」
「熱中症になりかけまして」
「翌日は」
「後遺症が」
「今日は」
「買い物を」
榊の視線が、紙袋へ移った。
白いシャツの袖が少しだけ覗いていた。ナナが帰宅して脱いだものだ。
相沢は足で袋の口を閉じた。
「おまえ、何を隠している」
「何も」
押入れの底板が鳴った。
みし。
榊が押入れを見た。
相沢は扇風機の強ボタンを押した。
羽根が命の危険を感じたように回り、六畳間へ轟音を撒いた。
「暑いですね」
「止めろ」
「暑いので」
「音が聞こえない」
「それが目的です」
言ってから失敗に気づいた。
榊は扇風機のボタンを押した。
羽根が止まった。
静寂の中で、押入れから、かち、と小さな音がした。
ナナの身体の中で鳴る音だった。
榊の目が細くなった。
「そこか」
相沢は押入れの前へ立った。
「先輩。帰ってください」
「WR-XS3を探しに行った後輩が二日消え、部屋から未知の機械音がする」
「冷蔵庫です」
「おまえの冷蔵庫は右にある」
「新しい冷蔵庫です」
「押入れに?」
榊が近づいた。
相沢は動かなかった。
ここで退けば、あとは榊が押入れを開ける。
榊は壊さない。少なくとも、意味もなく壊す人間ではない。見つけたものを調べ、測り、何であるかを突き止める。それはいつもなら、相沢も同じ側に立つ行為だった。
スクラップ置場から拾ってきた機械を、二人で夜まで分解したことがある。焦げた基板を洗い、通電し、火花が出れば笑った。名前のわからないものは型を調べ、用途のわからないものは端子を追った。
だが、押入れの中にいるものを、そうされたくなかった。
理由は説明できない。
ナナは重く、熱く、ときどき身体の中で音を立てる。人間ではない。それでも、今朝は掃除機に敗北し、夕方にはコロッケを二つ選び、帰り道では相沢と一つの袋を持った。
調べれば、それらが何でできているかはわかるかもしれない。
けれど、それらが何であったかまで、計器に決められたくはなかった。
相沢は押入れの前で、両足へ力を入れた。
「どけ」
「嫌です」
榊は相沢の肩へ手を置いた。
強く押したわけではない。
相沢の身体が半歩ずれた。
襖が開いた。
内側からだった。
ナナが立っていた。
狭い押入れの中で身体を起こし、片手で上段の棚を支えている。棚板は中央から外れかけていた。ナナが押さえていなければ、布団ごと落ちていた。
「相沢」
ナナは榊の手を見た。
次に、相沢の肩を見る。
押入れから一歩出た。
どん、と床が鳴った。
相沢と榊の間へ入る。
「大丈夫」
相沢へ言った。
榊は手を離した。
ナナは榊を見上げた。
表情はない。
右手は身体の横へ下ろされ、指先だけが少し曲がっていた。
「ナナ、平気だから」
「大丈夫」
「うん。大丈夫」
ナナの指が伸びた。
榊はナナの顔を見た。
灰色の服を見る。
裸足を見る。
最後に、沈んだ畳を見た。
「誰だ」
「親戚です」
「親戚。違う」
ナナが即座に訂正した。
榊が相沢を見る。
「妹です」
ナナが相沢の横から訂正した。
「妹。違う」
相沢はナナを手で制した。
「ナナ、少し黙って」
「理解」
相沢は榊へ向き直った。
「事情があります」
「見ればわかる」
「聞かないでください」
「それは無理だ」
榊は機材鞄を床へ下ろした。
金属の留め具が鳴る。中に入っているのは、放送部の録音機材と計測器だろう。
だが、鞄を開けなかった。
練乳のチューブも、いつの間にか机へ置かれていた。
「ナナ、と呼んだな」
「はい」
「名字は」
相沢は答えに詰まった。
榊はナナへ聞き直した。
「おまえの名前は」
ナナは相沢を見た。
名前を尋ねられたのはナナなのに、答えを探すように、まっすぐ相沢の顔を見た。それから榊へ視線を戻す。
「ナナ」
「名字は」
「ない」
「どこに住んでいる」
ナナは部屋を見回した。
ちゃぶ台。二枚の皿。古い扇風機。流し台の脇に干された、四角い雑巾。
「ここ」
その答えを、相沢は知らなかった。
昨日までは、拾ってきたものを置いているだけの部屋だったはずだ。いつからここが、ナナの住んでいる場所になったのか。決めた記憶はない。
それでも訂正する気にはならなかった。
榊は目を閉じた。
「もう一歩、歩いてみろ」
ナナは動かない。
「ナナ。動かなくていい」
相沢が言った。
榊が床へしゃがんだ。
指先で畳へ触れる。ナナの足元に残る深いへこみを押し、次に自分の足音を確かめるように踵を一度落とした。
とん、と軽い音がする。
榊は立ち上がった。
「相沢」
「何ですか」
「その子が押入れから出たとき、床下の梁が鳴った」
「古い建物ですから」
「違う」
榊はナナを見た。
「女の子が一歩歩いた音じゃない」




