無駄な電気
「では、何の音です」
相沢が聞いた。
榊は答えなかった。
ナナが答えた。
「百三十八・五キログラムの移動音」
蝉の声が、開け放した窓から六畳間へ押し寄せていた。
榊はしばらくナナを見た。それから、机へ置いた練乳のチューブへ手を伸ばした。蓋を閉める。たぶん、本人なりに真剣になったのだ。
「もう一度言え」
「総重量、百三十八・五キログラム」
「服を含むか」
「含む」
榊は畳へ視線を落とした。
相沢も落とした。
ナナの裸足の下で、畳表がゆっくりと沈んでいる。見慣れてしまえば、そういうものだと思える程度の変化だった。思ってはいけないものを、相沢はこの二日でずいぶん増やしていた。
「先輩」
「何だ」
「聞かなかったことにできますか」
「できると思うか」
思わなかった。
榊は黒い機材鞄の留め具を外した。
相沢はナナの前へ出た。
「何をするつもりです」
「聞く」
「もう聞いたでしょう」
「中をだ」
「駄目です」
「切らない。開けない。壊さない」
「最後のは、実行できる人が言う台詞です」
榊が鞄から、小さな銀色の録音機を取り出した。
角が擦れ、液晶の表面には細い傷が走っている。Sony ICD-MS1。放送室では誰も触らせてもらえない、榊の私物だった。
次に出てきたのは、五百円玉ほどの薄い円盤と、銅線を巻いた輪、それから煙草の箱くらいの黒い箱だった。どれにも細いケーブルが生えている。
「接触型のピックアップだ。表面の振動を電気へ変える。こっちは磁場を拾う。服の上から当てるだけだ」
「何がわかるんです」
「わからない」
榊は即答した。
「聞けば、何がわからないかはわかる」
それは榊が機械を調べるとき、いつも最初に言う言葉だった。
相沢はナナを見た。
「嫌なら、断っていい」
「嫌」
ナナは一度だけ瞬いた。
「定義を要求」
「やられたくないなら、やらなくていいってこと」
ナナは銀色の録音機を見た。
円盤を見る。
最後に、相沢を見る。
「相沢は、結果を必要としている」
問いではなかった。
昨日、右手が動かなくなったこと。今朝、掃除の途中で一秒ほど止まったこと。動くたびに、身体のどこかで乾いた音がすること。
相沢は知りたかった。
知ることで何かを失う気もした。それでも、壊れかけているのに見ないふりをすることは、ナナを少女として扱うこととは違う。
「知りたい。でも、ナナが嫌ならやらない」
ナナは数秒、黙っていた。
「不快ではない」
「痛くなったら止めるから」
「痛覚閾値を超える可能性は低い」
安心させるには向かない答えだった。
榊は畳へ正座し、黒い箱から二本のケーブルを引き出した。円盤をナナの鎖骨の下へ、服の上から紙テープで留める。銅線の輪は左手首へ巻いた。
ナナは動かなかった。
相沢は隣へ座った。
榊が録音機のボタンを押す。
赤いランプが点いた。
最初に聞こえたのは、扇風機だった。
かた、かた、かた。
首を振るたび、軸の奥で何かが擦れている。
榊はヘッドホンの片側を外し、扇風機を止めた。
蝉の声が残った。
窓を閉めた。
今度は、冷蔵庫の圧縮機が低く唸っていた。電源を抜く。
六畳間から、生活の音が一つずつ消えた。
最後に残ったのは、ナナだった。
ヘッドホンの中の音を、相沢は聞けない。
榊の顔なら見えた。
はじめは、いつもの顔だった。眉間に皺を寄せ、嫌いな音と好きな音を同じ熱心さで聞く顔。
やがて、皺が消えた。
榊が録音機の液晶を確かめる。黒い箱のつまみを絞り、もう一度上げる。接触が悪いと思ったのか、円盤を指で押さえた。
「動くな」
ナナは動いていない。
「呼吸も止めろ」
ナナの胸が止まった。
あまりに簡単に止まったので、相沢のほうが息を忘れた。
静止したナナの内側から、それでも音は出ていた。
相沢にも、かすかに聞こえた。
高く細い音。
その下に、もっと速い音がある。耳で一つずつ数えられないほど細かな連続音が、重なっている。さらに低いところで、遠雷のような振動が一定の間隔で畳へ伝わった。
一つの機械が出す音には聞こえなかった。
榊はヘッドホンを外した。
「これを、誰が作った」
「知りません」
「どこで拾った」
「それも言えません」
「言えないのか、知らないのか」
相沢は答えなかった。
榊も同じ質問を繰り返さなかった。
代わりに、ナナへ右手を上げさせた。指を一本ずつ曲げさせる。首を左右へ動かし、目を閉じ、開かせる。
動作のたびに、録音機の表示が違う形で震えた。
「右の小指」
ナナの小指が曲がる。
「左の目」
左目だけが閉じる。
「声」
「出力内容を指定」
榊は少し考えた。
「自分の名前」
ナナは相沢を見た。
「ナナ」
銀色の録音機に、小さな波形が立った。
それだけだった。
榊は黒い箱のつまみを戻した。
「もういい」
紙テープへ指をかける。
そのとき、ナナの右手が震えた。
ほんの一度だった。
親指と人差し指が、何かを掴み損ねるように閉じ、開いた。
相沢は反射的に身を寄せた。
「ナナ、無理するな」
黒い箱が破裂した。
ぱちん、と乾いた音がした。
青白い光がケーブルの根元を走る。銀色の録音機から耳を刺す音が噴き出し、液晶の目盛りが端まで埋まった。
榊がケーブルを抜く。
焦げた臭いがした。
ナナは動いていなかった。
右手の震えも止まっている。
「痛いか」
「痛覚反応なし」
「本当に?」
「本当」
相沢は鎖骨の下の円盤を剥がした。服にも、その下の皮膚にも、焼けた跡はない。
剥がした円盤は生温かかった。
装置が熱を持ったのか、ナナの身体から移ったのか、相沢にはわからなかった。確かめるために、円盤のあった場所へ手の甲を当てる。
ナナは避けなかった。
触れた皮膚は、人間のものと変わらない温度だった。
榊は黒い箱を開けていた。
中から、米粒ほどの部品を取り出す。中央が黒く割れている。
「保護素子が焼けた」
「壊さないと言いませんでしたか」
「壊されたのは俺だ」
榊は割れた部品を畳へ置いた。
「何をした」
ナナへ聞く。
「不明」
「ここから電気が出た」
榊が銅線の輪を示した。
「接続していない。誘導だけで保護を抜いた。偶然では出ない」
ナナは自分の左手首を見た。
「要求されていない出力を検出」
「何のための出力だ」
「不明」
榊は黙った。
録音機を操作し、今の音を再生する。
相沢の声が入った。
ナナ、無理するな。
直後に、鋭い雑音が重なる。
榊は巻き戻した。
もう一度。
相沢の声。
雑音。
「先輩」
「声紋かもしれない」
「何の話です」
「おまえの声が引き金になった可能性がある」
「一回だけでしょう」
「だから確かめる」
「嫌です」
相沢は即座に言った。
「壊れたのは先輩の箱だけでも、次もそうとは限らない」
「相沢」
ナナが呼んだ。
「再現性の確認は必要」
「ナナまで何を言ってるんだ」
「原因が不明」
「だからだよ」
ナナは相沢を見た。
サファイア・ブルーの瞳に、不安はなかった。少なくとも、相沢には見つけられなかった。
あるのは、待つ姿勢だった。
相沢が決めるのを待っている。
それがいちばん困った。
「一回だけ」
相沢は榊へ言った。
榊は新しい保護素子を黒い箱へ差した。銅線の輪だけをナナの手首へ戻し、接触型の円盤は外したままにする。
「先に俺が呼ぶ」
榊が録音を始めた。
「ナナ」
何も起きなかった。
液晶の目盛りは、ナナの内部音に合わせて細かく震えている。
榊がもう一度呼んだ。
「ナナ」
変わらない。
相沢の番になった。
声を出すだけなのに、喉が乾いた。
「ナナ」
ナナの瞳が相沢へ向いた。
同時に、目盛りが跳ねた。
黒い箱の中で火花が咲いた。今度は保護素子が耐え、細い煙だけが上がる。
録音機の脇に置かれていた小さなワッシャーが、紙テープの上で跳ねた。落ちるときには真下ではなく、ナナの手首へ向かって一センチほど滑った。
榊はそれを見た。
何も言わなかった。
榊がすぐに輪を外した。
ナナの右手は動いていない。呼吸も、表情も変わらない。
ただ、相沢を見ていた。
榊は録音機の停止ボタンを押した。
部屋へ蝉の声が戻ってきた。
窓は閉まっているのに、壁を突き抜けて鳴いていた。
「ナナ」
榊が言った。
反応はない。
「相沢」
「何ですか」
榊は焼けた保護素子と、ナナと、相沢を順に見た。
「おまえが呼ぶと、こいつは必要のない電気を使う」




