熱帯夜
榊は、焼けた保護素子を持って帰った。
「明日、部室へ来い」
玄関で靴を履きながら言った。
「行きません」
「来い」
「この状況で、ナナを一人にできません」
「連れてくればいい」
「さっきまで押入れへ隠していた意味を考えてください」
榊は振り返り、六畳間の中央に立つナナを見た。
「床を抜くなよ」
「努力します」
相沢が口を挟んだ。
「ナナが」
「私が?」
榊は相沢へ視線を戻した。
「おまえもだ」
それだけ言って、榊は外階段を下りていった。
かん。
かん。
足音が小さくなり、最後にアパートの門が鳴った。
相沢は開いたままの玄関を閉めた。
鍵をかける。
それから、もう一度開けて廊下を見た。
榊の姿はなかった。階段の下にも、道路にもいない。自転車のブレーキが一度鳴り、遠ざかっていく。
「榊は、第三者へ報告する」
背後でナナが言った。
「わからない」
「相沢は確認しなかった」
「聞いても約束しない人だから」
榊は、秘密を守るとは言わなかった。見逃すとも、味方になるとも言わなかった。焼けた部品を拾い、録音機を鞄へ戻し、明日部室へ来いと言っただけだった。
それでも、相沢は追いかけなかった。
榊はわからない音を嫌う。嫌うから、わかるまで他人へ渡さない。自分の耳で確かめる前に、誰かの説明を受け入れることもない。
その偏執を、相沢は少しだけ信じていた。
「たぶん、今夜は言わない」
「根拠」
「先輩が何もわかってないから」
ナナは玄関を見た。
「相沢も、何もわかっていない」
「知ってる」
わかっていない者が、二人から三人へ増えた。
秘密と呼ぶには、まだ人数が多すぎる気がした。
八時を少し回っていた。
部屋には、榊が止めたものが残されていた。電源を抜かれた冷蔵庫。閉じられた窓。止まった扇風機。それから、皿に載った二つのコロッケ。
「夕食にしよう」
「夕食」
「予定より二時間遅いけど」
「許容範囲」
コロッケは冷めていた。
衣が油を吸い、箸を入れても音がしない。相沢はソースをかけた。ナナは相沢がしたのと同じ量を、同じ場所へかけた。
二人で食べる。
榊の残した言葉について、ナナは何も言わなかった。
必要のない電気。
相沢も聞かなかった。
今は、冷めたコロッケを食べる方が先だった。世の中には、答えが出ないままでも夕食の時間になる問題がある。
半分ほど食べたところで、汗が顎から落ちた。
相沢の汗だった。
閉め切った六畳間は、昼間の熱を壁の中へ溜めていた。窓を開ける。入ってきたのは、外で温め直された風だった。
冷蔵庫の電源を差す。
圧縮機が唸り始める。
扇風機のコードも差した。
弱のボタンを押す。
羽根が頼りなく回り、金網に積もった埃を一度だけ吹き上げた。弱と中は同じ速さで、強だけが壊れそうになる。相沢は弱のまま、つまみを押して首を振らせた。
扇風機が左へ向く。
六秒。
ナナの髪が揺れた。
首が右へ戻る。
七秒。
相沢へ風が来た。
汗が少し冷える。
右端で、きゅ、と鳴った。
故障ではない。少なくとも、去年から故障の程度は変わっていない。
相沢はコロッケを食べ終えた。
ナナの皿も空になった。
「おいしい」
食べ終わってから言った。
「遅くない?」
「評価に時間を要した」
「二十分?」
「ソース、酸味、油脂、温度低下を含む」
「冷めてたって言いたいなら、そう言えばいい」
「冷めていた」
相沢は皿を重ねた。
ナナが受け取ろうと手を出す。
指が触れた。
熱かった。
熱い鍋へ触れたような熱さではない。風呂上がりの人間へ触れたときのような、湿り気を帯びた体温だった。
相沢はナナの手を掴んだ。
「止まって」
ナナが止まる。
手首へ指を当てた。
脈はある。
一定の速さで、皮膚の下を打っている。人間の脈と区別できない。そのことが、今はかえって不安だった。
ナナは手を引かなかった。
相沢が掴んでいられるように、百三十八・五キログラムの身体のうち、手首だけをそこへ残していた。力を抜かれたら、相沢の腕では一秒も支えられないはずだった。
そう考えた途端、触れていることが急に大げさな行為に思えた。
相沢は指の力を少し緩めた。
ナナの手は離れなかった。
「熱くないか」
「外気温が高い」
「ナナのことを聞いてる」
「表面状態は許容範囲」
許容範囲という言葉は、大丈夫という意味ではない。
相沢は手を離さず、反対の手をナナの額へ当てた。
額も熱い。
髪の生え際に、細い汗が浮いている。汗はこめかみを伝い、頬の途中で止まっていた。蛍光灯の光を受けた皮膚が、うっすら白く光って見える。
熱で空気が揺れているだけかもしれなかった。
相沢は流し台へ行き、手拭いを水で濡らした。
絞る。
ナナの首へ巻く。
「冷却効果は限定的」
「知ってる」
「室温以下にはならない」
「それも知ってる」
「では、なぜ実行する」
「何もしないよりましだから」
ナナは黙った。
手拭いの端から水が一滴落ちた。
灰色の服の襟へ染み込み、色を濃くする。
相沢は冷凍室を開けた。製氷皿には、角の丸い氷が六個あった。ビニール袋へ入れ、もう一枚の手拭いで包む。
ナナの頭へ載せた。
「姿勢を説明」
「頭を冷やす」
「冷却対象として非効率」
「見た目は効きそう」
「見た目」
ナナは頭に氷を載せたまま、相沢を見た。
黒い髪。白い顔。青い瞳。頭の上には、台所用の手拭いで包んだ氷。
深刻な状況のはずなのに、相沢は少し笑った。
「ごめん」
「謝罪理由を要求」
「似合ってる」
「評価を受領」
口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのか、表情の調整に失敗したのか、相沢にはわからなかった。
「水を浴びるのは」
「外装の耐水性は確保されている」
「じゃあ、風呂場で水を」
相沢は流し台の隣にある扉を見た。
風呂場と呼んでいるが、タイル張りの箱へ錆びた蛇口と排水口がついているだけだった。換気扇は回らない。昼間に温められた壁は、六畳間より熱い。
「やめよう」
「提案を撤回」
「あそこに入ったら、冷やす前に蒸される」
相沢は扇風機の強を押した。
羽根が唸った。
頭の上の手拭いが浮き、包んだ氷が後ろへ転がりかける。ナナが片手で受け止めた。流し台の上のレシートが舞い、榊の練乳が置かれていた場所から、小さな蓋だけが畳を走った。
風量は増えた。
熱い空気が速く動くようになった。
相沢は弱へ戻した。
「冷房を発明した人は偉いな」
「発明者を検索できない」
「今はいい」
扇風機が右を向いた。
相沢へ風が来る。
ナナは立ち上がった。
百三十八・五キログラムが動き、畳が低く鳴る。頭の氷を片手で押さえたまま、扇風機の前へしゃがんだ。
台座ごと向きを変える。
風が相沢へ固定された。
「何してるの」
「相沢の体表温度が上昇している」
「ナナの方が熱い」
「比較根拠が不十分」
相沢は扇風機を戻した。
ナナが向ける。
相沢が戻す。
もう一度、ナナが向ける。
「喧嘩になるから、首振り」
「喧嘩」
「お互い同じことをやめない状態」
ナナは台座から手を離した。
相沢は首振りのつまみを押した。
古い扇風機は左へ六秒、右へ七秒をかけ、二人へ順番に風を送った。
公平だった。
効果がないことまで公平だった。
濡らした手拭いはすぐに温くなった。氷は袋の中で角を失い、やがて水になった。部屋の温度は下がらない。
ナナのそばへ座ると、空気が一段温かかった。
焼けたモーターのような匂いもした。
扇風機からかもしれない。
ナナからかもしれない。
相沢には区別できなかった。
「横になった方がいい」
「必要なし」
「休んだ方が」
「疲労を検出していない」
「じゃあ、何で熱いんだよ」
ナナは答えなかった。
答えられないのか、答えないのかもわからない。
相沢は畳へ座り直した。
壁へ背を預ける。
ナナも隣へ座った。
肩と肩の間には、拳一つぶんの隙間があった。
そこから熱が来る。
窓際へ移れば、少しはましだった。玄関側の板の間なら、夜風が通る。布団を離して敷くこともできた。
相沢は動かなかった。
ナナが横を向く。
「相沢。離れた位置への移動を推奨」
「嫌だ」
「理由」
相沢は考えた。
大きな理由はなかった。
ナナの熱を下げる方法があるわけでもない。隣に座っていても、故障を直せない。手を握れば電気が流れるわけでもなければ、榊の焼いた部品が元へ戻るわけでもない。
何もできない。
だから、移動する理由もなかった。
「ここでいい」
ナナはしばらく相沢を見ていた。
「了解」
扇風機が左を向く。
六秒かけて、ナナへ風が届いた。
黒い髪が揺れた。
扇風機は止まらない。
右へ戻る。
七秒かけて、相沢へ風が戻る。
濡れたシャツが冷えた。
右端で、きゅ、と鳴った。
次の風が戻るまで、二人とも動かなかった。




