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秘密の定義

 七月三十日、相沢は涼しくて目を覚ました。


 異常事態だった。


 夏休みの六畳間で目を覚ますとき、普通は暑い。汗で背中が畳へ貼りつき、昨日の自分がなぜ冷房のない部屋で生きていけると思ったのか、朝一番に疑う。


 その朝、相沢の頬には風が当たっていた。


 弱く、途切れず、枕の上だけを撫でる風だった。


 目を開ける。


 青い台座の扇風機が、布団から一メートルほど離れた場所に置かれていた。


 首は振っていない。


 相沢だけを向いている。


「おはよう」


 声の方を見る。


 ナナは窓際に座っていた。


 風の届かない場所だった。


「おはよう」


 相沢は上半身を起こした。


「何時?」


「七時四十三分十二秒」


「最後の二秒はいらない」


「七時四十三分十四秒」


「増やさなくていい」


 布団から立ち上がり、流し台へ向かう。


 三歩目で、足が止まった。


 踏むはずだった延長コードがない。


 昨日までは、冷蔵庫から流し台の前を横切り、扇風機へつながっていた。寝ぼけて二度つまずき、一度は味噌汁をこぼした。


 コードは壁際へ移され、釘を曲げた留め具で固定されていた。


 ちゃぶ台も動いている。


 本棚も動いている。


 流し台の前には、人一人が通れる幅が正確に空いていた。玄関から布団まで、足を引っかけるものが一つもない。


 本棚と冷蔵庫は、床下に梁が通る壁際へ寄せられている。その足元には、スクラップ置場から持ち帰った合板が敷かれていた。ナナが通る場所には、細長く切った板が畳の下へ差し込まれている。


 畳の縁には鉛筆の印があった。


 五ミリ。


 十ミリ。


 二十ミリ。


 何かを少しずつ動かしては、記録した跡だった。


「これ、全部ナナがやったの」


「生活動線を最適化」


「夜中に?」


「相沢の睡眠中」


「寝てる横で本棚を動かした?」


「振動は覚醒閾値以下に制御」


 知らないうちに、枕元を百三十八・五キログラムが往復していたらしい。


 起きなかったのだから、制御は成功している。


 納得してはいけない気もした。


 相沢は扇風機の前へしゃがんだ。


 台座の位置にも鉛筆の印がある。


 半円を描くように、細かな点が並んでいた。窓を開く幅、扇風機の角度、布団までの距離を変え、風の通り方を試したのだろう。


 金網の中央には、細く裂いた紙が結ばれていた。風を受けて真横へ伸びている。


「何回やった?」


「試行は四百十二回」


「一晩で?」


「三晩」


 熱帯夜の翌朝から、毎晩やっていたことになる。


「結果は」


「相沢の発汗量が減少。睡眠中の覚醒回数は二回からゼロへ移行」


「ナナは」


「質問を特定できない」


「ナナは涼しかったの」


「必要なし」


 相沢は扇風機とナナの位置を見比べた。


 風は布団へ届く。


 ナナへは届かない。


 窓から入る朝の光の中で、黒い髪が動かず肩へ落ちている。


「俺の体調にしか興味がないんだな」


 ナナは相沢を見た。


「肯定」


 迷いのない返事だった。


 相沢は扇風機の首振りつまみを押した。


 首が左へ動き始める。


 六秒かけて相沢から外れ、窓際のナナへ近づく。


 だが、途中で止まった。


 ナナの手前、三十センチ。


 右へ戻る。


「範囲まで変えたの?」


「不要領域を除外」


「誰が不要領域だ」


「ナナ」


 自分を指す名前を、迷わず言った。


 相沢は台座を持ち上げ、窓側へずらした。


 百三十八・五キログラムに比べれば、扇風機は羽根のように軽い。鉛筆でつけられた最適位置から、二十センチ外す。


 もう一度、首を振らせる。


 左へ六秒。


 窓際のナナへ風が届き、前髪が揺れた。


 右へ七秒。


 相沢の頬へ風が戻った。


「最適値から逸脱」


「最適って、誰にとって」


「相沢」


「それが変だって言ってるんだよ」


 ナナが瞬く。


「不具合の可能性」


「そういう意味でもない」


「代替する定義を要求」


 相沢は答えようとした。


 答えがなかった。


 故障なら、直すべきだった。異常なら、止めるべきだった。けれど、ナナが自分へ風を向けたことを、元に戻すべきだとは思えない。


 それが何なのか、相沢はまだ名前を知らなかった。


「保留」


「了解」


 相沢は窓枠に置かれた鉛筆を取った。


 ナナが最適値として囲んだ印は、二十センチ後ろにある。相沢は、いま扇風機を置いた場所へ新しい丸を描いた。


「測定結果と不一致」


「前のは俺一人の結果だろ」


「肯定」


「これは二人分」


「二人分の測定は未実施」


「じゃあ、今日から測ればいい」


 ナナは床の二つの丸を見比べた。


 古い丸を消さなかった。


 新しい丸も消さなかった。


 電話が鳴った。


 一回。


 二回。


 三回目が鳴る前に、相沢は受話器を取った。


「はい」


「今日来い」


 榊だった。


 挨拶はなかった。


「昨日も聞きました」


「昨日も来なかった」


「一昨日も聞きました」


「一昨日も来なかった」


 榊の明日は、この三日間、毎朝更新されていた。


「今日は行きます」


「十時までに来なければ迎えに行く」


「絶対に来ないでください」


 電話は切れた。


 相沢は受話器を置いた。


 時計を見る。七時五十一分。


 学校までは自転車で二十分。放送室へ行き、榊の用を済ませ、昼までに帰る。行かなければ榊がここへ来る。それだけは避けたかった。


 問題は、ナナを一人にすることだった。


「二時間くらい、留守番できる?」


「留守番」


「ここにいて、帰るまで待つ」


「実行可能」


「誰か来ても、戸を開けない」


「榊」


「先輩でも開けない」


「大家」


「大家にも」


「火災」


「火事なら出て」


「条件に例外を追加」


「煙が出たら外へ逃げる。地震が来ても外へ。建物が傾いたら、たぶんナナが原因だから動かないで」


「最後の条件に矛盾」


「冗談」


 ナナは覚えるように、玄関、窓、流し台の火元を順に見た。


「外部から質問された場合、応答内容を指定」


「何も言わない」


「親戚」


 スーパーで相沢が使った嘘だった。


「それでもいいけど」


「親戚。違う」


 榊の前で自分がした訂正まで覚えている。


 相沢は頭を掻いた。


「嘘をつけって言ってるわけじゃない。秘密にしてほしいんだ」


「秘密」


「全部を他の人に話さないこと」


「榊は、ナナを知っている」


「存在はね」


「重量も知っている」


「そこも」


「相沢の声に対する出力も知っている」


「先輩、知りすぎだな」


 二人だけの秘密というには、すでに大きな穴が開いていた。


 けれど、榊はナナが朝に何を食べるか知らない。掃除機を使えないことも、コロッケを二十分かけて評価することも、この部屋を自分の住む場所に選んだことも知らない。


 相沢も、知らないことの方が多かった。


 秘密は、知っている情報の量では決まらないのかもしれない。


「違うな」


「修正を要求」


「秘密っていうのは、誰に何を話すか、自分たちで決めること」


「相沢が決定する」


「二人で決める」


 ナナの視線が止まった。


「ナナも、開示を拒否できる」


「できる。俺に対しても」


 言ってから、少し怖くなった。


 相沢に言わないことを、ナナが自分で選べる。その中に、彼女の正体も、ここへ来た理由も含まれるかもしれない。


 それでも、秘密にする権利だけを自分が持つのは違うと思った。


「二人で決める」


 相沢はもう一度言った。


 ナナは三秒ほど黙っていた。


「受諾」


「じゃあ、これで共犯だ」


「共犯。二人以上が共同して犯罪を実行」


「悪いことはしてないけど」


「犯罪は存在しない」


「見つかったら、たぶん二人とも怒られる」


「相沢のみが責任を負う必要はない」


「じゃあ、やっぱり共犯」


「暫定的に受諾」


 相沢は学校へ行く準備をした。


 制服ではなく、放送部の名前が入った白いシャツへ着替える。鞄へ財布とノートを入れ、玄関で靴を履いた。


「昼には帰る」


「十二時まで」


「努力する」


「遅延した場合」


「電話する」


「ナナは電話に出ない」


「そうだった」


 相沢は扇風機を見た。


 首振りは動いている。


 左へ六秒。


 窓際のナナへ風が届き、黒い髪が揺れる。


 右へ七秒。


 畳んだ布団へ風が戻る。


 そこには、もう誰も寝ていない。


「帰ってくるまで、自分にも風を当てて」


「了解」


 扇風機が右端で、きゅ、と鳴った。


 相沢はもう一度、ナナへ風が届くのを見届けてから、玄関の戸を閉めた。


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