鑑定眼の闇
放送室へ着いたのは、九時三十七分だった。
約束より二十三分早い。
それでも榊は遅いと言った。
「十時までと言ったでしょう」
「呼び出した時点ですでに遅い」
「先輩の中でしか成立しない時間を使わないでください」
「今日来たから問題ない」
問題の定義が榊に有利すぎた。
夏休みの校舎は静かだった。
運動部の掛け声がグラウンドから聞こえる。廊下には誰もいない。放送室の窓は遮光カーテンで閉じられ、機材の熱と埃の匂いがこもっていた。
榊は調整卓の前に座っていた。
その脇に、八本のフェーダーが並ぶ古いミキサーがあった。側面の赤い封印に、`WR-XS3`と印字されている。
「見つかったんですか」
「昨日、第二ヤードでな」
「じゃあ、俺が探した二日間は」
「別のものを見つけた」
「部活動の成果に数えないでください」
榊は答えず、ミキサーの上へ雑に布を掛けた。少なくとも、あれはただの音響機器だった。
録音機も、焼けた黒い箱も出していない。
机の中央に、見覚えのない部品が置かれていた。
銀色の円筒から、細い線が束になって伸びている。線の先は四角い黒い端子へ集まり、その断面には髪の毛ほどの穴が並んでいた。
円筒の欠けた縁には、白い薄層が何十枚も重なっていた。
「何ですか、これ」
「それを調べる」
「先輩が呼んだんでしょう」
「おまえが調べる」
「帰ります」
「昼までに終わればいいんだろう」
相沢は足を止めた。
ナナとの約束を聞いていたらしい。
「盗聴ですか」
「昨日、おまえが自分で言った」
「いつ」
「電話を切る直前だ。昼には帰る、と後ろへ向かって叫んでいた」
電話の向こうまで聞こえていたらしい。
榊の耳は、法律で規制した方がいい。
「十一時には出ます」
「終わればな」
相沢は鞄を置いた。
机の部品を手に取る。
見た目より軽かった。外側はアルミに似ているが、指で弾いても金属らしい音がしない。低く、すぐに消える音だった。
黒い端子には、接点が見えない。
「光ですか」
「たぶん」
榊がルーペを渡した。
端面を拡大する。
小さな穴だと思ったものは、透明な繊維の束だった。一本の太さは髪より細い。それが百本以上、規則正しく並んでいる。
通常の音響機器なら、信号線は数本で足りる。光回線でも、家庭用なら一本か二本だ。
「何をそんなに送るんです」
「知らん」
「規格は」
「ない」
榊は紙の規格表を何冊も机へ積んだ。
放送設備、医療機器、航空機、工場用制御装置。どの端子図にも一致しない。太さが近いものはあっても、固定する爪の位置が違う。爪の位置が合うものは、繊維の数が違った。
外側に刻印はなかった。
製造番号も、会社名も、方向を示す印もない。
ただ、取り付け穴に残ったボルトだけは普通だった。
相沢は一本を外した。
「八ミリ」
「市販品だ」
「本体だけ特注で、留めるのはホームセンター?」
「そういうものは珍しくない」
榊はボルトの頭を見た。
「こっちには印がある」
小さな三角形が刻まれていた。
サカキ金属へ出入りする再生部品会社の印だった。
放送室の隅にある端末を起動する。
緑色の文字が黒い画面へ浮かんだ。サカキ金属の廃棄品台帳へ、榊が電話回線で接続する。
接続音が部屋へ響いた。
高い音と低い音が交互に鳴り、やがて文字の入力欄が出る。
相沢は刻印、ボルト径、入荷日を順に打った。
該当は三百十二件。
素材を絞る。
四十七件。
スクラップ置場の区画を入れる。
一件。
画面に、短い記録が出た。
入荷日は七月二十四日。搬入元は空欄。品名は光学機器片。重量は不明。処理区分は即日破砕。
「即日破砕?」
「記録上はな」
「でも、残ってた」
「だから呼んだ」
榊は机の下から、もう一つ部品を出した。
黒いシリンダーだった。
長さは二十センチほど。片側が潰れ、表面には白く焼けた跡がある。太い配管が二本、根元から切断されていた。
焼け跡には煤がなかった。白く変わった表面だけが浮き、地面の火に炙られた跡には見えなかった。
「どこにあったんです」
「おまえが少女を掘り出した跡の近くだ」
「何で場所がわかったんです」
「泥の穴と台車の轍が残っていた」
「勝手に現場検証しないでください」
「俺の置場だ」
榊はシリンダーを相沢の前へ転がした。
動きは鈍い。見た目より重い。
「こっちは二十一・三キロある」
「この大きさで?」
「振ってみろ」
相沢は両手で持ち上げた。
中から音はしない。
液体が入っている感じもない。だが、片方を傾けると、重心がわずかに移った。内部で何かが動いたのではなく、持っている側の手から熱が引かれるような感覚だった。
「冷たい」
「室温だ」
「でも、冷たく感じます」
榊が温度計を当てる。
二十九度。
放送室とほぼ同じだった。
「熱を移す部品かもしれない」
「冷却装置?」
「かもしれない、と言った」
榊は断面を指した。
潰れた配管の内側に、細かな溝が幾重にも走っている。一本の管の中へ、さらに数百本の通路が作られていた。
相沢は銀色のコネクタと並べた。
二つに共通するのは、異常な細かさだけだった。
「同じものについてたんですか」
「距離は三メートル」
「ナナの近くに」
榊が相沢を見る。
相沢は言い直さなかった。
名前を隠す意味は、もうない。
「ナナの近くにあった」
「そうだ」
「だから、ナナの部品だって?」
「そこまでは言っていない」
「思ってるでしょう」
「証拠が足りない」
榊は銀色の端子へ指を置いた。
「ただし、おまえが拾った少女の中で鳴っていた音と、こいつの繊維数は釣り合う」
「音と線の数が、どう釣り合うんです」
「普通の機械ではないという一点でだ」
それは釣り合っているとは言わない。
わからないものを二つ並べ、同じ箱へ入れただけだった。
榊自身も、それ以上は言わなかった。
時計を見る。
十時五十八分。
「帰ります」
「まだ終わっていない」
「終わってないから帰るんです」
「意味がわからん」
「ナナと約束したので」
榊は不満そうに時計を見た。
「明日も来い」
「明日は明日です」
相沢は鞄を持った。
放送室を出る直前、榊が言った。
「そのシリンダーは持っていけ」
「嫌です」
「比較対象が要る」
「二十一キロを自転車で運ばせないでください」
結局、その日は持ち帰らなかった。
午前十一時二十七分、相沢はアパートへ戻った。
玄関の戸は閉まっている。
鍵を開ける。
「ただいま」
六畳間から、ナナが答えた。
「おかえり」
相沢は靴を脱ぐ途中で止まった。
聞き慣れない言葉ではない。両親と暮らしていたころ、何度も聞いた。自分でも言った。
それでも、この部屋で自分へ返ってきたのは初めてだった。
「早かった」
「十二時までって言ったから」
「十一時二十七分」
「三十三分、余裕がある」
「評価。良好」
ナナは扇風機の前に座っていた。
約束どおり、首は振っている。
左へ六秒。
風がナナへ届く。
右へ七秒。
畳んだ布団へ戻る。
相沢は六畳間へ入った。
「留守中、何かあった?」
「異常なし」
「誰も来なかった?」
「来訪者なし」
「暑くなかった?」
「許容範囲」
いつもの答えだった。
相沢はナナの前へしゃがんだ。
朝より顔色がいい気がした。
頬へついていた細い泥の傷が消えている。
スクラップ置場から運んだとき、こめかみには擦れた跡があった。右手首には、泥を洗っても取れないざらつきが残っていた。
それがない。
相沢はナナの手を取った。
手首を裏返す。
皮膚は滑らかだった。
滑らかすぎるほど、滑らかだった。
毛穴も、細かな皺もある。指で押せば柔らかく沈み、離すと戻る。人間の皮膚と何も変わらないはずなのに、傷だけが最初から存在しなかったように消えていた。
「すごいよ、ナナ」
相沢は顔を上げた。
「もうすっかり元通りじゃないか」
ナナは自分の手首を見た。
それから、相沢を見た。
「絶好調です」
初めて聞く言い方だった。
いつものナナなら、機能正常とか、許容範囲とか言う。
「誰に教わったの、それ」
「相沢の雑誌」
ちゃぶ台の上に、古いバイク雑誌が開かれていた。
新型エンジンの広告に、赤い字で絶好調と書かれている。
「そういう使い方で、だいたい合ってる」
相沢は笑った。
ナナの手首へ、もう一度親指を滑らせる。
温かい。
熱帯夜ほどではない。それでも、扇風機の風を受けていた皮膚にしては熱が残っていた。
指を止める。
ナナも動かない。
相沢は耳を近づけた。
「何をしている」
「ちょっと静かに」
ナナの胸元から、細かな音が聞こえる。
高い連続音。規則正しく刻む低い振動。榊の録音機で聞いた、数えきれない音の重なり。
だが、何かが足りなかった。
起動した夜に聞いた、細い羽根が限界まで回るような音。
熱帯夜に、焼けた匂いの奥で鳴っていた音。
それが聞こえない。
静かになっただけかもしれない。
直ったから止まったのかもしれない。
「調子、いいんだよね」
相沢は聞いた。
ナナは、すぐに答えた。
「絶好調です」
扇風機が右端で、きゅ、と鳴った。
風が戻り、ナナの黒い髪を揺らした。
滑らかな皮膚の下から、冷却音は戻らなかった。




