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スイカと熱力学

 八月一日、相沢はスイカに敗北していた。


 勝てると思っていた。


 青果店の店先で見たときは、夏らしくていい、としか考えなかった。直径は三十センチ。重さは七キロほど。特売の札には、大玉一個八百円と書かれていた。


 一人暮らしの高校生が買う量ではない。


 だが、今は一人ではない。


 その判断が間違っていたとは思わない。ただし、七キロの球体を自転車の前籠へ入れ、取り壊し前のアパートまで押して帰る難易度を、相沢は低く見積もっていた。


 スイカは坂道のたびに転がった。


 前籠の右を押せば左へ寄り、左を押せば右へ寄る。荷紐をかけると縞模様へ食い込み、今にも割れそうになる。


 最後の坂は、自転車を押すのではなく、逃げようとするスイカを前籠へ押し戻しながら登った。


 アパートの前へ着いたとき、相沢は全身に汗をかいていた。


「ただいま」


 玄関を開ける。


 ナナが六畳間から来た。


「おかえり」


 視線が相沢の顔から、前籠へ移る。


「大型球状物」


「スイカ」


「推定質量、七・二キログラム。水分含有率九十一パーセント前後。糖度は外観から判定不能」


「見ただけでそこまでわかるの」


「体積と一般的組成から推定」


 ナナは玄関へ下りた。


 片手でスイカを持ち上げる。


 相沢が坂道で十五分かけて守った七・二キログラムが、買い物袋ほどの重さもないように持ち上がった。


「冷却材として利用可能」


「食べ物です」


「水分量が多い」


「食べるために多いんだよ」


「比熱も高い」


「食卓で比熱の話をするのはやめよう」


 ナナはスイカを顔の高さまで上げた。


 緑と黒の縞を観察する。


 軽く指で叩く。


 ぽん、と低い音がした。


「内部に空洞を検出」


「当たりってこと?」


「評価基準が不明」


「甘くて、よく熟れてる」


「切断後に検証可能」


 切るだけなら、包丁で足りる。


 だが、相沢は七キロのスイカを一個買うまでに、別の予定を考えていた。


「裏へ持っていこう」


「裏」


「スイカ割りをする」


 アパートの裏には、庭と呼ぶのをためらう土の空間があった。


 建物と錆びた金網の間、幅三メートルほど。大家が植えた紫陽花は枯れかけ、室外機だけが四台並んでいる。入居者の減った今、動いている室外機は一台もなかった。


 相沢は新聞紙を敷いた。


 中央へスイカを置く。


 物干し竿の横にあった古い箒から、柄だけを借りた。目隠しには、洗った手拭いを使う。


 ナナは道具を順に見た。


「目的」


「スイカを割る」


「包丁を推奨」


「包丁で切ったら、スイカ切りになる」


「スイカ割りとの相違」


「割る方は楽しい」


「楽しさの定義を要求」


「やればわかる」


 説明を諦めた者が使う言葉だった。


 ナナはスイカの前へしゃがんだ。


 右手を伸ばす。


 人差し指の先が、緑の表面へ触れた。


 音はしなかった。


 指先が一センチほど横へ滑る。


 スイカの縞に沿って、細い線が走った。


 一周する。


 ナナが手を離した。


 スイカは二つに分かれた。


 上半分が、新聞紙の上へ静かに滑る。


 断面は鏡のように平らだった。皮も、白い部分も、赤い果肉も、一枚の図のように切れている。黒い種まで半分に割れていた。


 赤い汁が、遅れて一滴だけ落ちた。


 相沢は声を失った。


「切断完了」


「すごい」


 思わず言った。


 ナナが相沢を見る。


「でも違う」


「評価が矛盾」


「すごいけど、スイカ割りじゃない」


「目的はスイカを割ること」


「割れてるけど」


「完了」


「完了してない」


 ナナは二つになったスイカを見た。


 相沢を見る。


 もう一度、スイカを見る。


「不足条件を要求」


「目隠しをする」


「視覚情報を遮断する合理性がない」


「それが大事」


「非合理が条件」


「近い」


 幸い、スイカは大玉だった。


 半分残っている。


 相沢は切断面を下にして新聞紙へ置いた。半球になったが、棒で叩くには十分である。


「今度は俺がやる」


 手拭いで目を覆う。


 ナナが後ろで結んだ。


 暗くなる。


「見えてない?」


「視覚を遮断」


「ナナがじゃなくて、俺が」


「相沢の瞳孔反応を確認。不視認」


「そこまで確認しなくていい」


 相沢は箒の柄を持った。


「三回、回して」


 ナナの手が肩へ触れる。


 力はほとんど感じないのに、身体が正確に回った。


 一周。


 二周。


 三周。


 ぴたりと止まる。


「スイカまで二・一八メートル。方位、右へ十二度」


「そういう案内じゃない」


「右へ十二度」


「もっと、右とか左とか」


「右」


「どのくらい」


「十二度」


「言い方を変えただけじゃないか」


 足を出す。


 地面の小石を踏んだ。


「前」


 ナナが言う。


「もう少し前」


 一歩。


「右」


 半歩ずらす。


「前」


「ここ?」


「切断対象まで〇・六メートル」


「普通に言って」


「近い」


 相沢は棒を振り下ろした。


 乾いた音がした。


 手応えが軽い。


 目隠しを外す。


 棒はスイカの横、新聞紙を叩いていた。


「外れた」


「誤差、三十一センチ」


「ナナの案内が悪い」


「指示には従った」


「じゃあ、俺が悪い」


「肯定」


「少しは否定して」


 ナナの口元が動いた。


 微笑んだように見えた。


 相沢は箒の柄を渡した。


「今度はナナ」


「位置を記憶済み」


「そこは忘れて」


「記録の意図的消去は非推奨」


「じゃあ、俺の声だけ聞いて」


 ナナの目へ手拭いを巻く。


 黒い髪を挟まないように持ち上げ、後ろで結ぶ。指がうなじへ触れた。


 柔らかい髪の下の皮膚は、やはり少し温かかった。


 相沢は手を離した。


 ナナを三回回す。


 回しているというより、相沢の方が百三十八・五キログラムの周囲を歩かされているようだった。


 三周目で、ナナが自分から止まった。


「前」


 相沢が言う。


 ナナは歩いた。


 一歩ごとに土が沈む。


「もう少し右」


 正確に右へ動く。


「正確すぎる。ちょっとだけ」


「ちょっと、の数値を要求」


「数値にしない」


 ナナは止まった。


「前。もう少し。そこ。いや、少し左」


「指示が競合」


「そういう遊びだから」


「相沢の指示のみを採用」


 ナナは左へ動いた。


 棒を構える。


「今?」


 初めて、ナナが聞いた。


 位置はわかっているはずだった。


 地面の音も、相沢の呼吸も、スイカから反射するわずかな音も拾える。目隠しに意味はない。


 それでも、ナナは待っていた。


「今」


 棒が振り下ろされた。


 どん、と重い音がした。


 半分のスイカが割れた。


 中心から少し外れ、赤い果肉が不揃いに裂ける。皮の一部が飛び、新聞紙の外へ転がった。赤い汁が土へ散った。


 綺麗ではなかった。


 相沢は笑った。


「成功」


 ナナが目隠しをしたまま言う。


「成功。完璧」


 相沢は手拭いを外した。


 ナナは割れたスイカを見た。


 最初に指で切った半分と、棒で割った半分。


 同じスイカとは思えない。


「切断精度は低い」


「だから完璧」


「矛盾を検出」


「そのままでいい」


 二人で縁側に座った。


 縁側といっても、裏口のコンクリート段差である。


 相沢は最初の半分を包丁で分けた。ナナが指で切った断面は、刃が吸いつくほど平らだった。


 ナナには、棒で割れた不揃いな方を渡した。


 一口食べる。


 甘かった。


 冷蔵庫へ入れていないので、温い。それでも、坂道を守って運んだ七・二キログラムと、新聞紙を外した三十一センチと、ナナの少し外れた一撃を含めれば、八百円以上の味がした。


 ナナも食べた。


 赤い果肉を噛む。


「糖度、十二・六。水分含有率九十一・四パーセント。果肉温度三十一度」


「おいしい?」


 ナナはスイカを見た。


 相沢を見る。


「おいしい」


「今度は早かった」


「評価項目を追加」


「何を」


 ナナは答えなかった。


 もう一口食べる。


 指先から、赤い汁が手首へ流れた。


 相沢は自分の手拭いで拭こうとした。


 ナナの手へ触れる。


 熱かった。


 さっきスイカを切った人差し指だけが、ほかの指より熱を持っている。


「痛くない?」


「痛覚反応なし」


「無理してない?」


「絶好調です」


 また、その言葉だった。


 ナナは手を引かなかった。


 相沢もすぐには離さなかった。


 二人の指に、同じ赤い汁がついていた。


 新聞紙の上には、鏡のように切れた半分と、不揃いに割れた半分が並んでいた。


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