海への誘い
八月四日の朝、相沢はエンジン音で目を覚ました。
目覚まし時計は枕元で六時四十三分を示していた。日曜日に存在してよい時刻ではない。しかも、音は通り過ぎなかった。古い木造アパートの前で一度咳き込み、ぶるぶると車体を震わせ、それから遠慮のない空ぶかしを一発やった。
二階のどこかで雨戸が開いた。
「うるせえぞ」
もっともな怒鳴り声が落ちてきた。
エンジンは止まった。代わりに、金属製の階段を上がってくる足音がした。一定の速さで、迷いがない。途中、一段だけ大きく鳴るところを正確に踏み抜いてくる。
相沢は布団の上で目を閉じた。
知っている足音だった。
戸が三回鳴った。二回目と三回目の間隔が短い。
「起きろ、相沢」
「いません」
「返事をした」
「今のは留守番電話です」
「留守番電話は、戸を叩かれて返事をしない」
正確だった。腹が立つほど正確だった。
相沢が上半身を起こすと、窓際に立っていたナナが振り返った。いつから起きていたのかはわからない。薄い灰色の服には皺ひとつなく、髪もすでに整っている。六畳間の熱気の中で、彼女だけが朝という手順を完全に終えていた。
「来訪者は榊弦一郎です」
「開けなくていい」
「了解」
戸が開いた。
鍵はかけていなかった。
「了解したなら開けないでくれ」
「私は開けていません」
たしかに開けたのは榊だった。
放送部長は戸口に立ち、寝癖だらけの相沢を一度見たあと、部屋の隅に畳んである布団、窓際のナナ、回り続けている扇風機の順に視線を動かした。右手に車の鍵、左手に白い封筒を持っている。首からは、いつもの小型録音機が下がっていた。
「七分で支度しろ」
「どこへですか」
「海」
相沢は返事をしなかった。
寝起きの頭の中で、海という一文字だけが妙に青かった。
榊は白い封筒から紙を一枚抜き出した。上部に、夏季校外活動届、と印刷されている。部活動名は放送部。活動内容は環境音収録および機材耐候試験。参加者の欄には榊弦一郎と相沢、そして三人目の空欄があった。
「提出済みですか、これ」
「昨日出した」
「俺の許可は」
「今から取る」
「順番がおかしいでしょう」
「顧問は許可した」
「俺の許可は顧問の下位互換じゃないんですよ」
榊は聞いていなかった。室内を見回し、流し台の脇に立てかけてあるスイカ割りの棒を見つけた。棒の先にはまだ土がついている。
「夏を満喫しているな」
「誰のせいで七月をスクラップ置場から始めたと思ってるんですか」
「だから八月を海から始める」
「つじつまの合わせ方が雑すぎます」
そう言いながら、相沢は活動届から目を離せなかった。
海へ行ったのはいつが最後だっただろう。中学の臨海学校かもしれない。駅前の旅行代理店に貼られた写真や、テレビの天気予報の背景では毎年見ていた。けれど、潮の匂いも、足の裏を焼く砂も、波が引くときの頼りない感覚も、思い出そうとすると全部が他人の夏のようだった。
「日帰りですか」
「一泊」
「長くなってる」
「サカキ金属の保養所が空いている。部屋はある。飯はない。録るものは多い」
「水着もないです」
「海は水着を着ない者を拒まない」
「社会が拒みます」
榊はそこで、ようやくナナを見た。
「おまえも来るか」
軽い問いだった。相手が百三十八・五キログラムあることも、正体のわからないコネクタを体のどこかに持つことも、相沢の声で不要な電気を使うことも、その問いの表面にはなかった。
ナナはすぐには答えなかった。
「海水の平均塩分濃度は約三・四パーセントです。沿岸部では飛沫に含まれる塩化物イオンにより、露出した金属、接点、回路基板に腐食が発生します。湿度は終日高く、砂粒は可動部へ侵入します」
「海が嫌いなのか」
「危険性を説明しました」
「同じだ」
「同じではありません」
榊は相沢を見た。
「おまえは」
「何がです」
「行きたいか」
言い方に逃げ道がなかった。
行きたかった。
海が見たいというだけなら、たぶん電車でも行けた。去年も、一昨年も、その気になれば行けたはずだった。けれど今、胸の内側に浮かんでいるのは一人で見る海ではなかった。砂浜に立つナナだった。波を成分ではなく波として見てほしかった。スイカを切るのではなく割ったときのように、正しい用途から少しだけ外れたものを、また一緒に見たかった。
同時に、ナナが並べた危険もわかった。
彼女は水を怖がっているのではない。怖がる、という言葉を使うかどうかすらわからない。ただ、いつもなら可能と不可能を短く切り分ける彼女が、危険を三つも並べた。相沢には、それで充分だった。
「ナナが行かないなら、俺もいいです」
口にしてから、それは少し卑怯だったと思った。
選ぶ責任を彼女に渡している。
榊は何も言わなかった。ナナも、しばらく相沢を見ていた。
扇風機の風がナナの髪を揺らし、七秒かけて相沢の頬へ移った。そこから六秒で、またナナへ戻る。そのあいだに、外では蝉がいっせいに鳴き始めた。
「必要装備を確認します」
ナナが言った。
「防水性のある収納袋。真水。乾燥した布。交換可能な衣服。相沢の日射対策。相沢の水分。相沢の塩分」
「後半が全部俺なんだけど」
「優先度順です」
「行くのか」
榊が聞いた。
「同行します」
相沢は活動届を見た。三人目の空欄はまだ白かった。それでも、そこに名前が入ったような気がした。
「七分は無理です。三十分ください」
「十五分」
「二十五分」
「二十」
「決まり」
「交渉時間を含めて、残り十八分です」
ナナだけが時計を正確に見ていた。
*
サカキ金属の軽トラックは、白かったはずの塗装が長年の鉄粉で薄茶色になっていた。荷台には三脚、ケーブル箱、折り畳んだ銀色のシート、飲料水のタンクが積まれている。助手席の足元にも録音機材のケースが二つあり、人間一人が座るには狭い。
相沢は荷台を指した。
「俺、ここですか」
「道交法が拒む」
「社会は意外と仕事しますね」
「三人乗りだ。詰めろ」
榊が運転席へ乗り、相沢が中央へ滑り込んだ。最後にナナが助手席のステップへ片足をかけた。
「待って」
相沢が言うより先に、ナナは乗った。
ぎし、と古い車体が一度揺れた。
助手席の薄いばねが深く沈んだ。急な揺れで、荷台のケーブル箱がずるりと右へ滑った。
三人とも黙った。
「機材が多いからな」
榊が言った。
「今、増えたのは一人です」
「録音には重量が必要だ」
「どんな理論ですか」
ナナは狭い車内で姿勢を補正しようとした。わずかに腰を浮かせる。その瞬間だけ座面のばねが戻り、座るとまた沈んだ。
「乗車位置の変更を提案します」
「いや」
榊はハンドルを握り、前を向いた。
「これで左右の音が違う。使える」
「何にですか」
「まだわからない」
榊はエンジンをかけた。
軽トラックは一度大きく震え、アパート前のくぼみを越えたところで、荷台から鈍い音を立てた。固定の甘い機材箱が、段差で一度跳ねたらしい。二階の窓から、先ほど怒鳴った住人が顔を出した。
「壊すなよ」
「機材が多いんです」
相沢は反射的に答えた。
榊がちらりと横目を寄越した。笑ってはいなかったが、口元が少しだけ曲がっていた。
共犯者が一人増えた気がして、相沢は黙って前を向いた。
町を抜けるまでは、蝉の声が追いかけてきた。開け放した窓から熱風が入り、ナナの髪を後ろへ流した。彼女は窓枠に触れず、肩をすぼめることもなく、流れていく商店街、ガソリンスタンド、朝の畑を順に見ていた。
道路が広くなると、蝉の声は風切り音に消えた。
榊は首から下げた録音機のスイッチを入れた。赤いランプが点く。
「何を録ってるんです」
「車内」
「エンジンと風しか入らないでしょう」
「それを録っている」
榊にとっては、会話も沈黙も同じ環境音らしかった。
相沢は座席の狭さに耐えかねて少し左へ寄った。肩が榊にぶつかった。
「運転の邪魔だ」
「右へ行けないんですよ」
右にはナナがいた。触れないようにしているわけではない。ただ、狭い座席で百三十八・五キログラムの隣人を押しのけるのは、物理以前に礼儀の問題だった。
「相沢」
「何」
「体表温度が上昇しています」
「三人で軽トラに詰まってるからだよ」
「窓をさらに開放します」
「それ以上は開かない」
ナナは窓の取っ手を見た。下限まで回っていることを確認し、それでももう一度だけ回した。
海はまだ見えなかった。
防風林へ入る手前に、赤い臨時看板が立っていた。
第三空域保全中。許可を受けていない送信機器は停止すること。
「録音は送信じゃない」
誰も訊いていないのに、榊が言った。ナナは看板が後ろへ消えるまで、文字ではなく、その上の空を見ていた。
けれど、山裾を回る長いカーブに入ったころ、風の匂いが変わった。
熱いアスファルトと刈った草の匂いに、薄い金属のようなものが混じった。相沢が鼻を鳴らす。忘れていたのに、嗅いだ瞬間にわかった。
「海だ」
ナナが正面を向いた。
その呼吸が一度だけ止まり、代わりに、胸の奥からごく小さな回転音が聞こえた。スイカを切った指に触れたときとは違う。熱ではなく、何かが備える音だった。
「まだ見えないよ」
「塩化物を検出しました」
「匂いじゃなくて、そっちか」
「濃度は低いですが、継続的に上昇しています」
ナナはそこで言葉を切った。
カーブが終わった。
低い防風林の向こうに、光が開いた。
空より濃い青が、朝の端から端まで広がっていた。遠すぎて波は白い線にしか見えない。それでも、車窓に収まりきらない水の量を見た瞬間、相沢は笑っていた。
「ナナ、海だ」
彼女は海を見た。
それから相沢を見た。
さっきまで続いていた危険の説明は、もう再開されなかった。




