塩の風
軽トラックの扉を開けると、海は音になった。
車窓から見えた青よりも、ずっと大きかった。防風林の切れ目を抜けてくる波音は、一つが終わる前に次が重なり、砂浜だけでなく駐車場の白線や自動販売機や相沢の胸の中まで、まとめて引いたり寄せたりしていた。
「うわ」
相沢は車から降りたまま、しばらく立っていた。
ナナも助手席から海を見ていた。麦藁帽子は、出発前に相沢が押し入れの天袋から見つけたものだった。母親が置いていったらしく、つばに小さな造花がついている。灰色の服にはあまり似合わない。それでも彼女は、相沢の日射対策を確認したあと、自分にも必要だと言われて素直にかぶった。
潮風が吹くたび、造花が震えた。
「降りないの」
「路面から砂浜までの傾斜を確認しています」
「歩くだけだよ」
「支持力が一定ではありません」
「歩いて確かめろ」
榊が荷台から三脚を下ろしながら言った。
ナナは榊を見た。それから片足を地面へ下ろした。深く沈んでいた助手席の座面が、目に見えて戻った。
「やっぱり機材じゃなかったじゃないですか」
「機材が降りた」
「ナナを機材に数えないでください」
「では後輪が自力で回復した」
榊はケーブル箱を相沢へ渡した。言い争うには重かった。
駐車場の先には、古い平屋が一軒あった。サカキ金属保養所、と錆びた看板が出ている。保養という言葉から相沢が想像していたものより、だいぶ倉庫に近い。窓には潮が白くこびりつき、軒下の雨樋は途中でなくなっていた。
「あそこに泊まるんですか」
「屋根はある」
「最低条件しか満たしてない」
「水道も出る」
「文明が一段上がった」
荷物は先に浜へ運ぶことになった。
海へ近づくと、砂が靴の下で鳴った。相沢は三脚とケーブル箱を抱え、足を取られながら進んだ。榊は両手に録音機材を提げている。ナナは飲料水のタンクと銀色のシート、乾いた布の袋を持って、その後ろを歩いた。
彼女の足跡だけが深かった。
一歩ごとに靴底が砂へ沈み、縁のはっきりした穴ができる。波打ち際からはまだ遠いのに、歩いたあとだけ小さな防波堤の工事現場のようだった。
「歩行速度を上げます」
「上げなくていい」
相沢と榊の声が重なった。
ナナは速度を変えなかった。
榊が選んだ設営場所は、満潮線より上の乾いた砂だった。相沢が銀色のシートを広げる。半分まで広げたところで海から風が来て、巨大な魚の鱗みたいに光りながら跳ね上がった。
「押さえて!」
ナナが端を掴んだ。反対側が持ち上がった。相沢が飛びつくと、今度は中央が膨らみ、榊の顔を覆った。
「前が見えない」
「見ればわかります!」
「見えないと言っている」
榊がシートの下でもがくたび、銀色の山が移動した。ナナは風向きを見て、角を二つ折った。だが海風は一定ではない。右から来たと思った次の瞬間には正面から入り込み、三人まとめて持ち上げようとした。
「固定具が必要です」
「石、拾ってくる」
「待て」
シートから顔を出した榊が、ナナを指した。
「座れ」
ナナが中央へ座った。
銀色の山は消えた。
四隅は風にぱたぱた鳴ったが、中央は砂浜の一部になったように動かない。相沢は石を探しに向けていた足を止めた。
「便利だな」
榊が言った。
「ナナを重しにしないでください」
「私は固定具ではありません」
相沢は榊を見た。
「本人もこう言ってます」
「ただし、この用途には適合します」
相沢は今度はナナを見た。
「ナナ?」
「保持を継続します」
造花のついた麦藁帽子でシートの中央に座る彼女は、どう見ても海へ来た女の子だった。シートが一ミリも動かないことを除けば。
榊は満足そうに二本のマイクを組み立てた。一本を波へ向け、もう一本を十メートルほど離す。ケーブルを砂へ浅く埋め、録音機の左右へ繋いでいく。
「同じ波を二つの場所で録るんですか」
「同じかどうかを録る」
「同じ波でしょう」
「なら同じ音になる」
榊はヘッドホンを耳へ押し当て、波を見た。
相沢もつられて海を見た。
遠くでは同じに見えた波が、近くでは一つずつ違っていた。長く盛り上がってから崩れるもの。前の波に追いついて、白い泡だけを押し出すもの。砂の上を遠くまで駆け上がるもの。その手前で力をなくし、何もなかったように戻るもの。
「平均周期は六・八秒です」
ナナが言った。
「次の砕波まで、三・二秒」
三秒ほどして、波が崩れた。
「当たった」
「誤差は〇・一四秒です」
「もう一回」
相沢は砂へ腰を下ろした。榊は録音を始めていたが、止めろとは言わなかった。
ナナは海を見つめた。
「次の砕波まで、五・七秒」
波は五秒も待たずに崩れた。
「外れた」
「先行する波との干渉を過小評価しました」
「次は」
「四・九秒」
今度は六秒を過ぎても崩れなかった。沖で高さを失い、白くなる前に消えた。
相沢は笑った。
「海、言うこと聞かないな」
「入力値が不足しています」
銀色のシートの縁で、乾いた砂が一筋だけ海の方へ走った。風はずっと、海から陸へ吹いていた。
相沢が見直したときには、砂はもう次の風に散らされていた。
「じゃあ、ずっと見てないとわからない?」
「観測を継続すれば精度は向上します」
ナナは立ち上がった。シートがすぐ風を受け、相沢の背中へ巻きついた。
「うわ、ちょっと」
「動くな」
「先輩がナナを重しにしたからでしょう!」
榊はマイクを守るのに忙しかった。ナナがシートを剥がし、今度は四隅へ水タンクと機材箱を置いた。それから海へ体を向けた。
その横顔を見て、相沢は笑うのをやめた。
ナナは瞬きをしていた。
一度。二度。短い間隔で続けたあと、右目だけを閉じる。指先で睫毛に触れ、何かを確かめるように擦った。
「目、どうかした?」
「飛来物を検出しました」
指先には、白い粒がついていた。
ナナは荷物から真水の瓶と乾いた布を取り出した。布を濡らし、目元を拭く。次に耳の後ろ、首筋、手の甲。順序は正確で、肌に残った潮風を一枚ずつ剥がしていくようだった。
「そんなにつく?」
「許容範囲です」
「それ、平気って意味?」
「予定された対処を実行しています」
答えになっていなかった。
相沢はナナの目を覗き込んだ。サファイア・ブルーの瞳は澄んでいる。ただ、相沢の顔に焦点が合うまで、いつもより少し時間がかかったように見えた。
気のせいかもしれない。
さっき波を外したのも、海が不規則だったからだ。相沢にだって同じ波は二つと見つけられない。ナナの計算が何度か外れたところで、壊れている証拠にはならない。
そう思いたかった。
「今日は帰ろうか」
相沢は言った。
ナナの手が止まった。濡れた布は、首筋に当てられたままだった。
「私は、もう少し見ていたいです」
相沢は返事を忘れた。
「海を?」
「はい」
「俺が入らなくても?」
「はい。次の波がどうなるか、まだ分かりません」
初めて、相沢の希望を理由にしなかった。
「じゃあ、もう少し見よう」
「相沢」
榊の声が飛んできた。
「はい」
「入った」
「何がです」
「おまえの声だ。波に入った」
榊はヘッドホンを片耳だけ外し、録音機の表示を指した。
「二十三分、やり直し」
「人を波より邪魔みたいに言わないでください」
「波は録るものだ。おまえは録れてしまうものだ」
「先輩が俺を連れてきたんでしょう!」
「次は黙れ」
榊は録音機を止め、巻き戻した。砂浜へ、少し前の波音が小さく流れ出す。その奥から、相沢の間の抜けた笑い声が聞こえた。
海、言うこと聞かないな。
録音された自分の声は、自分のものではないようだった。
ナナがそちらを向いた。
波音。相沢の笑い声。もう一度、波音。
彼女は濡れた布を畳み、瓶の蓋を閉めた。
「風向は、海から陸で正しいですか」
ナナが相沢に聞いた。
麦藁帽子の造花は、ずっと陸の側へ倒れていた。銀色のシートも、同じ向きにはためいている。間違えようのない風だった。
「うん。海からこっち」
「了解」
ナナは海へ向き直った。
また一つ、波が崩れた。
彼女は次の波までの秒数を、もう言わなかった。




