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最初の波

 海へ入るための服は、駐車場脇の海の家に売っていた。


 浮き輪と花火と日焼け止めのあいだに、透明な袋へ入った水着が吊られていた。選べる色は濃紺と黒、形は一種類だけ。相沢は値札を見て一度棚へ戻し、ナナの顔を見て、もう一度手に取った。


「活動費だ」


 榊が財布から札を抜いた。


「顧問に怒られません?」


「水辺の音響収録に必要な消耗品と書く」


「水着は消耗品じゃないでしょう」


「海水に入れれば消耗する」


 間違ってはいないところが困った。


 ナナは袋の表示を読み、サイズを確認した。


「使用後は真水で充分に洗浄してください」


「そこだけは守ろう」


 相沢が言うと、ナナは水着ではなく相沢を見た。


「了解」


 着替えには、保養所の脱衣所を使った。


 脱衣所と呼ばれていた部屋には、脚の錆びた体重計と、曇った鏡と、底の抜けた籠が二つあった。相沢は隣の台所で自分の海パンに着替えた。去年まで穿いていたものは少しきつく、紐を結ぶと腹に跡がついた。


 榊は着替えなかった。


「入らないんですか」


「録る」


「海まで来て」


「海まで来たから録る」


 彼の夏は、あくまで録音機の赤いランプの内側にあるらしかった。


 戸の向こうで布の擦れる音が止まった。


「相沢」


 ナナに呼ばれ、相沢は振り返った。


 脱衣所の戸が開いた。


 濃紺の水着は、飾りのない単純な形だった。肩から足まで、覆われているところといないところがはっきりしている。それだけだった。


 それだけのはずなのに、相沢は返事を忘れた。


 スクラップ置場で泥に埋まっていたものとも、六畳間で扇風機の風を分けていたものとも違って見えた。細い肩。まっすぐな脚。陽の入らない脱衣所でも、皮膚は曇りなく光を返している。関節にも継ぎ目はなく、呼吸に合わせて胸元がわずかに動いた。


 どこから見ても、海へ来た女の子だった。


 ナナは麦藁帽子もかぶっていた。つばの造花が、水着の濃紺からひどく浮いている。


「不適切ですか」


「何が」


「相沢の応答が停止しました」


「止まってない。ちょっと処理に時間がかかっただけ」


「処理」


「人間もするんだよ」


 相沢は造花へ目を逃がした。


「帽子、それで入るの?」


「日射対策です」


「流されるよ」


 ナナは帽子の縁を両手で持ち、脱いだ。髪が肩へ落ちる。帽子を相沢へ差し出した。


「保管を依頼します」


「うん」


 受け取った麦藁帽子には、ナナの頭の形に沿った温かさが残っていた。


 *


 裸足になると、足跡はいっそう深くなった。


 乾いた砂の上を進むたび、ナナの足は踝の手前まで沈んだ。抜くと砂が崩れ、丸い穴になる。相沢の足跡はその横に浅く残り、榊のマイクケーブルを何度も跨いだ。


「海へ入るなら、収録範囲の外へ行け」


 榊はヘッドホンをつけたまま言った。


「どこまでですか」


「声が入らなくなるところ」


「先輩の耳が良すぎる限り無理でしょう」


「なら黙って入れ」


 相沢はナナと並んで、波打ち際へ向かった。


 乾いた砂が湿り気を帯びると、足元は少し固くなった。ナナの足跡も浅くなる。その代わり、踏むたびに縁から水が滲み、足の形を光らせた。


 あと一歩で波が届くところで、ナナが止まった。


 沖から白い線が近づいていた。


「塩分濃度は先ほどの推定範囲です。水温二十五・一度。浮遊砂の粒径は」


「ナナ」


 相沢は遮った。


「はい」


「嫌なら、入らなくていいよ」


「予定には含まれています」


「予定じゃなくて」


 波が足元まで来た。


 相沢の爪先を白い泡が洗い、ナナの一歩手前で力を失った。水だけが薄く伸び、彼女の指先へ届く前に砂へ吸われた。


「俺は入りたい。でも、ナナが入らなくても、ここに一緒にいるから」


 言ってから、何か足りない気がした。


 入らなくていい、は正しい。帰ってもいい、も正しい。けれど正しい言葉を並べるたび、相沢は自分だけ安全な岸へ下がっているようだった。


 ナナは海を見ていた。


 次の波が来る。さっきより大きい。彼女は秒数を言わなかった。


 相沢は右手を差し出した。


「手、貸すよ」


「相沢の牽引力では、私の歩行を補助できません」


「知ってる」


「転倒時には相沢を巻き込む危険があります」


「それも、たぶん知ってる」


「合理的な効果がありません」


「じゃあ、一緒に転ぶため」


 ナナが相沢を見た。


「転倒を推奨しているのですか」


「しないほうがいい。でも、一人で転ばせるよりはいい」


 説明すると、ずいぶん馬鹿な提案だった。


 相沢は手を下ろさなかった。


 ナナの視線が、彼の顔から手へ落ちた。近づいてくる波の音が大きくなる。白い泡がもう一度足元へ伸び、今度は彼女の爪先に触れた。


 その瞬間、ナナの指が動いた。


 相沢の手を取った。


 冷たいと思っていた手は温かかった。掌が重なり、指が一本ずつ相沢の指のあいだへ収まる。人の手と少しも違わなかった。握り返される力だけが、壊れ物を扱うように正確だった。


「進みます」


「うん」


 ナナが一歩を出した。


 足が沈んだ。


 濡れた砂は固く見えたのに、百三十八・五キログラムを受けると形を失った。右足の周囲から水が噴き、踝まで砂へ埋まる。そこへ引き波が重なり、足元の砂をさらっていく。抜けるどころか、沈んだ穴だけが広がった。


 ナナの体は微動だにしなかった。


 相沢は反射的に手を引いた。


 動かなかった。


 全身を後ろへ傾け、踵を砂へ食い込ませても、彼女の肩すら揺れない。相沢の腕だけが伸び、足元が滑った。


「牽引力が不足しています」


「実況しなくていい」


「先ほど説明しました」


「それも今いらない」


 ナナは埋まった足を見下ろした。


「駆動出力を上げます」


「待って」


 相沢は握った手に力を込め直した。


「せーのでやろう」


「相沢の出力を加算しても、有意な差は」


「わかってる。タイミングだけ」


 ナナは相沢の手を見た。


「了解」


 次の波が膝の近くまで盛り上がり、崩れた。


 冷たい水が二人の脛へぶつかる。相沢は息を吸った。


「せーの」


 引いた。


 同時に、ナナが足を上げた。


 濡れた砂が低い音を立てて裂けた。彼女の足が穴から抜け、水と砂が一緒に跳ねる。相沢は勢い余って後ろへ倒れかけたが、繋いだ手が止めた。


 今度はナナが相沢を引いていた。


「転倒を回避しました」


「ありがとう」


「一緒に転倒する予定では」


「しないほうがいいって言っただろ」


 ナナは一度だけ瞬きをした。


 次の一歩は、二人で同時に出した。


 相沢の足は浅く、ナナの足は深く沈む。歩幅も、必要な力も、まるで違う。それでも、せーの、と声をかければ足が同じ時に砂を離れた。


 一歩。


 もう一歩。


 波が足首を越えた。


 ナナが立ち止まった。


 水は彼女の脚へぶつかり、二つに割れ、後ろでまた一つになった。細い脚も滑らかな膝も、見た目には夏の海に立つ少女のものだった。その周りだけ波の形が少し変わり、引き波が砂を深く削った。


「どう?」


 ナナは足元を見た。


 波が引く。踝の周りから砂が逃げていく。次の波が来て、今度は膝の下まで白く砕けた。


「冷たいです」


 その声は、波音の中でも相沢にはっきり届いた。


 成分も、温度も、危険性も続かなかった。


 相沢は笑った。


「うん。冷たい」


 引き波が思ったより強く、相沢の足元をさらった。


「わ」


 体が海の側へ傾く。


 繋いだ手が引かれた。ナナは動かない。相沢だけが彼女の隣へ戻され、肩が触れた。


「相沢の支持力は一定ではありません」


「砂のせい」


「歩いて確かめました」


 朝、軽トラックから降りる前に相沢が言った言葉だった。


「覚えてたの」


「記録しています」


 ナナは海を見たまま答えた。


 けれど、握った手の力が少しだけ変わった。指先が確かめるように相沢の指へ触れ、また元の位置へ収まる。


 波が来た。


 二人の後ろに残っていた、深い足跡と浅い足跡を同時に洗った。輪郭が崩れ、穴が埋まり、どちらがどちらのものだったか見分けられなくなる。


 相沢は手を離さなかった。


 ナナも離さなかった。


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