五十パーセント
ナナは、足首を三度洗った。
海から上がってすぐ、保養所の裏手にある水道で一度。着替える前に脱衣所で一度。灰色の服に戻ってから、もう一度。
錆びた蛇口から出る水は、しばらく赤かった。透明になるまで流し、ナナはたらいの上へ片足を置いた。踝から爪先へ水をかけ、指のあいだを布で拭う。反対の足も同じように洗い、布の面を替え、また最初の足へ戻る。
「さっき洗ったよ」
「残留物を検出しました」
「どこに」
ナナは答えず、右足の小指を拭いた。
皮膚はいつもどおり滑らかだった。赤くもなければ、傷もない。相沢が顔を近づけても、砂粒ひとつ見つけられなかった。
それでも布をすすぐと、たらいの水に白いものがわずかに浮いた。
「ナナ」
「はい」
「帰ろう」
「帰還予定は明日の十四時です」
「予定を変える」
相沢は立ち上がった。
戸口では、榊が濡れたケーブルを一本ずつ新聞紙に包んでいた。録音機材は塩に弱いらしい。端子へ洗浄液を吹き、布で拭き、乾燥剤と一緒にケースへ収めている。ナナとほとんど同じ手順なのに、榊の手元だけは機材の手入れに見えた。
「先輩。今日、帰ります」
「帰らない」
顔も上げなかった。
「帰ります」
「夜の波を録っていない」
「ナナをこれ以上ここに置けません」
榊の手が止まった。
彼はナナの足元を見た。濡れた布。二本目の真水の瓶。たらいに浮く白い粒。それから、相沢へ視線を戻した。
「壊れたのか」
「わかりません」
「本人は」
「行動に支障はありません」
ナナが答えた。
「外部環境への対処を継続しています。宿泊および明日の活動は可能です」
「ほら」
「ほら、じゃないでしょう」
相沢の声が大きくなった。
保養所の薄い窓が震えた。外では波が同じ音を繰り返している。朝にはあれほど広く聞こえたのに、今は壁の向こうから押してくるだけだった。
「可能だから何ですか。先輩だって、録音機が動くからって海水に沈めないでしょう」
「防水なら沈める」
「そういう話じゃない!」
榊は洗浄液の蓋を閉めた。
「では、どういう話だ」
「ナナが、帰ったほうがいい状態かもしれないって話です」
「かもしれない」
「壊れてからじゃ遅い」
「帰れば直るのか」
相沢は答えられなかった。
六畳間へ戻れば安全だという保証はない。冷房はない。扇風機は首を振るだけだ。鑑定の二日後、榊が軽トラックで押しつけてきた冷却系らしい部品も、何に使えるのかわかっていない。帰るという行為に、修理の力はなかった。
ただ、ここから離れられる。
塩の風と、海水と、ナナが何度洗っても終わらないものから。
「少なくとも、悪くなる場所からは出られます」
榊は何も言わなかった。
「相沢」
ナナが呼んだ。
「私の活動継続は可能です」
「可能かどうかを聞いてない」
「では、質問を再定義してください」
相沢は息を止めた。
帰ろう、と言った。予定を変える、とも言った。けれど一度も、彼女がどうしたいかを聞いていなかった。
海へ入る前には聞いたはずだった。嫌なら入らなくていい、と言い、手を差し出し、取るかどうかを待った。その直後に、自分はまた彼女の予定を勝手に決めていた。
守りたい、という言葉は便利だった。
相手の答えを待たずに済む。
「ナナは、どうしたい」
今度は、榊を見なかった。
ナナだけを見た。
「ここに泊まりたい。それとも、今日、俺と帰りたい」
ナナの手から水が落ちた。
一滴ずつ、たらいに丸い波紋を作る。彼女は相沢を見たあと、開け放した戸の向こうを見た。防風林の向こうに海は見えない。ただ、波音だけが届いていた。
「相沢は帰還を希望しています」
「俺のはもう言った。ナナのを聞いてる」
「私の選択は、相沢の安全および満足度に影響します」
「するよ。だからって、俺と同じ答えじゃなくていい」
ナナは黙った。
その沈黙は、波を予測するときより長かった。
「帰ります」
「それは、俺が言ったから?」
「相沢が言ったことを含みます」
「ほかには」
ナナは自分の足を見た。濡れた灰色の布。空になりかけた真水の瓶。次に、脱衣所の棚へ置かれた麦藁帽子を見た。
「海は、冷たかったです」
「うん」
「充分に観測しました」
相沢には、それが彼女だけの答えなのか、最後までわからなかった。
それでも、帰ります、は彼女の口から出た。
「わかった。一緒に帰ろう」
「了解」
榊は深く息を吐いた。ヘッドホンを首から外し、まだ乾いていないケーブルを新聞紙ごとケースへ押し込んだ。
「夜の波は」
「また来ればいいでしょう」
「同じ波は来ない」
朝、二本のマイクを立てた理由を、相沢はようやく少しだけわかった。
「じゃあ、今日の波を聞いてください」
「おまえの声が入っている」
「それも今日の音です」
榊は嫌そうな顔をした。
けれど、もう反対はしなかった。
*
帰りの軽トラックは、夕方の国道で給油ランプを点けた。
榊は海から最初に見つけたガソリンスタンドへ入り、エンジンを止めた。隣に小さなコンビニがあった。色褪せた旗が、海とは反対の風にはためいている。
「五分」
榊が言った。
「何が」
「買うなら」
相沢はナナと店へ入った。
冷房の風が濡れ残った髪に当たり、急に寒く感じた。相沢は飲み物の棚へ向かったが、ナナは入口近くの冷凍ケースで止まった。
透明な蓋の下に、二本繋がった細長い氷菓が並んでいた。赤、青、緑。中央が細くなっていて、凍ったまま折ると二つに分かれる。子どものころ、誰かと分けた記憶はない。相沢はいつも一人で両方食べていた。
「これ、知ってる?」
「凍結清涼飲料です。内容量百六十ミリリットル。二室構造。中央分離部の肉厚は」
「知らないってことでいい?」
「用途は理解しました」
「一本、買おう」
「二名分であれば一本です」
「そういう食べ物だから」
相沢は青を選んだ。
店を出ると、駐車場の端にある低い縁石へ二人で座った。ナナが座ったところだけ、縁石の下の砂利が小さく鳴った。
凍ったチューペットを彼女へ渡す。
「折ってみて」
ナナは中央を見た。親指と人差し指で細い部分を挟み、左右の長さを確かめる。
「分離後の内容量差は、〇・〇三ミリリットル未満です」
「そこまで公平じゃなくていいよ」
「公平性は確保できます」
パキリ、と音がした。
凍ったプラスチックが中央から割れ、同じ長さの二本になった。ナナは切り口を確認してから、片方を相沢へ差し出した。
「五十・〇〇パーセントです」
「ありがとう」
相沢は先端を歯で噛み切った。冷たい甘味を吸い込む。青い味、としか言いようのない味がした。
ナナは自分のぶんを持ったまま、相沢を見ていた。
「食べないの」
「開封方法を確認しています」
「そこ、噛んで切る」
「歯牙による切断は衛生上」
「じゃあ指でいいよ」
ナナは指先で先端を摘まんだ。ほんの小さな音がして、プラスチックだけが正確に切れた。
「やっぱりそっちのほうが綺麗だな」
彼女は下から押し、氷を一定量ずつ口へ運んだ。咀嚼も嚥下も同じ間隔だった。
相沢は一気に吸いすぎて、額の奥を刺された。
「痛っ」
「異常ですか」
「冷たいの食べると、たまになる」
「摂取速度を低下させるべきです」
「わかってるけど、こうやって食べるんだよ」
ナナは相沢の手元を見た。
次に氷を押し出す代わりに、切り口へ口をつけた。
吸った。
頬がほんの少し窄まり、透明な容器の中を青い氷が動いた。
「どう?」
「摂取効率は低下しました」
「味は」
ナナはもう一度吸った。
「同じです」
「そりゃ半分にしただけだから」
「相沢と同じです」
何が、と聞きかけてやめた。
味かもしれない。食べ方かもしれない。五十パーセントという量かもしれない。
ナナの指は、凍った容器に触れて冷たかった。けれど、彼女が顔を動かすたび、首の奥から細い回転音が一度だけ聞こえた。
相沢は何も言わなかった。
給油機の数字が回る音。国道を走る車。コンビニの室外機。遠くに残った蝉。
海の音はもう聞こえなかった。
二人は同じ青い甘さを、黙って最後まで吸った。




