↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/33

五十パーセント

 ナナは、足首を三度洗った。


 海から上がってすぐ、保養所の裏手にある水道で一度。着替える前に脱衣所で一度。灰色の服に戻ってから、もう一度。


 錆びた蛇口から出る水は、しばらく赤かった。透明になるまで流し、ナナはたらいの上へ片足を置いた。踝から爪先へ水をかけ、指のあいだを布で拭う。反対の足も同じように洗い、布の面を替え、また最初の足へ戻る。


「さっき洗ったよ」


「残留物を検出しました」


「どこに」


 ナナは答えず、右足の小指を拭いた。


 皮膚はいつもどおり滑らかだった。赤くもなければ、傷もない。相沢が顔を近づけても、砂粒ひとつ見つけられなかった。


 それでも布をすすぐと、たらいの水に白いものがわずかに浮いた。


「ナナ」


「はい」


「帰ろう」


「帰還予定は明日の十四時です」


「予定を変える」


 相沢は立ち上がった。


 戸口では、榊が濡れたケーブルを一本ずつ新聞紙に包んでいた。録音機材は塩に弱いらしい。端子へ洗浄液を吹き、布で拭き、乾燥剤と一緒にケースへ収めている。ナナとほとんど同じ手順なのに、榊の手元だけは機材の手入れに見えた。


「先輩。今日、帰ります」


「帰らない」


 顔も上げなかった。


「帰ります」


「夜の波を録っていない」


「ナナをこれ以上ここに置けません」


 榊の手が止まった。


 彼はナナの足元を見た。濡れた布。二本目の真水の瓶。たらいに浮く白い粒。それから、相沢へ視線を戻した。


「壊れたのか」


「わかりません」


「本人は」


「行動に支障はありません」


 ナナが答えた。


「外部環境への対処を継続しています。宿泊および明日の活動は可能です」


「ほら」


「ほら、じゃないでしょう」


 相沢の声が大きくなった。


 保養所の薄い窓が震えた。外では波が同じ音を繰り返している。朝にはあれほど広く聞こえたのに、今は壁の向こうから押してくるだけだった。


「可能だから何ですか。先輩だって、録音機が動くからって海水に沈めないでしょう」


「防水なら沈める」


「そういう話じゃない!」


 榊は洗浄液の蓋を閉めた。


「では、どういう話だ」


「ナナが、帰ったほうがいい状態かもしれないって話です」


「かもしれない」


「壊れてからじゃ遅い」


「帰れば直るのか」


 相沢は答えられなかった。


 六畳間へ戻れば安全だという保証はない。冷房はない。扇風機は首を振るだけだ。鑑定の二日後、榊が軽トラックで押しつけてきた冷却系らしい部品も、何に使えるのかわかっていない。帰るという行為に、修理の力はなかった。


 ただ、ここから離れられる。


 塩の風と、海水と、ナナが何度洗っても終わらないものから。


「少なくとも、悪くなる場所からは出られます」


 榊は何も言わなかった。


「相沢」


 ナナが呼んだ。


「私の活動継続は可能です」


「可能かどうかを聞いてない」


「では、質問を再定義してください」


 相沢は息を止めた。


 帰ろう、と言った。予定を変える、とも言った。けれど一度も、彼女がどうしたいかを聞いていなかった。


 海へ入る前には聞いたはずだった。嫌なら入らなくていい、と言い、手を差し出し、取るかどうかを待った。その直後に、自分はまた彼女の予定を勝手に決めていた。


 守りたい、という言葉は便利だった。


 相手の答えを待たずに済む。


「ナナは、どうしたい」


 今度は、榊を見なかった。


 ナナだけを見た。


「ここに泊まりたい。それとも、今日、俺と帰りたい」


 ナナの手から水が落ちた。


 一滴ずつ、たらいに丸い波紋を作る。彼女は相沢を見たあと、開け放した戸の向こうを見た。防風林の向こうに海は見えない。ただ、波音だけが届いていた。


「相沢は帰還を希望しています」


「俺のはもう言った。ナナのを聞いてる」


「私の選択は、相沢の安全および満足度に影響します」


「するよ。だからって、俺と同じ答えじゃなくていい」


 ナナは黙った。


 その沈黙は、波を予測するときより長かった。


「帰ります」


「それは、俺が言ったから?」


「相沢が言ったことを含みます」


「ほかには」


 ナナは自分の足を見た。濡れた灰色の布。空になりかけた真水の瓶。次に、脱衣所の棚へ置かれた麦藁帽子を見た。


「海は、冷たかったです」


「うん」


「充分に観測しました」


 相沢には、それが彼女だけの答えなのか、最後までわからなかった。


 それでも、帰ります、は彼女の口から出た。


「わかった。一緒に帰ろう」


「了解」


 榊は深く息を吐いた。ヘッドホンを首から外し、まだ乾いていないケーブルを新聞紙ごとケースへ押し込んだ。


「夜の波は」


「また来ればいいでしょう」


「同じ波は来ない」


 朝、二本のマイクを立てた理由を、相沢はようやく少しだけわかった。


「じゃあ、今日の波を聞いてください」


「おまえの声が入っている」


「それも今日の音です」


 榊は嫌そうな顔をした。


 けれど、もう反対はしなかった。


 *


 帰りの軽トラックは、夕方の国道で給油ランプを点けた。


 榊は海から最初に見つけたガソリンスタンドへ入り、エンジンを止めた。隣に小さなコンビニがあった。色褪せた旗が、海とは反対の風にはためいている。


「五分」


 榊が言った。


「何が」


「買うなら」


 相沢はナナと店へ入った。


 冷房の風が濡れ残った髪に当たり、急に寒く感じた。相沢は飲み物の棚へ向かったが、ナナは入口近くの冷凍ケースで止まった。


 透明な蓋の下に、二本繋がった細長い氷菓が並んでいた。赤、青、緑。中央が細くなっていて、凍ったまま折ると二つに分かれる。子どものころ、誰かと分けた記憶はない。相沢はいつも一人で両方食べていた。


「これ、知ってる?」


「凍結清涼飲料です。内容量百六十ミリリットル。二室構造。中央分離部の肉厚は」


「知らないってことでいい?」


「用途は理解しました」


「一本、買おう」


「二名分であれば一本です」


「そういう食べ物だから」


 相沢は青を選んだ。


 店を出ると、駐車場の端にある低い縁石へ二人で座った。ナナが座ったところだけ、縁石の下の砂利が小さく鳴った。


 凍ったチューペットを彼女へ渡す。


「折ってみて」


 ナナは中央を見た。親指と人差し指で細い部分を挟み、左右の長さを確かめる。


「分離後の内容量差は、〇・〇三ミリリットル未満です」


「そこまで公平じゃなくていいよ」


「公平性は確保できます」


 パキリ、と音がした。


 凍ったプラスチックが中央から割れ、同じ長さの二本になった。ナナは切り口を確認してから、片方を相沢へ差し出した。


「五十・〇〇パーセントです」


「ありがとう」


 相沢は先端を歯で噛み切った。冷たい甘味を吸い込む。青い味、としか言いようのない味がした。


 ナナは自分のぶんを持ったまま、相沢を見ていた。


「食べないの」


「開封方法を確認しています」


「そこ、噛んで切る」


「歯牙による切断は衛生上」


「じゃあ指でいいよ」


 ナナは指先で先端を摘まんだ。ほんの小さな音がして、プラスチックだけが正確に切れた。


「やっぱりそっちのほうが綺麗だな」


 彼女は下から押し、氷を一定量ずつ口へ運んだ。咀嚼も嚥下も同じ間隔だった。


 相沢は一気に吸いすぎて、額の奥を刺された。


「痛っ」


「異常ですか」


「冷たいの食べると、たまになる」


「摂取速度を低下させるべきです」


「わかってるけど、こうやって食べるんだよ」


 ナナは相沢の手元を見た。


 次に氷を押し出す代わりに、切り口へ口をつけた。


 吸った。


 頬がほんの少し窄まり、透明な容器の中を青い氷が動いた。


「どう?」


「摂取効率は低下しました」


「味は」


 ナナはもう一度吸った。


「同じです」


「そりゃ半分にしただけだから」


「相沢と同じです」


 何が、と聞きかけてやめた。


 味かもしれない。食べ方かもしれない。五十パーセントという量かもしれない。


 ナナの指は、凍った容器に触れて冷たかった。けれど、彼女が顔を動かすたび、首の奥から細い回転音が一度だけ聞こえた。


 相沢は何も言わなかった。


 給油機の数字が回る音。国道を走る車。コンビニの室外機。遠くに残った蝉。


 海の音はもう聞こえなかった。


 二人は同じ青い甘さを、黙って最後まで吸った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。