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三十八・九度

 八月十三日の朝、扇風機の風が冷たかった。


 相沢は布団の中で丸くなり、首振りがこちらを向くたびに肩まで夏掛けを引き上げた。窓の外では、朝から蝉が鳴いている。天井近くに溜まった熱気は目に見えそうなほどで、枕は汗を吸っていた。


 それでも寒かった。


 汗で濡れた背中だけが、布団の内側へ冷たく貼りついていた。


「相沢。起床時刻を二十七分超過しています」


 ナナの声が頭の上からした。


「起きてる」


 自分の声が、湿った紙を丸めたように聞こえた。


「開眼していません」


「目を閉じて起きてる」


「通常の起床状態と一致しません」


「盆休みだから」


 言ってから、今日が盆休みでも、放送部へ行く約束をしていたことを思い出した。祭りの場内放送に使うケーブルを、午前中に点検する。榊は九時に来いと言った。来なければ録音済みの何かを学校で流す、とも言った。


 時計は八時二十二分だった。


 相沢は夏掛けを剥いだ。


 冷気が肌へ張りついた。歯が鳴りそうになる。立てば治る、と根拠なく思い、床へ手をついた。


「どこへ行きますか」


「学校。遅れる」


「本日の相沢は、昨日より動作速度が三十二パーセント低下しています」


「寝起き」


「発声の基本周波数が低下しています」


「声変わり」


「昨夜から今朝にかけての変化としては急激です」


「二回目」


 ナナは黙った。


 冗談が通じたのか、見放されたのかはわからなかった。


 相沢は箪笥からシャツを出した。ボタンを一つずつ留める。三つ目を留めたつもりで四つ目の穴へ通していた。やり直そうとして、指がうまく動かないことに気づいた。


「手伝おうか」


「不要」


 言葉が逆だった。


「手伝いますか、と聞こうとした」


「相沢は私の衣服を着用していません」


「そうだった」


 笑うと咳が出た。


 一度で止まらず、胸の奥に残ったものを追い出すように続いた。息を吸うと喉が擦れた。畳へ手をついたまま顔を上げると、ナナがすぐ前に膝をついていた。


「呼吸間隔が不規則です」


「咳したから」


「体表温度が上昇しています」


「夏だから」


「発汗量が増加しています」


「夏だから」


「相沢」


「何」


「同一の説明が、異なる三項目に適用されています」


「便利だろ」


 立ち上がった。


 部屋が遅れてついてきた。


 蛍光灯が横へ滑り、壁が傾いた。相沢は柱へ手を伸ばしたが、距離を間違えた。指先が空を掻く。


 床へ落ちる前に、脇の下を支えられた。


 ナナの腕は一ミリも沈まなかった。


「離して。座れば平気」


「現在、立位を維持できていません」


「だから座る」


「相沢の意図した着座ではありません」


「結果は同じ」


「同じではありません」


 ナナは相沢を布団へ戻した。


 運ばれた、と認めるのは癪だった。実際には、彼女の腕に体重を預けたまま三歩移動しただけである。その三歩のあいだ、自分の足がどれだけ役に立ったかは考えないことにした。


「測定します」


「何を」


「相沢を」


「単位が大きいな」


 ナナは流し台の上の戸棚を開けた。薬箱、包帯、使いかけの消毒液、いつ買ったかわからない胃薬を順に取り出す。底から古い電子体温計を見つけ、電池蓋を確認した。


「電池切れてるかも」


 短い電子音が鳴った。


「動作しています」


「人の言うこと聞かないな」


「体温計は相沢の発言を入力としていません」


 脇へ挟まれた。


 待っているあいだ、扇風機がこちらを向いた。寒い。相沢が腕を伸ばして止めようとすると、ナナが先に首振りのつまみを押した。風は壁へ向けられた。


「暑くない?」


「質問の対象を明確にしてください」


「ナナ」


「問題ありません」


 体温計が鳴った。


 ナナが取り出し、表示を見る。


 三十八・九。


 相沢には、風邪だな、という程度の数字だった。学校は休む。水を飲む。寝る。夕方まで下がらなければ、榊にでも連絡を頼む。そういう順番が頭に浮かんだ。


 ナナには違う数字に見えたらしい。


 彼女の瞳が細く絞られた。


「測定誤差を確認します」


「もう一回はいいよ」


 体温計の先端を布で拭き、電源を入れ直す。


「相沢。氏名を回答してください」


「相沢」


「下の名前」


 答えた。


「現在地」


「俺の部屋」


「激しい頭痛はありますか」


「重いけど、激しくはない」


「呼吸困難。胸部痛。痙攣。意識消失。反復する嘔吐」


「ない。どこで覚えたの、それ」


 ナナは答えず、相沢の瞼を指で開いた。左右を見比べ、手首へ触れ、首筋へ移る。動作が速い。速すぎて、一つを確かめ終わる前に次へ行っているように見えた。


「電話はどこですか」


「玄関」


 ナナが立った。


「待って。どこ行くの」


「救急要請を行います」


「そこまでじゃない」


「生命活動の維持に異常を検出しました」


「風邪だよ。たぶん」


「診断根拠がありません」


「ナナにもないだろ」


 彼女の動きが止まった。


「ないなら、危ない症状が出てるかを見る。今のところ、話せる。水も飲める。息もできる。もし意識がおかしくなったり、息が苦しくなったり、水も飲めなくなったら、すぐ電話。いい?」


「相沢は判断能力の低下が疑われます」


「そこまで正しいこと言えるなら、まだ大丈夫」


「自己評価は採用できません」


 即答だった。


 相沢は目を閉じた。反論する体力が惜しくなった。


「じゃあ、見てて。悪くなったら電話して」


「継続監視を実施します」


 ナナは座り直した。


 二度目の測定も、三十八・九度だった。


 *


 看病は、六畳間のあちこちから集められた。


 薬箱の底に入っていた家庭医学の小冊子。古新聞の切り抜き。麦茶の袋に印刷された水分補給の注意。棚に残っていたスポーツ飲料の粉。相沢が小学生のころに聞いた覚えのある、葱を首へ巻くという話。


「葱はやめて」


「局所加温および揮発成分の効果を検証できません」


「検証しなくていい」


「額を冷却する。腋窩を冷却する。頸部を冷却する。発汗を促進する。過度な発汗を避ける。厚着をする。薄着にする」


 ナナは集めた紙を畳の上へ並べた。


「全部やったら死ぬな」


「不適切な表現です」


「ごめん」


 その二文字で、ナナの手が止まった。


「死なないよ。たぶん」


「推定根拠が不足しています」


「普通の風邪なら」


「診断は確定していません」


 正しかった。


 だからこそ、少し怖くなった。


 ナナは互いに矛盾する紙を一枚ずつ脇へ寄せた。最後に残したのは、水分を少量ずつ取ること、無理に食べないこと、汗で濡れた衣服を替えること、室温を調整して安静にすること、症状が悪化すれば医療機関へ相談することだった。


「これなら」


「実施します」


 まず、薄めたスポーツ飲料が作られた。ナナはコップを相沢の口へ運ぼうとしたが、相沢が自分で持つと言うと渡した。両手で持って、三口飲む。甘さが喉に引っかかったが、吐き気はなかった。


「飲める」


「摂取量六十二ミリリットル」


「そこまで数えなくていい」


「必要です」


 汗で濡れたシャツを替えた。ボタンはナナが留めた。今度は穴を間違えなかった。


 水で濡らしたタオルを絞り、額へ置く。冷たさが染み込み、相沢はようやく肩の力を抜いた。


「気持ちいい」


 ナナの指が、タオルの上で止まった。


「冷却を継続します」


「ありがと」


「安静にしてください」


「もう平気」


「却下します」


 相沢は目を開けた。


 聞き間違いかと思った。


「今、却下って言った?」


「相沢の自己申告は、測定値および行動結果と一致しません」


「でも」


「却下します」


 二度言われた。


 ナナは額のタオルを裏返した。もうぬるくなっていた。たらいの水へ戻し、絞り直す。


 扇風機は壁へ向けたまま、誰もいない場所へ風を送っている。


 次のタオルを水へ沈めようとして、ナナの手が一瞬止まった。


 彼女はたらいを見た。流し台を見た。窓を見た。最後に、部屋の隅に置かれた、サカキ金属から持ち帰った黒いシリンダーを見た。


 冷たいものを探すように。


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