冷たい手
ナナは黒いシリンダーを持ち上げた。
片手で抱えられる長さだったが、床から離れるとき、畳が小さく鳴った。曇った金属の表面にラベルはない。片端に細い管が何本も束ねられ、もう片端には相沢が見たことのない接続口が並んでいた。
「それ、使えるの」
布団から聞くと、ナナはシリンダーを回した。
「熱交換器に類似しています」
「冷たい?」
「現在は室温と同じです」
「水、入れるとか」
「内部構造と使用媒体を特定できません」
「じゃあ、やめよう」
「しかし」
「却下」
相沢は言った。
ナナがこちらを見た。
「相沢の判断能力は低下が疑われます」
「それでも、わからないものを俺に繋ぐよりはまし」
「相沢へ接続する予定はありません」
「じゃあ何に使うの」
返事はなかった。
ナナはシリンダーを元の場所へ戻した。置く瞬間だけ両手を使い、畳へ衝撃が伝わらないようにゆっくり降ろす。
「用途がわかってからにしよう」
「相沢の体温低下が先です」
「急がなくていい」
「急を要します」
声はいつもと同じだった。
だから、その先に何を考えているのか、相沢にはわからなかった。
たらいの水は、もう冷たくなかった。
濡らしたタオルを額へ置く。数分もしないうちに体温を吸い、ぬるくなる。裏返しても同じだった。ナナは流し台で水を替え、絞り、戻ってくる。階段を下りて共同水道まで行く時間も含め、同じ手順を何度も繰り返した。
相沢は三回目までは数えていた。
四回目だったかもしれないタオルが額へ置かれたころ、時計は十一時を過ぎていた。
「学校」
思い出して口にした。
「榊弦一郎へ欠席を通知しました」
「どうやって」
「玄関の電話から学校へ連絡しました」
「一人で行ったの」
「はい」
「大丈夫だった?」
「質問の対象を明確にしてください」
「ナナ」
「問題ありません」
戻ってきた言葉は、前にも聞いたものだった。
相沢はそれを受け入れようとして、できなかった。
「何て言ったの」
「相沢は本日、体調不良により欠席します」
「先輩は」
「三十八・九、と言いました」
「それだけ?」
「通話が終了しました」
榊らしかった。見舞いの言葉も、質問もない。けれど、切る前に相沢の体温だけは聞いたらしい。
「怒ってた?」
「音圧は通常範囲でした」
「じゃあ怒ってる」
少し笑うと、また咳が出た。
ナナの手が背中へ回る。咳が止まるまで、一定の速さでさすった。掌は、いつもと同じ温かさだった。
スポーツ飲料をもう少し飲んだ。体温計は三十八・七度を示した。
「下がった」
「測定誤差の範囲である可能性があります」
「厳しいな」
「継続します」
ナナは新しいタオルを水へ沈めた。
絞ろうとして、止まった。
水面の上で両手を見た。表と裏を返す。指を曲げ、開く。動作確認をしているようだった。
「どうしたの」
「別の方法を試行します」
「変なことしないでよ」
「相沢への危険はありません」
「ナナには」
彼女は答えなかった。
右手を相沢の額へ置いた。
最初は温かかった。海で繋いだときと同じ、人の体温に似せた温かさだった。
数秒して、変わった。
掌の中心から冷えていく。氷のような刺す冷たさではない。井戸水へ浸した布のように、熱を受け取っても温まりきらない冷たさだった。相沢は目を閉じた。
「少し、楽になった」
「冷やし続けます」
「どうやってるの」
「接触面の温度を調整しています」
「ナナは熱くならない?」
「相沢の体温低下を優先します」
「答えになってない」
「優先順位を回答しました」
掌は額から首筋へ移った。
冷たい指が、脈を確かめるように触れる。そこから熱が抜けていく感覚がした。医学的にそんなことがあるのかはわからない。熱に浮かされた頭が、冷たさを大きく感じているだけかもしれなかった。
ただ、楽だった。
それだけは確かだった。
相沢は壁を向いている扇風機へ目をやった。
「あれ、ナナに向けて」
「相沢への直接送風は停止しています」
「俺じゃなくて、ナナ。暑いんだろ」
「私の体感温度は判断基準になりません」
「また、答えになってない」
相沢は布団から腕を伸ばした。首振りのつまみには届かない。起き上がろうとすると、額の手がわずかに重くなった。
「安静を継続してください」
「じゃあ、せめて風」
ナナは扇風機の台座を持った。
自分へ向けるのだと思った。けれど彼女は、相沢の布団と自分が膝をついている場所の、ちょうど中間へ風を向けた。風は畳を撫で、二人のどちらにもほとんど届かなかった。
「そこ、誰もいない」
「直接送風を避け、室内の空気を循環させます」
「ナナが涼しくないだろ」
「相沢の冷却を継続します」
扇風機は首を振らず、二人のあいだの空いた場所へ風を送り始めた。
相沢には、それ以上動かす力がなかった。
十二時を過ぎた。
相沢が眠り、起きるたび、ナナは同じ場所にいた。
水を飲む。体温を測る。汗を拭く。シャツの背中が湿っていれば替える。冷たい手が額へ戻る。時計の長針が進み、扇風機の影が壁を往復した。
三十八・五。
三十八・三。
三十八・一。
数字は少しずつ下がった。
相沢がもう一度眠りかけたころ、額から手が離れた。
冷たさがなくなったことだけはわかった。抗議しようとして、声にならない。代わりに、すぐ近くで布の擦れる音がした。掛け布団の端が持ち上がり、夜の空気が首筋へ入った。
ナナが、自分から布団へ入ってきた。
相沢はそれを、夢の途中のように見た。黒い髪が枕へ広がる。細い腕が首の下へ差し込まれ、もう片方の腕が背中へ回った。頬がナナの胸元へ引き寄せられる。石鹸の匂いに、ほんの少しだけ、何かの焦げた匂いが混じっていた。
冷たい。
けれど、氷を当てられたときの冷たさではなかった。額だけでも、首筋だけでもない。頬、胸、背中。熱を持った身体の広いところを、ナナが抱きしめたまま冷やしていた。
腕の力は弱かった。
逃がさないためではなく、そばに置くための力だった。
「相沢」
耳元で呼ばれた。
「苦しくありませんか」
相沢は答えようとした。何を訊かれたのか、半分も理解していなかった。ただ、さっきまで身体の中で暴れていた熱が、抱かれている場所から静かになっていく。
「気持ちいい」
それだけ言った。
ナナの腕が、ほんの少しだけ強くなった。
「そうですか」
声が、少し嬉しそうだった。相沢の熱が下がり始めたときより、海で手をつないだときより、わずかに柔らかかった。
これでいい、と言っているように聞こえた。
相沢はもう目を開けなかった。ナナの呼吸に似せた空気が髪を揺らし、冷たい指が背中をゆっくり往復した。
それが彼を冷やすための動作なのか、ただ抱いていたかったのか、相沢にはわからなかった。
どちらでもよかった。




