浴衣
榊は、紙袋を置いて帰った。
「何ですか、これ」
「浴衣」
「それは見ればわかります」
「なら問題ない」
問題は山ほどあった。
まず、紺色の浴衣がなぜ榊の家にあったのか。次に、それをなぜナナへ持ってきたのか。そもそも、男の一人暮らしである相沢の部屋へ女性用の浴衣を置いていくことに、何か説明の必要を感じなかったのか。
相沢が一つ目の問題を口にするより早く、榊は玄関でサンダルを履いた。
「うちの倉にあった。未使用。寸法はたぶん合う」
「たぶんで服を渡さないでください」
「祭りがある」
「それも知ってます」
「なら問題ない」
二度目だった。
榊は紙袋の上に折り畳んだ紙を一枚載せ、そのまま階段を下りていった。引き止めようとした相沢は、まだ本調子ではない足に一瞬遅れを取った。戸口へ出たときには、階下からサンダルの音だけが聞こえていた。
「先輩は絶対、問題の意味をわざと間違えてる」
「意図的な誤認ですか」
「そういう高度なものじゃない。ただ面倒なだけだ」
ナナは紙袋の横に座り、中を覗き込んだ。
八月三十日。看病の夜から、二週間あまりが経っていた。
盆を越え、八月はあと二日しかない。相沢の熱は翌朝には下がり、いまでは食欲も戻っていた。
「開けてもいいですか」
「俺に訊かなくていいよ。ナナのだろ」
ナナは相沢を見た。それから、紙袋へ視線を戻した。
「私のものですか」
「榊先輩は、そのつもりで持ってきたんじゃないか」
「返却の必要は」
「ないって。ほら」
榊の置いていった紙を開いた。
表には、太い油性ペンで三行だけ書かれていた。
未使用。
返却不要。
帯は別袋。
「説明書です」
「説明してないよ、ほとんど」
浴衣を取り出すと、畳の上に夏の夜の色が広がった。濃い紺地に、白い朝顔が散っている。花の輪郭には淡い水色が入り、蔓だけが細い銀色の糸で縫われていた。紙袋の底から、薄い山吹色の帯と白い下着、それからもう一枚、今度こそ説明書らしい紙が出てきた。
最後に、小さな箱が出てきた。
赤い鼻緒のついた、黒塗りの下駄が一足入っていた。
「これも、私のですか」
「たぶん」
ナナは浴衣より先に下駄を揃え、しばらく見ていた。
「履いてみたいです」
「まず浴衣からな」
「はい」
ナナは浴衣の端を指でつまんだ。
布が、指の動きからわずかに遅れて持ち上がった。
「綿です。平織り。強度は……」
そこで言葉を止めた。
白い朝顔へ指を滑らせ、銀色の蔓が光る角度を何度か変えた。
「きれいです」
相沢はナナを見た。
「いま、自分でそう思った?」
「はい。たぶん」
「たぶんでいいよ」
ナナはもう一度、朝顔を見た。今度は繊維の強度を口にしなかった。
相沢は浴衣を畳み直そうとした。祭りは明日だった。今日は寸法だけ確かめて、着付けは榊の家で誰かに頼めばいい。
「今、着たいです」
ナナが言った。
「今?」
「相沢に、見てほしいので」
「さっき着るだけって言ったら否定しただろ」
「気が変わりました」
「自分の意見を変えたとは言わないんだな」
「着ます」
ナナは同じ言葉を繰り返した。
声は平坦だった。けれど紙袋へ伸ばした手は、すでに白い下着を抱えていた。
相沢は負けた。
「わかった。じゃあ、俺は外にいるから」
「相沢に、着せてほしいです」
今度は、理解するまでに時間がかかった。
「俺が?」
「はい」
「できないよ」
「説明図があります」
「図があればできるなら、プラモデルで失敗する人はいない」
「失敗しても、やり直せます」
声はまだ平坦だった。しかし、必要だからとは言わなかった。
説明図ではなく相沢を見ていた。
白い下着だけは自分で着る、という妥協が成立した。ナナが台所の奥へ移動しているあいだ、相沢は説明図を読んだ。襟を合わせる。裾を決める。腰紐を締める。背中の皺を取る。帯を二周させる。
絵の中の女性は、なぜか全工程を微笑んでいた。
実際にやる人間の気持ちを、まったく考えていない絵だった。
「準備ができました」
声に振り返り、相沢はすぐに目を逸らした。
白い下着は首から足首までをきちんと覆っていた。何も見えてはいない。それでも、いつもの灰色の服ではないというだけで、見てはいけないものを見た気がした。
「相沢」
「わかってる。今やる」
浴衣を肩から掛けた。
ナナは直立した。姿勢が良すぎた。右袖を通し、左袖へ腕を入れる。相沢が布を引き上げるたび、朝顔が肩から胸へ移っていった。
「もうちょっと力を抜いて」
「どうすればいいですか」
「そういう意味じゃなくて」
「分かりません」
「俺に任せて」
ナナは二秒止まった。
肩が、ほんの少しだけ下がった。
「はい」
その返事で、相沢のほうが緊張した。
襟を合わせる。右を下にして、左を重ねる。説明図を一度だけ逆に読み、ナナに「死装束の合わせ方です」と指摘された。
「そういう言い方するなよ」
「相沢が怖がると思いました」
「分かってて言ったの?」
「はい」
ナナは、ごく小さく笑った。
最初からやり直した。
今度は布が素直に重なった。相沢が裾を持ち上げると、ナナも少しだけ足を引き、二人で長さを決めた。
「次は腰紐」
「はい」
「少し近づくぞ」
「はい」
返事が早すぎて、相沢のほうが困った。
ナナの正面に立ち、腰へ紐を回した。浴衣の上からでも、身体の熱がわかった。看病の夜に触れた頬ほどではない。それでも人間の体温より高い。紐を背中へ渡すため、両腕をナナの脇へ伸ばす。
距離がなくなった。
ナナの髪から、石鹸の匂いがした。呼吸らしい空気が相沢の首へ触れた。顔を上げれば近すぎるので、紐だけを見た。
「きつくないか」
「大丈夫です」
「苦しかったら言えよ」
「苦しくありません」
「そうじゃなくて」
結び目を作ろうとして、指が滑った。
ナナの身体が震えていた。
大きな揺れではない。浴衣越しに触れていなければ、見落としたかもしれない。細かく、速い震えだった。一定ではなく、ときどき一拍だけ途切れ、そのあと強く戻ってくる。
相沢は手を止めた。
「ナナ」
「はい」
「震えてる」
「武者震いです」
間髪を入れずに返ってきた。
「何と戦うんだよ」
「浴衣の着付けです」
「それは俺の戦いだ」
「共同戦線を提案します」
おかしな答えだった。
おかしかったから、相沢はすぐには追及できなかった。
「熱もある」
「夏です」
「部屋の温度より高い」
「武者震いです」
「便利だな、それ」
「はい」
ナナは認めた。
相沢は紐を締めた。強くしすぎないよう、指一本ぶんの余裕を残した。震えは止まらなかった。だが、ナナの背筋はまっすぐで、声にも乱れはない。
帯はさらに難しかった。
二周させる途中で上下がねじれた。結び目は説明図の蝶に似ず、途中まで食べた菓子パンのようになった。ナナは背後を確認できないので、相沢の説明だけを聞いていた。
「形状を言語化してください」
「失敗」
「形状ではありません」
「かなり失敗」
「程度の説明でもありません」
五分かけてほどき、もう一度結んだ。
今度は蝶に見えた。少なくとも、相沢にはそう見えた。帯の端を整え、背中の中央へ置く。手を離しても崩れないことを確認してから、二歩下がった。
「できた」
ナナが振り返った。
紺地に咲いた白い朝顔が、身体の線に沿って静かに続いていた。山吹色の帯が細い腰を囲み、いつも下ろしたままの黒い髪を際立たせている。浴衣の袖から出た手も、白い襟に包まれた首筋も、夏祭りを待っている少女のものだった。
ナナは壁の小さな鏡を見なかった。
相沢を見た。
「どうですか」
「え」
「似合いますか」
相沢は答えようとした。
似合っている。それだけでいいはずなのに、言葉が出なかった。
扇風機が左を向いた。風がナナの袖を膨らませ、朝顔を揺らした。黒い髪が頬へかかる。ナナはそれを払わず、相沢の答えを待っていた。
「すごく、似合ってる」
ようやく言った。
ナナは瞬きをした。
「どのくらい?」
「程度?」
「もっと、聞きたいです」
「比較するものがない」
「似合わない?」
「違う」
相沢は頭を掻いた。目を逸らそうとして、できなかった。
「今まで見た中で、いちばん似合ってる」
「ほかの人にも、そう言ったことがありますか」
「そういうこと訊くなよ」
「では、ないことにします」
「保留するのは俺だ」
ナナの唇が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのかどうか、相沢にはわからなかった。けれど彼女は鏡へ向かわなかった。袖を持ち上げて柄を調べることも、帯の結び目を確認することもしなかった。
「相沢」
「何」
「もう一度、お願いします」
扇風機が右端で、かたん、と鳴った。
去年までの、きゅ、とは違う音だった。
風のなくなった浴衣の裾で、白い朝顔がかすかに震えていた。
「似合ってるよ、ナナ」
今度は、すぐに言えた。




