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遠雷

 浴衣は、すぐに脱ぐことになっていた。


 試着なのだから、寸法が合うとわかれば目的は終わる。汗を吸わせる前に畳んだほうがいい。相沢はそう言い、ナナも「そうですね」と答えた。


 それから十五分が経っていた。


 ナナはまだ浴衣を着ていた。


「脱がないの」


「もう少し、着ていたいです」


「何分くらい?」


「まだ、決めていません」


「気に入った?」


「はい。気に入りました」


 今度は、言い訳をしなかった。


 ただし、さっきまで立っていた鏡の前ではなく、窓際に座っていた。畳に両脚を揃え、帯が崩れないよう背筋を伸ばしている。紺色の裾が足元へ丸く広がり、白い朝顔が午後の光を受けていた。


 相沢は、それ以上言わなかった。


 浴衣を着ている時間が延びることに、不都合はない。むしろ、似合っていると言ったのが自分だけなのだから、もう少しくらい見ていたかった。


 扇風機が首を振っていた。


 風が窓から入る熱気とぶつかり、部屋の中を生ぬるく回った。外では蝉が鳴いている。隣室のラジオから野球中継が聞こえ、実況が何かを叫ぶたび、少し遅れて拍手が起きた。階下では大家が植木鉢へ水を撒いていた。ホースの水がコンクリートへ当たり、乾いた匂いを濡らしていく。


 夏の午後だった。


 遠くの街路スピーカーから、風にちぎれた女の声が届いた。


『第三空域に保全措置が――』


 ナナが、相沢より先に窓の外へ顔を向けた。


 音がした。


 最初、相沢は大型トラックが通ったのだと思った。


 低く、長い音だった。耳で聞くより先に、窓硝子が細かく震えた。流しに置いたコップの水面へ輪が広がり、そのあとで、空のずっと遠いところから腹へ響く音が届いた。


 ごろごろ、という雷の音ではなかった。


 何か巨大なものを、さらに巨大な金属の板へ押しつけたような音だった。低い響きは数秒続き、ゆっくり薄くなり、最後は蝉の声に紛れた。


 放送部で、雷の音を録ったことがあった。榊に夏の環境音が要ると言われ、校舎の軒下で二時間待った。あのときの雷は、最初の一撃が山へ当たり、遅れて返ってきた音と混ざりながら形を変えた。近い音、遠い音、そのあいだの空気まで録音には入っていた。


 今の音には、距離だけがあった。


 始まりから終わりまで太さが変わらず、どこにも当たらず、どこからも返ってこなかった。そう聞こえただけかもしれない。窓硝子の震えを雷だと思って聞けば、雷らしくもあった。


 相沢は窓の外を見た。


 空は青かった。


 入道雲は南の山沿いにあるだけで、頭上には薄い雲さえない。雨の匂いもしなかった。大家は水を撒き続け、隣のラジオでは実況が打者の成績を読み上げていた。


「雷かな」


 返事がなかった。


 ナナは窓の外を見ていた。


 顔は動いていない。だが、さっきまで外のどこにも焦点を合わせていなかった瞳が、今は空の一点へ固定されていた。相沢には何も見えない場所だった。


「ナナ」


「はい」


 一拍遅れて返った。


「雷?」


「雷かもしれません」


「何パーセント?」


 ナナは答えなかった。


 青い瞳の奥で、光が走った。


 数字のようにも見えた。細い線と小さな点が、網膜の奥を横切っては消える。買い物のときに見た表示より速く、数も多かった。線は一度、角を作り、別の線と重なって、すぐにほどけた。


 相沢が覗き込むと、ナナは瞬きをした。


 光は消えた。


「今の、何」


「遠くへ、目を合わせました」


「空を見るのに?」


「遠くを見ていました」


「何を見てた」


「空です」


「それは俺にもわかる」


 ナナは相沢へ顔を向けた。


 遅かった。顔を動かすという一つの動作が、首、目、肩の順に分かれていた。浴衣の袖に隠れた右手が、布を強く握っている。白い朝顔の一つが、指の下で皺になっていた。


「相沢」


「何」


「窓から離れて」


 声は平坦だった。


「どうして」


「雷かもしれません」


「雲ないぞ」


「違うとは言い切れません」


「何パーセント」


 また答えなかった。


 相沢は立ち上がった。


 窓から離れたのではなく、ナナの隣へ行った。空を見上げる。青いだけだった。電線に雀が二羽止まり、互いの場所を奪うように跳ねている。そのさらに上には、何もなかった。


「俺には見えない」


「何もありません」


「じゃあ、何を見てる」


「空です」


 三度目だった。


 ナナは嘘が下手だった。言葉そのものは間違っていなくても、同じ答えを繰り返すときは、その外側に何かを隠している。


 相沢がもう一度訊こうとしたとき、二度目の音がした。


 今度は短かった。


 どん、と遠くで一つ鳴った。その直後に、少し高い音が三つ重なった。一定の間隔ではない。最初の音へ何かが追いつき、空の奥で続けて砕けたように聞こえた。


 雀が飛び立った。


 窓硝子が鳴った。


 ナナが相沢の胸を押した。


 強くはなかった。だが、その細い腕は相沢を窓際から二歩ぶん確実に遠ざけた。相沢が体勢を立て直したとき、ナナはもう窓と相沢のあいだに立っていた。


 浴衣姿の背中だった。


 山吹色の帯が視界を横切っている。結び目は相沢が作った不格好な蝶のままだった。両袖は身体の脇へ垂れ、指先だけが見えている。その指が、細かく震えていた。


「雷じゃないのか」


「雷かもしれません」


「さっきと同じ答えだ」


「同じ質問です」


「今、俺を押しただろ」


「窓から離れてと言いました」


「雷なら、ナナも離れろよ」


「私は問題ありません」


 相沢はナナの背中を見た。


 帯の下で、身体がわずかに揺れていた。さっきの武者震いと同じ細かさだった。けれど今度は、相沢が触れていなくてもわかった。


「問題あるだろ」


「ありません」


「震えてる」


「武者震いです」


「まだ着付けと戦ってるのか」


 ナナは答えなかった。


 遠い音は、それきり聞こえなかった。


 蝉が鳴いていた。ラジオの実況が歓声に掻き消された。階下で水道の栓が閉まり、ホースの中に残った水がしばらく流れ続けた。


 何も起きなかったことにするには、十分な音が戻ってきた。


 隣室の住人は窓を閉めなかった。大家も空を見上げなかった。通りを自転車が走り、荷台の空き缶を鳴らして角を曲がった。誰も逃げず、誰も声を上げない。相沢だけが、ナナの背中の向こうにある青空を見ていた。


 相沢は窓を閉めた。


 硝子の向こうで、空はまだ青かった。


「もう大丈夫なんじゃないか」


「判断できません」


 初めて、ナナがそう言った。


 可能性や許容範囲ではなかった。判断できない。それだけだった。


 相沢は窓の鍵をかけた。薄い硝子一枚で何が変わるとも思えなかったが、ナナは相沢が窓から離れたことを確認すると、ようやく肩を下ろした。


「ナナは何か知ってる?」


「言えません」


「知らない、じゃなくて?」


「言えません」


 相沢は待った。


 ナナも待っていた。


 扇風機だけが二人のあいだで首を振った。


「俺に言えないこと?」


「言えません」


 三度目の同じ答えだった。


 相沢は追及をやめた。


 納得したわけではない。ナナが何かを隠していることも、その何かが遠い音と関係していることも、もう疑いにくかった。ただ、彼女が言わないのではなく、言えないと言った。そこにある差だけは、相沢にもわかった。


「わかった」


 ナナの瞳が相沢へ戻った。


「でも、次に音がしたら教えて。聞こえる前でも」


「次は、もっと早く離します」


「そうじゃなくて。一人で決めないでくれ」


 返事はすぐには来なかった。


「できるだけ」


 約束ではなかった。


 今は、それで受け取るしかなかった。


 ナナは壁の鏡へ向かった。


 相沢は、てっきり空を見るためだと思った。だがナナが確認したのは自分の姿だった。襟の重なり。帯の位置。肩から落ちた髪。袖の皺。相沢を押したときに崩れたところを、左手だけで一つずつ直していく。


 右手は、まだ布を握っていた。


「ほどいて、結び直そうか」


「このままで大丈夫です」


「帯、ずれてる」


「少しずれているだけです」


「便利だな、それも」


「はい」


 鏡の中のナナが、相沢を見た。


 遠い音の前と同じ浴衣姿だった。紺地の朝顔も、山吹色の帯も変わっていない。けれど相沢には、同じものには見えなかった。


 ナナは鏡から離れた。


「相沢」


「何」


「明日が、夏休み最後ですね」


 唐突だった。


 それでも相沢は、空のことを訊き返さなかった。


「そうだな」


 窓の外では、雲のない青空が夕方の色へ変わり始めていた。


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