明日の予定
明日は、夏休み最後の日だった。
「最後なら、ちゃんと使わないとな」
「どう使いますか」
「夏休みの?」
「はい」
「そんなの、楽しく過ごすためだろ」
ナナは少し考えた。
「まだ、よく分かりません」
「明日になればわかる」
「今、教えてください」
遠い音が消えてから、十分ほど経っていた。
窓は閉めたままだった。外の蝉は硝子一枚ぶん遠くなり、かわりに扇風機の音が部屋を満たしていた。相沢からナナへ六秒、ナナから相沢へ七秒。風が相沢の汗を乾かし、次にナナの浴衣の袖を揺らす。
ナナはもう空を見ていなかった。
相沢を見ていた。
「まず、四時には出る」
「祭りの開始時刻は十八時です」
「その前に行くんだよ。混む前に歩けるし、明るいうちなら帯が崩れても直せる」
「相沢が直すのですか」
「俺が結んだんだから、俺が直す」
「また結べますか」
「二回目で成功しただろ」
「蝶には見えました」
「似合ってたから成功」
ナナが黙った。
扇風機が彼女のほうを向き、黒い髪を頬へ運んだ。さっき直した浴衣の襟が風で少し浮いた。ナナはそれを押さえなかった。
「次」
「まだあるのか」
「明日のことを、もっと話してください」
「祭りの予定だろ」
「同じではありませんか」
「違うと思うけどな」
相沢は机の上から祭りの広告を取った。商店街で配られていた、赤と黄色ばかりの安い印刷物だった。表には櫓と提灯の絵、裏には協賛店の名前が並んでいる。余白へ鉛筆で四時と書いた。
「持ち物。水筒。タオル。着替え」
「水と、タオルと、着替え」
「海に行くんじゃないぞ」
「暑くて、人が多いです」
「ナナの持ち物ばっかりだな」
「相沢にも水分と塩分が必要です」
「じゃあ、水筒二本」
広告の裏へ書き足した。ナナが横から覗き込む。
「下駄も書いてください」
「持ち物じゃなくて、履いていくものだろ」
「忘れないためです」
ナナは紙袋の横に置いてあった箱から、黒塗りの下駄を出した。浴衣を着る前に「履いてみたい」と言っていた一足だった。素足を赤い鼻緒へ入れ、畳の上に立つ。かた、と乾いた音がした。
赤い鼻緒の下駄が、紺色の裾の下へ収まった。
相沢は、さっきよりも一歩だけ離れてナナを見た。
「どうですか」
「完璧」
「浴衣だけのときよりも?」
「うん。これで祭りへ行ける」
「では、明日は完璧です」
ナナは下駄の上で、嬉しそうに足を揃えた。
「文字が傾いています」
「畳で書いてるから」
「祭りは六時からです。四時だと、ずいぶん早いです」
「待機しない。屋台を見る」
「まだ開いていません」
「準備してるところも面白いんだよ。鉄板を運んだり、提灯を上げたり、まだ誰も食べてない焼きそばの匂いがしたり」
「焼き始める前は、匂いません」
「そこは順番に始まる」
「準備を見るのも、楽しいですか」
「含まれる」
「変です」
「知ってる」
「屋台が開くまで、何をしますか」
「商店街を端まで歩く。神社の石段の上からなら、通りが全部見える」
「石段は四十七段あります」
「数えたのか」
「先月、相沢と通りました」
「そんな前のこと覚えてるんだ」
「一緒に通ったので、覚えています」
「じゃあ明日は、途中で止まってもいい」
「休憩ですか」
「景色を見る。四十七段を上るだけが目的じゃない」
「上らなければ、石段の上から通りを見ることはできません」
「だから、最後には上る。でも途中も使う」
ナナは広告の余白へ視線を落とした。
「途中で止まる時間も、書きますか」
「時間は決めなくていい。止まりたくなったら止まる」
「それでは、いつ止まるか分かりません」
「明日の俺たちが決める」
ナナは反論しなかった。
相沢は広告へ、屋台、と書いた。
「何を食べる」
「お腹は空きません」
「必要かどうかじゃなくて。食べたいもの」
「まだ、食べたいものが分かりません」
「じゃあ、端から見て決める。たこ焼き、焼きそば、綿飴、りんご飴。かき氷もある」
「全部食べたら、相沢がお腹を壊します」
「全部食べるとは言ってない」
「どうやって決めますか」
「そのとき食べたいもの」
「今は決められませんか」
「明日の俺に訊かないとわからない」
ナナは広告の余白を見た。
「予定表に、空いているところがあります」
「あっていいんだよ」
「予定どおりになりません」
「余白がないと、予定どおりにしか動けないだろ」
「予定どおりに動くための予定です」
「違う。明日を楽しみにするための予定」
相沢は鉛筆を置いた。
言ってから、少し気恥ずかしくなった。祭りへ行くだけだ。毎年ある。商店街の櫓は古く、提灯の半分にはスーパーや工務店の名前が入っている。屋台の値段は高いし、人が増えれば歩きにくい。放送部の手伝いが入れば、榊に機材を運ばされるかもしれない。
それでも、今年は去年と違った。
「俺、明日が楽しみなんだ」
ナナは動かなかった。
「祭りが?」
「祭りも」
「ほかにもありますか」
「ナナと行くから」
扇風機が左端で、かたん、と鳴った。右端だけだった音が、左でも鳴るようになっていた。
風が相沢から離れ、ナナへ向かっていった。浴衣の袖が膨らみ、白い朝顔がゆっくり形を変えた。
「もう一度、お願いします」
「何を」
「明日が楽しみだ、と」
「ナナと行くから?」
「その前から」
相沢はナナを見た。
「俺、明日が楽しみなんだ。祭りもだけど、ナナと行くから」
「はい」
返事はそれだけだった。
けれど、ナナは視線を逸らさなかった。
「相沢」
「何」
「今の声を、残してもいいですか」
相沢は一瞬、意味を考えた。
「俺の声?」
「はい」
「何に使うの」
「明日、聞き返します」
「何の確認」
「明日の予定です」
説明になっていない気がした。
それでも、嫌ではなかった。
「いいよ」
「もう一度、お願いします」
「また?」
「最初の声は、残っていません」
「先に言ってくれよ」
「いま、いいと言いました」
正しかった。
相沢は咳払いをした。録音されるとわかると、急に声の出し方がわからなくなる。放送部でマイクへ向かうときは原稿がある。今はない。
「もっと自然に話してください」
「注文多いな」
「いつもの声でお願いします」
「通常ってどれだよ」
「今の声です」
「それを録ればいいだろ」
「言ってほしい言葉ではありません」
相沢は笑った。
ナナの瞳の隅に、小さな赤い点が灯った。録音機の表示灯に似ていた。何かが回る音も、磁気テープの走る音もない。ただ、彼女が相沢を見ている。
「明日、四時にここを出る」
相沢は広告の裏を読み上げた。
「水筒を二本持って、ナナは浴衣を着る。帯がほどけたら俺が直す。混む前に屋台を見て、食べたいものをその場で決める」
「はい」
「祭りが終わるまで一緒にいる」
ナナの瞳の赤い点は消えなかった。
「それで、一緒に帰る」
数秒、何も起きなかった。
扇風機の風が二人のあいだを往復した。
赤い点が消えた。
「残しました」
「これでいい?」
「はい」
「じゃあ、次はナナの予定」
「私の予定は、相沢と祭りへ行くことです」
「それ以外」
「それ以外は、まだ決めていません」
「一つだけ。ナナがしたいことを決めて」
ナナは黙った。
相沢は急かさなかった。
扇風機が右へ行き、左へ戻った。広告の端が風で浮き、そのたび相沢が指で押さえた。浴衣の袖が風を受け、白い朝顔がゆっくり膨らんだ。
「相沢と同じものを、見たいです」
ナナが言った。
「同じもの?」
「相沢が屋台を見たら、隣で見ます。櫓も、花火も。一人で見るより、そのほうがいいです」
「自分で選んでない」
「選びました。私が」
平坦な声のまま、言い直した。
「一緒にいたいです」
相沢は鉛筆を取った。
予定表のいちばん下へ、一緒に見る、と書いた。少し考え、その下へもう一行足した。
一緒に帰る。
さっき録音した言葉だった。
「二回、書くのですか」
「大事だから二回」
「同じことです」
「余白があるからいいんだよ」
ナナは訂正しなかった。
扇風機が相沢へ風を送り、六秒後、ナナの浴衣を揺らした。二人のあいだに置いた紙の上で、鉛筆の文字だけが動かなかった。




