祭りへの道
ナナは、三分早く玄関へ立った。
「まだ四時じゃない」
「もう準備できました」
「予定は四時」
「三分くらい、いいと思います」
「昨日は一分単位で文句を言ってたのに」
「遅れるより、いいです」
そう言って、ナナは戸口で待った。
紺色の浴衣。山吹色の帯。赤い鼻緒の黒い下駄。
相沢は、しばらく何も言えなかった。
昨日、六畳間で見たときにも綺麗だと思った。けれど戸口に立ち、外の光を背負ったナナは、あのときよりもずっと夏祭りの少女だった。白い朝顔が袖から裾へ咲き、黒い髪の下で山吹色の帯が光っている。赤い鼻緒へ収まった白い足先まで、どこにも足りないものがなかった。
「そんなに見ますか」
「見るよ」
「どうして」
「綺麗だから」
ナナは下駄の鼻緒を見た。それから相沢を見て、少し笑った。
右手には水筒を一本。左手にも一本。
「一本は俺が持つよ」
「私が二本とも持てます」
「そういう問題じゃない。俺の水だろ」
相沢が手を伸ばすと、ナナは右の水筒を渡した。
「持ちたかったのですが」
「水筒一本で心配するな」
「病み上がりです」
「もう治った」
「平気ですか」
「その訊き方、真似するなよ」
「本当に?」
「平気じゃないところがあったら言う」
ナナは少し考え、頷いた。
相沢は玄関を出る前に、彼女を一度回転させた。
「どうして回すのですか」
「帯を見る」
「崩れていないと思います」
「俺が結んだんだから、俺が気にする」
帯の蝶は、昨日より少しだけ右へ傾いていた。相沢はナナの背後へ回り、形を整えた。
「動かないで」
「はい」
髪が肩へ触れた。ナナは本当に動かず、相沢が結び目を直すのを待っていた。
帯を締め直した。指一本ぶんの余裕を残す。ナナが振り返る。
「今日も、似合いますか」
「似合ってる」
今度はすぐに言えた。
「行こう」
「はい」
時刻は三時五十九分だった。
外へ出ると、日差しはまだ昼の強さを残していた。
古いアパートの階段を、ナナは一段ずつ下りた。下駄が鉄板へ触れるたび、からん、と乾いた音がした。浴衣の裾を片手で持ち上げる姿まで、相沢には見慣れない少女に見えた。
相沢は二段下で待った。
「もう少し速く降りられます」
「急いでない」
「遅れませんか」
「だから、急がなくていい」
住宅街を抜ける道は、まだ空いていた。
祭りへ向かう親子が何組か歩き、子供の下駄が乾いた音を立てている。ナナの下駄も、その音に混じった。浴衣姿を見る人はいた。最初に朝顔の柄を見て、次にナナの顔を見て、もう一度振り返る。
「見られています」
「浴衣が似合ってるから」
「相沢と、同じですか」
「一致する」
ナナは正面を向いた。
歩幅が、ほんの少しだけ広くなった。
神社の石段へ着いた。
四十七段あった。
ナナが数えたとおりだった。相沢は二十段目で立ち止まった。横へ避け、後ろから来る家族を通す。
「疲れましたか」
「休憩じゃない」
「休む予定でした」
「景色を見るんだよ」
振り返った。
住宅の屋根の向こうに商店街が見えた。通りの上へ紅白の幕が張られ、電線から提灯が吊られている。まだ灯りは入っていない。屋台の青い天幕が、通りの両側へ少しずつ伸びていた。遠くで誰かが櫓の上へ上がり、紙花を結んでいる。
ナナも振り返った。
「これが、途中ですか」
「途中から見える景色」
「上からのほうが、よく見えます」
「同じじゃない。下から来る人も見えるだろ」
親子連れが石段を上がってきた。小さな女の子が母親の手を引き、赤い金魚柄の浴衣を揺らしている。ナナはその手を見た。
「あれも、途中です」
「そう」
「分かりました」
「本当に?」
「ここでしか見えないものがあります」
「それでいい」
二人で残りを上った。
境内を抜け、商店街へ降りるころには、人が増えていた。
屋台の準備が始まっていた。鉄板へ油が引かれ、まだ具のない表面から白い煙が立っている。提灯を吊るす竹竿が道を横切り、法被姿の男が頭を下げて運んでいた。発電機が低く唸り、試しに点けた裸電球が昼の中で頼りなく光った。
「焼きそばの匂いがします」
「言っただろ」
「まだ開いていません」
「準備中にも作るんだよ」
「本当に、焼きそばの匂いがします」
「そんな大げさな話じゃない」
相沢は少し嬉しかった。
人の流れが太くなった。
ナナは小股で歩いた。浴衣の裾だけが理由ではなかった。人が横切るたびに止まり、接触しない距離を取り直す。ナナの周囲だけ、見えない円があるようだった。本人はぶつからない。かわりに、後ろを歩く相沢が何度も離された。
「ナナ、待って」
ナナが止まった。
止まった場所へ別の人が流れ込み、相沢とのあいだを横切った。浴衣の紺色が、赤や白の服に隠れた。
相沢は人を避けて追いついた。
「これじゃ、はぐれる」
「私は相沢を見失いません」
「俺からナナが見えなくなる」
ナナは黙った。
相沢は右手を出した。
「手」
「手をつなぐのですか」
「はぐれないため」
「でも、見えています」
「俺が嫌なんだよ。見えなくなるの」
言ってから、少し言いすぎたと思った。
ナナは相沢の手を見た。
それから、左手で握った。
熱かった。
細い指が相沢の指のあいだへ入った。握る力は弱い。海で手を引いたときよりも、ずっと弱かった。
「これでいい?」
「人が減っても、このままがいいです」
「じゃあ、祭りが終わるまで」
「はい」
二人は歩き出した。
歩幅が揃った。
射的の屋台は、予定より早く開いた。
棚には菓子箱、安い玩具、金色の招き猫が並んでいた。いちばん上には大きなラジコンカーが置かれている。屋台の主人はナナを見ると、相沢へ銃を差し出した。
「彼女さんに、いいところ見せてやんな」
相沢は銃を受け取った。
訂正する言葉は、すぐには出てこなかった。
隣を見ると、ナナも何も言わなかった。
「あれは取れますか」
「たぶん無理」
「当てれば取れます」
「命中しても落ちないんだよ」
「ずるいです」
「祭りだから」
「理由になっていません」
相沢は三発ぶん払った。
一発目は菓子箱の上を通った。二発目は棚の柱へ当たった。三発目は招き猫の額に命中し、猫は少し揺れただけだった。
「一回、当たりました」
「柱を数えないならな」
「柱は景品ではありません」
「わかってる」
ナナが銃を持った。
屋台の主人が、浴衣の少女へ撃ち方を説明した。ナナは最後まで聞き、教えられたとおりに銃を肩へ当てた。
「どれを狙う」
相沢が訊いた。
「どれにするか、考えています」
「一番取りたいのを選ぶんだよ」
ナナは棚を見た。
「相沢は、どれがいいですか」
「俺じゃなくて、ナナ」
「まだ、欲しいものが分かりません」
「じゃあ、見た目で」
棚の端に、小さなセルロイドの風車があった。透明な羽根が赤と青に塗られている。
ナナはそれを狙った。
一発目は中央へ当たりすぎた。風車が回り、台から落ちなかった。
「回ってしまいました」
「端を狙う」
二発目は羽根の先へ当たった。風車は一度大きく回り、横へ倒れ、棚から落ちた。
屋台の主人が無言でそれを渡した。
「取れました」
「楽しかった?」
ナナは手の中で風車を回した。
「相沢が教えてくれたから」
「それは結果」
「楽しいのか、まだ分かりません」
「じゃあ、あとで考えて」
「あとで、答えます」
風車を帯へ差した。扇風機の風はないのに、人が通るたび透明な羽根が少し回った。
金魚すくいでは、相沢が一匹だけ取った。
一枚目の紙は水へ入れた瞬間に破れた。二枚目は追いすぎて破れた。三枚目で、黒い小さな金魚が偶然、紙の上へ乗った。
「三回目で取れました」
「射的と同じにするな」
「でも、射的と同じです」
「こっちは成功だからいいんだよ」
透明な袋へ入れられた金魚は、狭い水の中を忙しく回った。
ナナが袋を持った。
「この袋は、狭そうです」
「帰ったら大きい入れ物へ移す」
「飼育するのですか」
「取ったからには」
「名前は」
「まだ決めない」
「名前は、明日ですか」
「明日の俺たちが決めるって言っただろ」
ナナは袋を目の高さへ上げた。
相沢も隣から覗いた。
黒い金魚が一度、こちらへ顔を向けた。水の向こうで口を開き、すぐに反対側へ泳いだ。
「同じものを、見ています」
「そうだな」
かき氷を一つ買った。
味は青だった。メロンでも苺でもない。屋台の紙札にはブルーハワイと書かれていたが、相沢はブルーハワイが何の味なのか知らなかった。
ナナが最初の一口を食べた。
「どう?」
冷たい氷を舌の上で溶かし、少し考える。
「気持ちいいです」
相沢は匙を持ったまま、ナナを見た。
「味じゃないのかよ」
「味は、青いです」
「それは見れば分かる」
ナナはもう一口食べた。今度は相沢へ匙を渡した。
「半分です」
「また五十パーセント?」
「今日は、同じ器なので、分かりません」
相沢は笑って、同じところから氷を掬った。
商店街の提灯が、一つずつ灯り始めた。
まだ空は明るい。赤い提灯の光は路面まで届かず、白い紙の内側に小さく留まっていた。屋台から最初の湯気が上がり、人の流れがゆっくり太くなっていく。
相沢とナナは手を離さなかった。
「さっきの答え」
ナナが言った。
「射的?」
「はい。楽しかったです。たぶん、いちばん」
「風車が取れたから?」
ナナは帯の風車を見た。それから、つないだ手へ視線を落とした。
「それだけではありません」
相沢は理由を訊かなかった。訊けば、ナナはまた正確な言葉を探してしまう気がした。
「俺も楽しい」
ナナの指が、少しだけ強くなった。
二人のあいだで、金魚袋の水だけが歩く方向と逆へ揺れていた。




