空の欠けたところ
最初に震えたのは、金魚袋の水だった。
相沢の膝の横で、透明な水面に細かい皺が走った。黒い金魚が尾を振り、袋の底へ潜った。
「発電機かな」
屋台の裏では、いくつもの小型発電機が動いていた。低い振動は足元から伝わってくる。相沢は袋の持ち手を握り直した。
ナナの帯へ差した風車が止まっていた。
人が通るたび回っていた透明な羽根が、風の中で動かない。赤と青の色だけが同じ場所に留まっている。
「ナナ?」
返事はなかった。
つないだ左手は熱かった。
ナナは商店街の先を見ていた。屋台でも、人の流れでもない。提灯の列より上、建物の屋根が途切れた先の空を見ている。
提灯が消えた。
一つではなかった。通りの入口から、順番に暗くなった。赤い提灯の内側に点いていた小さな灯りが、十個、二十個とこちらへ向かって消えてくる。
「停電?」
誰かが言った。
屋台の男が発電機を見た。焼きそばの鉄板は熱いままで、油が音を立てている。隣のかき氷機は止まり、途中まで削られた氷が刃の下に残った。商店街のスピーカーから流れていた盆踊りの曲が、音を引き延ばして途切れた。
一瞬、通りが静かになった。
それから、笑い声が起きた。
「始まる前から停電かよ」
「発電機、落ちたんじゃない?」
「せっかくの祭りなのに」
祭りの不具合だった。
その場にいた人々は、まだそう思っていた。
相沢も、そう思おうとした。
ナナの手が強くなった。
海で握ったときとも、さっき人混みで握ったときとも違った。指が相沢の骨の位置を確かめ、逃がさないために閉じるような力だった。
「痛い」
ナナはすぐに力を緩めた。
「相沢」
「何」
「私から離れないでください」
「どうした」
「離れないでください」
同じ言葉だった。
相沢はナナの視線を追った。
夕方の空に、欠けたところがあった。
最初は鳥の群れに見えた。遠くの黒い点が重なっているだけだと思った。だが、点は散らなかった。一つの暗いものとして、建物の上に浮いている。
輪郭が定まらない。
三角形に見えた瞬間、片側の面が折れ、細長い菱形になった。次には奥行きが裏返り、こちらへ尖っていた部分が向こう側へ沈んだ。回転しているのか、形そのものが変わっているのか、見ている相沢の目が間違っているのかわからなかった。
「あれ、何だ」
ナナは答えなかった。
通りの何人かが気づいた。
空へ指を差した。双眼鏡を探して屋台を覗く者もいた。子供を肩車していた父親が、見えるか、と笑いながら上を向かせた。浴衣姿の少女たちは目を細め、暗いものの輪郭を言い合いながら通りの中央へ出た。
「飛行船?」
「花火の仕掛けじゃない?」
「あんな予定あった?」
まだ、誰も逃げなかった。
暗いものは音を出さなかった。
ただ、少しずつ大きくなった。
空から降りているようにも、こちらへ近づいているようにも見えた。建物との距離がつかめない。屋根よりずっと高いはずなのに、提灯のすぐ後ろへ貼りついているようにも見えた。
金魚袋の水面が、もう一度震えた。
今度は大きかった。
袋が相沢の手の中で跳ね、黒い金魚が横へ流された。路面に置かれた瓶が一斉に鳴った。射的の棚で、招き猫が倒れた。屋台の鉄板から油が波打って縁へこぼれた。
音は、あとから来た。
空全体を太い棒で押したような、低い響きだった。
耳を塞ぐほど大きくはない。けれど腹の奥へ入り、骨の内側を揺らした。先日の晴れた午後に聞いた音と同じだった。あのときより近く、短く、硬かった。
笑い声が止まった。
泣き出した子供がいた。
屋台の男が火を止めた。別の男が、道の端へ寄ってください、と声を上げた。何から寄るのか、どちらへ寄ればいいのかは言わなかった。
それでも人は、まだ歩いていた。
空を見たまま後ずさる者。家族の人数を数える者。屋台の品を片づけようとする者。祭りを続けるのか訊く者。困惑は、通りのあちこちで別々の動きを作った。
商店街の放送設備が、一度だけ生き返った。
ざ、と砂を噛むような音がして、頭上のスピーカーから男の声が流れた。落ち着いてください、と最初に言った。続く言葉は雑音に埋もれた。落下、建物、移動、という切れ端だけが聞こえた。
「何て言った?」
近くの女性が連れに訊いた。
「ここから動くな、じゃない?」
「離れろって言ったんだよ」
同じ放送を聞いた人々が、反対の意味を受け取った。
スピーカーは二度目を告げずに沈黙した。
祭りの係員が、神社のほうへ移動してください、と声を張った。そのすぐ先では別の係員が、石段は危険です、と両腕を広げていた。どちらも嘘を言っていないらしかった。だから、誰もどちらを信じればいいかわからなかった。
ナナだけが動かなかった。
空を見上げ、相沢の手を握っている。
「知ってるのか」
「回答できません」
「あれが何か」
「回答できません」
「危ない?」
ナナは相沢を見た。
「はい」
初めて、迷わず答えた。
「帰ろう」
「移動経路が確保できません」
相沢は後ろを見た。
さっきまで歩いてきた通りは、人で塞がっていた。引き返す者と、何が起きたか見ようと前へ出る者がぶつかっている。石段へ向かう横道にも人が流れ込み始めた。
「神社へ抜ける」
「危険です」
「ここにいるより」
「相沢」
ナナの声が変わった。
大きくなったのではない。甘さが消え、短く、硬くなった。
「伏せてください」
相沢が意味を訊く前に、空が白くなった。
光ったのではなかった。
色が抜けた。
暗いものと商店街のあいだに、細い帯状の空間ができた。青い空も、建物も、提灯も、その線の上だけ白くなった。
次の瞬間、線に沿って提灯が裂けた。
竹竿が折れ、看板が裏返り、屋台の天幕が同じ方向へ吹き飛んだ。音はなかった。空気だけが、そこから急になくなったようだった。
一拍遅れて、全部が鳴った。
硝子の割れる音。鉄板の落ちる音。発電機が路面を跳ねる音。人の悲鳴。
群衆が走り出した。
最初の一人が走ると、その後ろの人も走った。理由を知らないまま押し、転び、別の方向へ逃げた。提灯の紐が落ち、足へ絡んだ。金魚すくいの水槽へ誰かがぶつかり、水と赤い魚が路面へ流れた。
相沢の左側で、赤い浴衣の女の子が転んだ。石段で母親の手を引いていた子だった。母親が引き起こそうと屈み、その背中へ別の男がぶつかった。
相沢は手を伸ばした。
届く前に、屋台の男が女の子を抱き上げた。母親へ渡し、走れ、と怒鳴った。相沢の手は何も掴まないまま、人の流れに押し戻された。
皆が自分の近くにいる一人を助けようとしていた。
その一人が多すぎた。
相沢はナナの手を離さなかった。
離さなかったはずだった。
横から人がぶつかった。
肩を押され、指が開いた。ナナの手が抜けた。金魚袋も落ちた。相沢は袋を追って膝をつき、後ろから別の人に蹴られた。
「ナナ!」
浴衣の紺色が、人の脚のあいだで見えた。
ナナは相沢の前へ出た。
背中を向け、両足を路面へ置いた。右の下駄が乾いた音を立てた。赤い鼻緒が切れ、黒塗りの台だけが人の流れへ転がっていった。
ナナは両の裸足で立っていた。左の下駄も、人波の中でいつのまにか消えていた。
彼女の周囲だけ、人の流れが二つに割れた。
ナナが左腕を広げた。
相沢を隠すには細すぎる腕だった。
けれど、その向こう側が見えなくなった。
二度目の白い線が来た。
ナナの浴衣が鳴った。
紺色の布が肩から裂けた。白い朝顔が二つに割れ、山吹色の帯から差した風車が飛んだ。透明な羽根は一度だけ回り、人の足元へ消えた。
ナナの身体は動かなかった。
右の肩から首へ、細い亀裂が走った。
血は出なかった。
亀裂の縁で人の肌と同じ色が薄くめくれ、その下から白いものが覗いた。骨には見えなかった。陶器より滑らかで、月の光を固めたような硬い白だった。
「ナナ」
相沢は呼んだ。
ナナは振り返らなかった。
「ここにいてください」
足元で、金魚袋が揺れた。
そのすぐ前で、裂けた白い朝顔がナナの肩から風に揺れていた。
袋は破れていなかった。濁った水の中で、黒い金魚がまだ動いていた。




