〇・〇二パーセント
「ここにいてください」
ナナはそう言った。
相沢の膝の前で、金魚袋が揺れていた。
拾い上げる。透明な袋は泥と屋台の水で汚れていたが、破れてはいない。黒い金魚は底に沈み、胸鰭だけを速く動かしていた。
「ナナ、肩」
「行動に支障はありません」
支障がないようには見えなかった。
裂けた浴衣の下で、肩から首へ走った亀裂が開いている。肌と同じ色の薄い表面が端から縮み、白い硬質面が少しずつ広くなっていた。右腕を上げるたび、亀裂の奥で小さな音がした。
「痛くないのか」
「痛覚は行動判断に影響しません」
「痛くないとは言ってない」
ナナは答えなかった。
空の暗いものは、商店街の上で形を変え続けていた。
白い線が三度走った。
今度は通りを外れ、建物の屋根を斜めに切った。瓦とテレビアンテナが、音もなく宙へ浮いた。遅れて圧力が届き、破片が道路へ降った。
ナナが左腕を動かした。
速かった。
手のひらが相沢の額の前へ出た直後、瓦の欠片がそこへ当たった。乾いた音がして、欠片が二つに割れた。ナナの腕はほとんど動かなかった。
「向かいの建物へ移動してください」
ナナが言った。
指した先に、コンクリート造りの古い薬局があった。シャッターは半分下り、店主が中から人を招き入れている。入口までは二十メートルほどだった。人の流れは薄くなり、走れば届く。
「ナナは」
「私は、ここで通りを守ります」
相沢は立った。
ここに座っていれば、ナナの守る範囲を無駄に広げる。それはわかった。金魚袋をシャツの前へ入れ、両手を空けた。
「避難が終わったら」
「相沢のところへ行きます」
戻るとも、帰るとも言わなかった。
相沢は薬局へ走った。
途中で転んだ男を起こし、肩を貸した。入口へ着くと、店主がシャッターの下から腕を伸ばした。
「これをお願いします」
相沢は金魚袋を渡した。黒い尾が、水の少ない袋の中で一度翻った。
「水を増やして。できれば空気も」
その横で、ナナが言った。
離れているのに、声だけはすぐ近くで聞こえた。
相沢は振り返らなかった。薬局の外に残った人を、ひとりずつ中へ入れた。戦うことはできなくても、ナナが作った時間を無駄にしないことはできた。
「相沢!」
別の声がした。
榊が走ってきた。
法被の上から放送部の腕章をつけ、肩へ負傷した男の腕を回していた。額から血が流れていたが、自分では気づいていないらしい。
「先輩、何してるんですか」
「放送卓が落ちた。東口は塞がった」
「見ればわかります」
榊はナナの肩を見た。
初めて、言葉を失った。
亀裂の縁には、白い薄層が幾重にも覗いていた。
榊はそこへ手を伸ばしかけ、触れずに止める。
「七月二十四日」
「何です」
「あの光学機器片と、白い層の重なり方が同じだ」
榊はそれ以上を断定しなかった。
「薬局の裏口は生きてる。西へ抜けられる」
「先輩は」
「人を運ぶ」
榊はそれだけ言った。
白い線が遠くの路面を削った。砕けたアスファルトが雨のように上がる。
反対側で、倒れた屋台の下から助けを呼ぶ声がした。榊は一度だけそちらへ顔を向けた。
「相沢。最後の一人を入れたら、裏へ抜けろ」
榊は助けを呼ぶ声のほうへ走った。
ヒーローの走り方ではなかった。瓦を避け、転びかけ、肩を貸した男と一緒に何度もよろめいた。それでも止まらなかった。
相沢はナナへ向き直った。
「避難は終わった」
「確認しました」
「ここからは、ナナが決めるんだな」
「はい」
「生きて帰る可能性は」
ナナは相沢を見た。
「〇・〇二パーセントです」
あまりに小さくて、実感できなかった。
ゼロではない。けれど、帰る約束に使える数字でもなかった。
「俺は一緒に帰りたい」
相沢は言った。
「でも、俺のために選ぶふりはするな。ナナが決めて」
ナナの裂けた肩で、浴衣の朝顔が揺れた。
「選択しました」
相沢は何を、と訊かなかった。
ナナの姿勢が変わった。
変形したのではない。浴衣姿のまま、右足を半歩引き、重心を落とした。視線が相沢から空へ戻る。胸の奥で、低い音が一つ始まった。
起動音には聞こえなかった。
遠い夏の雷が、彼女の身体の中で鳴り始めたような音だった。
相沢の足元で、割れた硝子が震えた。




