盾
割れた硝子が、路面の上で細かく震え始めた。
低い音はナナの胸から地面へ伝わり、相沢の足の裏まで届いた。音というより、重さだった。サカキ金属の屑鉄を満載したトラックが、見えない道を遠くから近づいてくる。その振動だけが先に祭りへ着いたようだった。
ナナの右足の下で、先ほどの攻撃に焼かれたアスファルトが細くひび割れた。
「相沢」
呼ばれて、相沢は顔を上げた。
ナナは空を見ていた。右目の青はまだ澄んでいる。左肩の浴衣は裂け、その下から白い硬質面が覗いていた。けれど、立っているのはナナだった。朝顔の浴衣を着て、黄色い帯を締めた、昨日まで六畳間で扇風機の風を半分ずつ分けていた女の子だった。
「三歩、後退してください。その後、右へ二歩」
「ナナは」
「今です」
短い声に押され、相沢は一歩下がった。
二歩目で、ナナの右手が動いた。
見えなかった。
袖が遅れて鳴った。淡い朝顔が宙へ引かれ、そのあとでナナの手が相沢の胸の前にあった。
空が白くなった。
提灯の明かりも、屋台の火も、逃げる人の背中も、一瞬だけ色を失った。音が消えた。相沢は自分が息をしているのかさえわからなかった。
ナナの掌の向こうで、何かが割れた。
遅れて空気が戻ってきた。
平たい衝撃が祭りの道を走り、倒れた提灯の骨を転がした。相沢の身体は後ろへ持っていかれた。右足がもつれたところを、背中が薬局のシャッターへ当たって止まった。
ナナは同じ場所にいた。
右手を前へ出していた。
指先から手首まで、肌に細い亀裂が走っていた。爪の根元に似た場所から白い光が漏れ、亀裂の奥で銀色のものが一度だけ火花を散らした。
右の袖は肘まで裂けていた。
その裂け方が、相沢にはひどく腹立たしかった。
昨日、自分が何度も失敗しながら通した袖だった。帯を締めるあいだ、ナナは一度も急かさなかった。鏡ではなく相沢を見て、似合うと言われるのを待っていた。
その布が、燃えた端から静かにほどけていった。
「右へ二歩です」
「手が」
「二歩」
相沢は動いた。
右へ一歩。もう一歩。
直後、さっきまで相沢がいた場所へ白い筋が落ちた。地面が弾けたのではなかった。そこにあった舗装だけが、丸く薄く失われた。下の土が露出し、土の中の水分が白い湯気になった。
ナナは相沢と失われた地面の間へ身体を入れた。
「薬局の中へ」
「一緒に」
「入口まで四・二メートルです」
「距離を聞いてない」
ナナの顔が、ほんの少しだけ相沢へ向いた。
青い瞳の奥で、細い光が何度も横切っていた。返事を探しているように見えた。けれど返ってきたのは、別の言葉だった。
「左後方から人が来ます」
振り返ると、女の子が一人、転びそうになりながら走ってきた。片方の下駄が脱げ、裸足になっている。泣いていた。母親らしい人が少し後ろで、倒れた屋台の脚に道を塞がれていた。
考える時間はなかった。
相沢は女の子の手を取った。屋台の脚をまたがせ、薬局の入口へ押し込む。半分閉まりかけたシャッターの内側から、大人の腕が伸びて女の子を受け取った。
「お兄ちゃんも!」
誰かが叫んだ。
相沢は入らなかった。
母親の手を引き、倒れた脚を越えさせた。背中を押す。シャッターの下へ身体が消えるのを見届けた。
道の中央で、ナナが一歩踏み出した。
ただの一歩だった。
スーパーの床ワックスを足形に曇らせた一歩。砂浜へ足首まで沈んで、相沢が手を引いてもなかなか抜けなかった一歩。古いアパートの床を鳴らし、夜中に階下の住人を起こさないか相沢を怯えさせた一歩。
それが今、地面を打った。
祭りの通りが震えた。
提灯の柱がいっせいに鳴り、薬局のガラスが震えた。ナナの足元から蜘蛛の巣状に亀裂が広がる。落ちていた屋台の鉄骨が跳ね上がった。
ナナは左手でそれを掴んだ。
腕を振ったようには見えなかった。
鉄骨が消えた。
次に見えたとき、それは空の欠けた場所へ突き立っていた。
何もないはずの高さで、鉄骨が途中から折れた。折れた先が宙に貼りついたまま、赤くなった。空にあった幾何学的な影が、初めて動いた。崩れたのではない。ほんのわずか、向きを変えただけだった。
それで十分だった。
薬局の前を横切っていた白い筋が逸れ、向かいの無人の駐車場を削った。
「今です」
ナナが言った。
シャッターの脇で立ちすくんでいた人たちが動いた。互いの肩を押し、腕を引き、狭い入口へ身体を滑り込ませる。誰かが転び、別の誰かが起こした。泣き声と怒鳴り声が重なった。けれど、人の流れは止まらなかった。
ナナが作ったのは勝ち目ではなかった。
十数人が道を渡れるだけの時間だった。
相沢にも、それくらいはわかった。
空の影が向きを戻した。
ナナは左手を下ろそうとした。
途中で止まった。
掴んでいた鉄骨はもうなかった。左の指は開いたまま動かなかった。肘の内側から透明な液体が一筋流れ、肌の上で湯気になった。黄色い帯へ落ちる前に消えた。
「ナナ」
「機能しています」
「してないだろ、その手」
「右手は機能しています」
「そういう話じゃない」
また白い光が走った。
今度は空からではなかった。通りの端に立っていた黒い輪郭から、地面と平行に伸びてきた。相沢には、それがいつ現れたのかわからなかった。人の背丈ほどの高さにいくつもの平面が重なり、どの面もこちらを向いていないのに、見られているとわかった。
ナナが相沢の前へ戻った。
戻った瞬間だけが見えなかった。
踏み出した足元が割れ、次の瞬間には朝顔の背中が視界いっぱいにあった。
光がナナの左肩へ当たった。
音は小さかった。
夏の夜に、遠くで枝を折ったような音だった。
左肩から肘までの表面が砕けた。肌色の破片と浴衣の布が一緒に舞った。その下に現れた白い腕は、人間の骨よりずっと細く、ずっと硬そうだった。何本もの銀色の線がその周りを走り、途中で赤く焼けていた。
ナナは退かなかった。
朝顔の裾が衝撃の風に煽られた。髪を留めていたピンが外れ、黒い髪がほどける。砕けた肩、動かない左手、ひび割れた右腕。そのどれとも釣り合わないほど、横顔は静かだった。
怖いとは思わなかった。
相沢は、綺麗だと思ってしまった。
思ってから、自分を殴りたくなった。
ナナが壊れている。自分のために壊れている。その姿を見て綺麗だと思うなんて、どこかがおかしい。
けれど目を逸らせなかった。
少女ではないものが露出したのではなかった。
ナナが少女であるために、どれだけのものを内側へ隠していたのか。それが砕けた表面の向こうから、初めて見えた気がした。
ナナの左目が消えた。
青い光が一度細くなり、そのまま戻らなかった。
右目だけで、ナナは相沢を見た。
「損傷はありますか」
「それ、俺に聞くのかよ」
「回答してください」
相沢は自分の身体を確かめた。背中が痛い。膝を擦っている。手の甲に細い切り傷があった。
「ない」
「虚偽です」
「ナナよりは、ない」
「比較対象が不適切です」
いつもの言い方だった。
そのことが、相沢の胸をひどく締めつけた。
黒い輪郭の面が、ゆっくり組み替わった。
ナナの右膝が沈んだ。
一度だけだった。すぐに伸び、何事もなかったように立ち直る。しかし、足元の亀裂はさっきより深くなった。膝のあたりで、浴衣の布越しに小さな火花が散った。
「もういい」
相沢は言った。
「もう、守らなくていい」
言った瞬間、それが嘘だとわかった。
守らなくていいのではない。
壊れないでほしいのだ。
一緒に逃げてほしい。一緒に帰ってほしい。六畳間へ戻って、扇風機の前に座ってほしい。相沢は何も諦められていなかった。
「訂正する。俺も動く。だから、ナナも一人でやるな」
ナナは右目で相沢を見た。
「薬局入口、残り三名です」
「わかった」
「右側の男性は歩行困難です」
「わかった」
相沢は走った。
倒れた男の腕を肩へ回し、薬局へ引きずった。重かった。とても百三十八・五キロには届かないはずなのに、足がふらついた。シャッターの下から伸びた手へ男を渡す。戻るとき、空気がまた白くなった。
ナナの背中がそれを受けた。
朝顔が光の中で透けた。
右足が半歩滑った。
初めて、ナナが押された。
踵が地面を削り、アスファルトへ二本の線を残した。それでも彼女は倒れなかった。右腕を前へ上げ、左腕を垂らし、片方だけになった青い目で黒い輪郭を見ていた。
白い光が途切れたとき、ナナの右手から煙が上がっていた。
相沢は彼女のそばまで戻った。
「ナナ、もう限界だ」
「判定根拠が不足しています」
「見ればわかる」
「視覚情報には欠損があります」
「おまえの目の話じゃない。俺が見てる」
ナナは黙った。
右の瞳が、ほんの一度だけ揺れた。
相沢は煙の出ている右手へ触れようとした。ナナが手を引く。速い動作ではなかった。熱いものから相沢を遠ざける、ごく普通の仕草だった。
「崩れてるじゃないか」
相沢は言った。
「手も、肩も、目も。さっきまで動いてたものが、動かなくなってる」
「はい」
「それを、エラーっていうんじゃないのか」
ナナのほどけた髪が、熱い風に揺れた。
片方の目だけで、彼女はまっすぐ相沢を見た。
「これはエラーではありません」
声は静かだった。
「予定された出力です」




