すべてのノイズが消える
「誰が予定したんだ」
相沢は訊いた。
ナナの右手から、細い煙が上がっていた。
「私です」
「いつ」
「先ほど」
相沢は言葉を失った。
それは、予定とは呼ばないだろうと思った。けれど、ナナの中では違うのかもしれなかった。彼女が選んだ時点から、それは予定になる。壊れることまで含めて、自分の行動として引き受けるための言葉だった。
黒い輪郭の面が組み替わった。
どこが前で、どこが後ろなのかはわからない。ただ、すべての角が一度だけナナへ向いた。祭りの通りに散らばっていた空き缶が、同時に細く潰れた。
「後ろへ」
ナナが言った。
相沢は一歩だけ動いた。
薬局へは入らなかった。逃げるための一歩ではなく、ナナの背中を邪魔しないための一歩だった。
半分閉じたシャッターの内側から、誰かが相沢を呼んでいた。早く入れ、と何度も叫んでいる。通りの向こうでは、途切れていた町内放送が戻ってきた。
『現在発生している現象は、局地的な気象条件に伴う電力設備の障害です。建物内で待機し、係員の指示に』
女の声は途中で引き延ばされた。
建物の壁が揺れた。放送が低い唸りに変わり、スピーカーの奥で消えた。
相沢は空を見た。
気象条件で、空に角は生えない。
係員など、どこにもいなかった。
ナナの首元から高い音が聞こえていた。相沢の風邪を看病した夜にも聞いた、壊れかけた小さな回転音だった。途切れては戻り、戻るたびに少し高くなる。右膝からは一定の間隔で火花が散っていた。左手は開いたまま、もう指一本動かなかった。
彼女は治っていなかった。
立っていることが、壊れていない証拠にはならなかった。
黒い輪郭の中心で、白い点が生まれた。
ナナの右足が、砕けた舗装をわずかに踏み崩した。
首元の音が止まった。
相沢の喉が詰まった。
「ナナ」
返事がなかった。
右膝の火花も止まっていた。胸の奥で鳴っていた低い音も消えている。ほどけた髪だけが、祭りの火に煽られた風の中で揺れていた。
「ナナ」
「聞こえています」
声はすぐに返った。
相沢は息を吐いた。吐いてから、自分がずっと止めていたことに気づいた。
「だったら返事しろよ」
「返答に使用する処理を変更していました」
「何に」
「回答できません」
「またそれか」
「はい」
いつもの平坦な返事だった。
けれど、何かが違っていた。
今までナナの身体から聞こえていた音が、すべてなくなっていた。冷却の回転音も、熱で部品が鳴る小さな音も、姿勢を直すときの硬い擦過音もない。祭りのざわめきが遠ざかったせいではなかった。相沢は彼女のすぐ後ろにいる。手を伸ばせば、裂けた帯へ届く距離だった。
静かすぎた。
機械が止まった静けさではない。
たくさんの雑音が、同じ一つの音になる直前の静けさに思えた。
黒い輪郭の白い点が大きくなった。
相沢はナナの帯の結び目を掴んだ。
黄色い布は熱を持っていた。昨日、何度も形を直した結び目だった。力を入れればほどけてしまいそうだったから、相沢は指先だけを掛けた。
「俺はここにいる」
「認識しています」
「薬局には入らない」
「推奨しません」
「知ってる」
ナナの右目が、少しだけ相沢を振り返った。
「相沢」
「何」
「発話を継続してください」
「発話って」
「何でも構いません」
こんなときに、何を話せばいいのかわからなかった。
黒いものが空を欠けさせ、白い光が地面を消し、ナナの片方の目と腕が壊れている。話すべきことはいくらでもあるはずなのに、どれも言葉にならなかった。
だから、相沢は一番どうでもいいことを話した。
「帰ったら、金魚を迎えに行かないとな」
手の中の袋を持ち上げた。
「このままじゃ狭い。バケツならあったと思う。青いの。掃除に使ってるやつ」
「容積が不足します」
「じゃあ明日、買う」
「飼育水槽には濾過装置が必要です」
「それも買うよ」
「底砂、カルキ除去剤、水温計も必要です」
「詳しいな」
「先ほど調査しました」
「いつだよ」
「射的の待ち時間です」
相沢は笑いそうになった。
喉の奥から、息だけが出た。
ナナの右目の青が強くなった。
明るくなったわけではない。焦点が、急に深くなった。光の向こうにいくつも流れていた細い線が消え、相沢の姿だけを映しているように見えた。
足元で、小石が鳴った。
白い点が放たれた。
ナナは動かなかった。
相沢の指に、帯の結び目が食い込んだ。
白い光はナナへ届く直前で細くなった。真っ直ぐだった線が、見えない筒へ巻きつくように曲がる。ナナの右肩を避け、地面へも落ちず、そのまま上へ逸れていった。
雲のない空が一瞬だけ明るくなった。
遅れて、周囲の窓ガラスが鳴った。
ナナは両足を地面につけたままだった。
「いま、何をした」
「継続してください」
答えにはなっていなかった。
相沢は帯を離さなかった。
「扇風機も直さないとな。首を振ると、六秒のあとで引っかかる」
「七秒です」
「最初は六秒だった」
「経年劣化が進行しています」
「偉そうに言うな。ナナが毎晩、変な角度に固定するからだろ」
「相沢への送風効率を最大化しています」
「俺ばっかり涼しくしても意味ないんだよ」
「あります」
迷いのない返事だった。
右膝から、火花が一つだけ落ちた。
落ちたはずだった。
赤い粒は地面へ届かず、ナナの膝の下で止まった。消えるまでの短いあいだ、宙に浮いていた。
相沢は話し続けた。
「冷房は無理でも、もう少しましな扇風機なら買える。榊先輩に探させる。あの人のせいでナナを拾ったんだから、それくらいさせていい」
「因果関係が不正確です」
「いいんだよ。あと、床も直す。大家には」
「床の損傷原因を説明できません」
「大型冷蔵庫を落としたことにする」
「冷蔵庫は歩行しません」
「見られてないから平気だ」
「虚偽の精度が低いです」
「じゃあナナが考えて」
「了解しました」
その言葉だけが、少し遅れて返ってきた。
相沢は気づいた。
以前、榊が録音機と計測器を床へ並べ、相沢にナナの名前を呼ばせたことがあった。相沢が呼ぶたびに目盛りが跳ね、火花が散った。榊は、相沢の声は不要な電気を使わせる、と言った。
あのときの音が、今はしなかった。
火花も散らない。
不要なものがなくなったのではなかった。
それ以外のすべてが、なくなっていた。
ナナの右目は相沢を映しながら、黒い輪郭を見ていた。両方を見ることなどできないはずなのに、相沢にはそう見えた。
輪郭の周りで、空気が歪んだ。
黒い面が一枚ずつずれた。初めて、それが後退しているとわかった。ナナは手を上げてもいない。片方の目と、動かない腕と、煙の残る右手を抱えたまま、そこに立っているだけだった。
それでも、通りの中央にある力の向きが変わっていた。
倒れた提灯の骨が、地面を擦ってナナの方へ動いた。
空き缶が転がった。
割れたガラスの粒が跳ねた。
風は、黒い輪郭の方から吹いていた。どれも風と反対に動いていた。
「ナナ」
「はい」
「これは、絶好調なのか」
ナナは少し黙った。
「比較可能な過去記録がありません」
「正直だな」
「相沢が訂正を要求しました」
「したっけ」
「しました」
相沢は思い出せなかった。
けれど、ナナは覚えていた。
どうでもいい会話も、扇風機の首が引っかかる秒数も、金魚に必要な道具も、相沢自身が忘れた言葉も覚えていた。それらは戦うためには何の役にも立たない。役に立たないはずのものを、彼女は一つも捨てていなかった。
黒い輪郭が、さらに遠ざかった。
薬局のシャッターが閉まり始めた。内側の誰かが最後まで相沢を呼んでいた。相沢は返事をしなかった。
ナナのそばにいた。
それだけでよかった。
「発話を続ける」
相沢は言った。
「だから、ナナも聞いてろ」
「はい」
「帰ったら、最初に水槽を買う。次に扇風機。床はそのあとだ。スイカはもう時期が終わるけど、見つけたらまた買う。今度は目隠しなしで割れ。危ないから」
「目隠しの有無は命中精度に影響しません」
「気分の問題だよ」
「非効率です」
「そういうのが楽しいんだろ」
返事はなかった。
相沢は帯を掴む指へ力を入れた。
「ナナ」
「記録しています」
静かな声が返った。
地面の砂が浮いた。
一粒ではなかった。
ナナの足元を中心に、砕けた舗装の細かな欠片がいっせいに持ち上がった。落ちることを忘れたように、彼女の膝の高さで止まる。裂けた浴衣の右袖が、風とは逆にゆっくり上を向いた。
薬局の割れた窓に残る硝子が、いっせいにナナの方へ傾いた。
相沢は帯から手を離した。
布は落ちなかった。
黄色い結び目の端が、ナナの背中から斜め上へ伸びたまま止まっていた。
彼女の両足は、まだ地面についていた。
百三十八・五キロの重さを、もう地面だけが支えているのではなかった。




