↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/33

すべてのノイズが消える

「誰が予定したんだ」


 相沢は訊いた。


 ナナの右手から、細い煙が上がっていた。


「私です」


「いつ」


「先ほど」


 相沢は言葉を失った。


 それは、予定とは呼ばないだろうと思った。けれど、ナナの中では違うのかもしれなかった。彼女が選んだ時点から、それは予定になる。壊れることまで含めて、自分の行動として引き受けるための言葉だった。


 黒い輪郭の面が組み替わった。


 どこが前で、どこが後ろなのかはわからない。ただ、すべての角が一度だけナナへ向いた。祭りの通りに散らばっていた空き缶が、同時に細く潰れた。


「後ろへ」


 ナナが言った。


 相沢は一歩だけ動いた。


 薬局へは入らなかった。逃げるための一歩ではなく、ナナの背中を邪魔しないための一歩だった。


 半分閉じたシャッターの内側から、誰かが相沢を呼んでいた。早く入れ、と何度も叫んでいる。通りの向こうでは、途切れていた町内放送が戻ってきた。


『現在発生している現象は、局地的な気象条件に伴う電力設備の障害です。建物内で待機し、係員の指示に』


 女の声は途中で引き延ばされた。


 建物の壁が揺れた。放送が低い唸りに変わり、スピーカーの奥で消えた。


 相沢は空を見た。


 気象条件で、空に角は生えない。


 係員など、どこにもいなかった。


 ナナの首元から高い音が聞こえていた。相沢の風邪を看病した夜にも聞いた、壊れかけた小さな回転音だった。途切れては戻り、戻るたびに少し高くなる。右膝からは一定の間隔で火花が散っていた。左手は開いたまま、もう指一本動かなかった。


 彼女は治っていなかった。


 立っていることが、壊れていない証拠にはならなかった。


 黒い輪郭の中心で、白い点が生まれた。


 ナナの右足が、砕けた舗装をわずかに踏み崩した。


 首元の音が止まった。


 相沢の喉が詰まった。


「ナナ」


 返事がなかった。


 右膝の火花も止まっていた。胸の奥で鳴っていた低い音も消えている。ほどけた髪だけが、祭りの火に煽られた風の中で揺れていた。


「ナナ」


「聞こえています」


 声はすぐに返った。


 相沢は息を吐いた。吐いてから、自分がずっと止めていたことに気づいた。


「だったら返事しろよ」


「返答に使用する処理を変更していました」


「何に」


「回答できません」


「またそれか」


「はい」


 いつもの平坦な返事だった。


 けれど、何かが違っていた。


 今までナナの身体から聞こえていた音が、すべてなくなっていた。冷却の回転音も、熱で部品が鳴る小さな音も、姿勢を直すときの硬い擦過音もない。祭りのざわめきが遠ざかったせいではなかった。相沢は彼女のすぐ後ろにいる。手を伸ばせば、裂けた帯へ届く距離だった。


 静かすぎた。


 機械が止まった静けさではない。


 たくさんの雑音が、同じ一つの音になる直前の静けさに思えた。


 黒い輪郭の白い点が大きくなった。


 相沢はナナの帯の結び目を掴んだ。


 黄色い布は熱を持っていた。昨日、何度も形を直した結び目だった。力を入れればほどけてしまいそうだったから、相沢は指先だけを掛けた。


「俺はここにいる」


「認識しています」


「薬局には入らない」


「推奨しません」


「知ってる」


 ナナの右目が、少しだけ相沢を振り返った。


「相沢」


「何」


「発話を継続してください」


「発話って」


「何でも構いません」


 こんなときに、何を話せばいいのかわからなかった。


 黒いものが空を欠けさせ、白い光が地面を消し、ナナの片方の目と腕が壊れている。話すべきことはいくらでもあるはずなのに、どれも言葉にならなかった。


 だから、相沢は一番どうでもいいことを話した。


「帰ったら、金魚を迎えに行かないとな」


 手の中の袋を持ち上げた。


「このままじゃ狭い。バケツならあったと思う。青いの。掃除に使ってるやつ」


「容積が不足します」


「じゃあ明日、買う」


「飼育水槽には濾過装置が必要です」


「それも買うよ」


「底砂、カルキ除去剤、水温計も必要です」


「詳しいな」


「先ほど調査しました」


「いつだよ」


「射的の待ち時間です」


 相沢は笑いそうになった。


 喉の奥から、息だけが出た。


 ナナの右目の青が強くなった。


 明るくなったわけではない。焦点が、急に深くなった。光の向こうにいくつも流れていた細い線が消え、相沢の姿だけを映しているように見えた。


 足元で、小石が鳴った。


 白い点が放たれた。


 ナナは動かなかった。


 相沢の指に、帯の結び目が食い込んだ。


 白い光はナナへ届く直前で細くなった。真っ直ぐだった線が、見えない筒へ巻きつくように曲がる。ナナの右肩を避け、地面へも落ちず、そのまま上へ逸れていった。


 雲のない空が一瞬だけ明るくなった。


 遅れて、周囲の窓ガラスが鳴った。


 ナナは両足を地面につけたままだった。


「いま、何をした」


「継続してください」


 答えにはなっていなかった。


 相沢は帯を離さなかった。


「扇風機も直さないとな。首を振ると、六秒のあとで引っかかる」


「七秒です」


「最初は六秒だった」


「経年劣化が進行しています」


「偉そうに言うな。ナナが毎晩、変な角度に固定するからだろ」


「相沢への送風効率を最大化しています」


「俺ばっかり涼しくしても意味ないんだよ」


「あります」


 迷いのない返事だった。


 右膝から、火花が一つだけ落ちた。


 落ちたはずだった。


 赤い粒は地面へ届かず、ナナの膝の下で止まった。消えるまでの短いあいだ、宙に浮いていた。


 相沢は話し続けた。


「冷房は無理でも、もう少しましな扇風機なら買える。榊先輩に探させる。あの人のせいでナナを拾ったんだから、それくらいさせていい」


「因果関係が不正確です」


「いいんだよ。あと、床も直す。大家には」


「床の損傷原因を説明できません」


「大型冷蔵庫を落としたことにする」


「冷蔵庫は歩行しません」


「見られてないから平気だ」


「虚偽の精度が低いです」


「じゃあナナが考えて」


「了解しました」


 その言葉だけが、少し遅れて返ってきた。


 相沢は気づいた。


 以前、榊が録音機と計測器を床へ並べ、相沢にナナの名前を呼ばせたことがあった。相沢が呼ぶたびに目盛りが跳ね、火花が散った。榊は、相沢の声は不要な電気を使わせる、と言った。


 あのときの音が、今はしなかった。


 火花も散らない。


 不要なものがなくなったのではなかった。


 それ以外のすべてが、なくなっていた。


 ナナの右目は相沢を映しながら、黒い輪郭を見ていた。両方を見ることなどできないはずなのに、相沢にはそう見えた。


 輪郭の周りで、空気が歪んだ。


 黒い面が一枚ずつずれた。初めて、それが後退しているとわかった。ナナは手を上げてもいない。片方の目と、動かない腕と、煙の残る右手を抱えたまま、そこに立っているだけだった。


 それでも、通りの中央にある力の向きが変わっていた。


 倒れた提灯の骨が、地面を擦ってナナの方へ動いた。


 空き缶が転がった。


 割れたガラスの粒が跳ねた。


 風は、黒い輪郭の方から吹いていた。どれも風と反対に動いていた。


「ナナ」


「はい」


「これは、絶好調なのか」


 ナナは少し黙った。


「比較可能な過去記録がありません」


「正直だな」


「相沢が訂正を要求しました」


「したっけ」


「しました」


 相沢は思い出せなかった。


 けれど、ナナは覚えていた。


 どうでもいい会話も、扇風機の首が引っかかる秒数も、金魚に必要な道具も、相沢自身が忘れた言葉も覚えていた。それらは戦うためには何の役にも立たない。役に立たないはずのものを、彼女は一つも捨てていなかった。


 黒い輪郭が、さらに遠ざかった。


 薬局のシャッターが閉まり始めた。内側の誰かが最後まで相沢を呼んでいた。相沢は返事をしなかった。


 ナナのそばにいた。


 それだけでよかった。


「発話を続ける」


 相沢は言った。


「だから、ナナも聞いてろ」


「はい」


「帰ったら、最初に水槽を買う。次に扇風機。床はそのあとだ。スイカはもう時期が終わるけど、見つけたらまた買う。今度は目隠しなしで割れ。危ないから」


「目隠しの有無は命中精度に影響しません」


「気分の問題だよ」


「非効率です」


「そういうのが楽しいんだろ」


 返事はなかった。


 相沢は帯を掴む指へ力を入れた。


「ナナ」


「記録しています」


 静かな声が返った。


 地面の砂が浮いた。


 一粒ではなかった。


 ナナの足元を中心に、砕けた舗装の細かな欠片がいっせいに持ち上がった。落ちることを忘れたように、彼女の膝の高さで止まる。裂けた浴衣の右袖が、風とは逆にゆっくり上を向いた。


 薬局の割れた窓に残る硝子が、いっせいにナナの方へ傾いた。


 相沢は帯から手を離した。


 布は落ちなかった。


 黄色い結び目の端が、ナナの背中から斜め上へ伸びたまま止まっていた。


 彼女の両足は、まだ地面についていた。


 百三十八・五キロの重さを、もう地面だけが支えているのではなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。