三十秒
最初に持ち上がったのは、砂とガラスだった。
次に、倒れた屋台のアルミ板が浮いた。片端を地面へ残したまま、見えない手に引かれるようにゆっくり起き上がる。散らばっていた割り箸が宙で回り、赤い提灯の骨が鳴った。
最後に、ナナの踵が地面から離れた。
ほんの数ミリだった。
裸足とアスファルトの間に、黒い隙間が見えた。それだけで、相沢の知っているナナではなくなったように思えた。
百三十八・五キロは、いつも彼女を地面へ縫いつけていた。床を沈ませ、台車を軋ませ、砂浜で相沢の手を役立たずにした。その重さがなくなったわけではない。周囲のものすべてが、ナナと同じ方向へ落ち始めていた。
黒い輪郭が後退した。
一つではなかった。
祭りの通りの奥、屋根の上、神社の石段、その向こうの空にも、角の数えられない影があった。近いものは人の背丈ほどに見え、遠いものは星より小さかった。大きさが違うのか、距離が違うのか、相沢には判別できなかった。
どれも、ナナを向いていた。
ナナは右目だけで空を見た。
砕けた左肩に浴衣が貼りつき、動かない腕を朝顔の袖が包んでいた。白い構造が覗いていても、それは人の形を失ってはいなかった。ほどけた髪と、裂けた袖と、黄色い帯。祭りへ来たときと同じ少女の輪郭だった。
ただ、美しさの種類が変わっていた。
屋台の明かりの下で見た浴衣姿は、触れれば体温が返ってきそうだった。今のナナは、触れる前から熱が届いた。肌の亀裂から漏れる光が顔の片側を照らし、風に逆らう髪の一本ずつが暗い空へ線を引いていた。
人間に似せているのではなかった。
人間の形のまま、人間には届かないところへ立とうとしていた。
相沢は名前を呼びかけた。
声になる前に、地面が傾いた。
足元が実際に動いたわけではない。身体だけが、薬局と反対の方向へ引かれた。相沢は片膝をつき、両手を舗装へついた。
薬局のシャッターは、床から二十センチほどのところで止まっている。金魚はもう内側にいた。避難者も残っていない。相沢の手には、守るために持っているものが何もなかった。
だから、ナナへ向けて両手を伸ばした。
白い線が四方から集まっていた。
一本は屋根を越え、一本は神社の石段を削り、残りは空の途中から現れた。ナナへ届く少し前で、すべてが曲がった。光は彼女の周囲を円く回り、絡まり、上空へ細い柱になって抜けた。
雲のない夜空が白く焼けた。
ナナの足元にあった舗装の亀裂が、音もなく押し広げられた。
彼女の踵は浮いている。触れていない。地面を押しているのはもう彼女の重さではなく、周囲を歪める見えない力だった。
「ナナ!」
「聞こえています」
「何体いる」
「回答に意味がありません」
「数えられないってことか」
「数は確定できます」
「じゃあ言えよ」
「相沢の行動選択に寄与しません」
黒い影が増えていた。
遠くの山の上で、赤い光が横へ走った。数秒後、低い音が届く。雷ではなかった。町の反対側からも、同じ音が返った。
相沢は初めて、祭りだけが襲われているのではないと知った。
電気設備の障害という放送は、誰かを安心させるには間に合ったかもしれない。けれど、空の形までは隠せなかった。
通りの街路スピーカーが鳴った。
落雷に伴う停電。山間部での土砂崩れ。航空機の安全確認による屋内待機。原因も場所も違う文が、数秒おきに同じ女の声で流れた。
『現象は局地的であり、拡大の可能性はありません』
山の向こうで、二度目の赤い光が走った。
嘘だ、と怒鳴る相手さえいなかった。
「ここだけじゃないんだな」
ナナは答えなかった。
答えないことが答えだった。
相沢は立ち上がろうとした。見えない傾斜が胸を押し、腕が震えた。両足を地面へつけても、身体はナナから遠ざかる方へ滑った。
「近づかないでください」
「近づけないようにしてるのはナナだろ」
「はい」
「止めろ」
「できません」
「できないのか、しないのか」
ナナの右目が相沢へ動いた。
「しません」
相沢は奥歯を噛んだ。
「俺を守るためか」
「はい」
「勝手に決めるな」
「この選択について、相沢に決定権はありません」
さっきと同じ言葉だった。
ナナは自分が壊れるかどうかを相沢に決めさせなかった。相沢があとで、自分の命令だったと思わずに済むようにしているのだとわかった。
それが腹立たしかった。
優しいとも思った。
どちらか一つにはできなかった。
「何をするつもりだ」
「対象群の中心へ移動します」
「それで」
「私の全出力を、対象群の構造維持に必要な位相へ干渉させます」
相沢には意味がわからなかった。
「戻ってこられるのか」
ナナは答えなかった。
「ナナ」
「帰還経路を確保できません」
相沢は目を閉じた。
否定する言葉を探した。探せばいくらでもあった。命令することも、約束を強いることもできた。
けれど、それではナナが自分で選んだことを奪う。
「分かった」
口にすると、胸の奥が裂けた。
「分かったけど、嫌だ」
「はい」
「帰ってきてほしい」
「はい」
ナナは否定しなかった。できない約束もしなかった。
相沢は見えない斜面に手をつき、少しずつ膝を立てた。浴衣の裾が上を向いている。朝顔の模様が熱に揺れ、その向こうで右膝の亀裂が赤く光っていた。
彼女の身体は限界を越えていた。
それでも相沢の声を待っていた。
「ナナ。ひとりで決めたことを、あとで怒るから」
相沢は言った。
今度は命令の形にしなかった。
ナナの右目から、いくつもの細い光が消えた。
「覚えておきます」
帰れないことを、帰れると言い換えなかった。それでも相沢の言葉を、自分のものとして受け取った。
相沢は頷いた。
「それでいい」
空の影が一斉に近づいた。
黒い面と面の間に、白い点が生まれた。十、二十では足りない。夜空に散った星が、全部こちらへ落ちてくるようだった。
ナナの周囲で浮いていた砂が、細い円を描いて回り始めた。速くなる。ガラス片が光の輪になり、朝顔の袖が激しく鳴った。
相沢の身体がさらに遠ざけられた。
両手をついて耐える。指先が舗装を擦った。ナナまで三メートルもない。それなのに、走っても一生届かない距離に思えた。
「相沢」
「聞こえてる」
「干渉開始後、ここには高熱と圧力変化が発生します」
「どれくらい」
「生体組織は維持できません」
ナナは感情のない声で言った。
脅しているのではなかった。相沢に、自分で選べるだけの情報を渡していた。
「開始まで何秒」
ナナは空を見た。
右目の青が、落ちてくる無数の白を映した。
「三十秒です」
相沢の指が、地面を掴んだ。
三十秒。
走れば薬局の角を曲がれる。遮蔽物が足りなければ、その先へも行ける。ナナが作った見えない斜面に押されるまま進めば、もっと遠くへ逃げられる。
ナナは相沢を見た。
砕けた肩も、動かない腕も、片方だけの青い目も、そのままだった。朝顔の浴衣を着た少女が、夏祭りの壊れた通りに立っていた。
「逃げてください」




