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同じ三十秒

「嫌だ」


 相沢は答えた。


 三十秒のうち、一秒をそれに使った。


 ナナの右目が細くなった。


「逃げてください」


「聞こえた」


 相沢は地面に指を立てた。


 見えない斜面が身体を押していた。指先が滑る。爪の間に砂が入り、擦れた手の甲から血が滲んだ。立つのは無理だった。相沢は腹ばいになり、舗装の亀裂へ指を掛けた。


「行動が逆方向です」


「知ってる」


 腕を引いた。


 身体が十センチ進み、十五センチ押し戻された。


 二十七秒。


 黒い影の白い点が膨らんでいた。ナナの周囲を回るガラス片が速くなり、輪郭を失って光の帯になった。相沢がそこへ触れれば、皮膚が切れるだけでは済まない。


「相沢、停止してください」


「ナナが止めろ」


「停止できません」


「少しだけ弱めろ」


「防護範囲が減少します」


「それでいい」


「よくありません」


 相沢は次の亀裂へ手を伸ばした。


 爪が届かない。


 身体が後ろへ滑った。浴衣姿のナナが遠くなる。実際には三メートルも離れていないのに、彼女の顔が夜の向こうへ沈んでいくように見えた。


「俺は、ナナを止められない」


 相沢は言った。


「止める方法があるなら、とっくにやってる。逃げ道も、帰ってくる方法も、何も思いつかない」


 ナナは相沢を見ていた。


「だから、助けに行くんじゃない」


「では、目的を提示してください」


「近くにいたい」


 相沢は腕を伸ばした。


 指先は何にも届かなかった。


「触りたい。ナナのそばにいたい。それだけだ」


 ナナの右目の青が揺れた。


 二十三秒。


「相沢の生存に寄与しません」


「俺の生存の話じゃない」


「では、誰のためですか」


「俺のためだよ」


 相沢は言った。


「俺がそうしたい」


 それは、ナナがずっと口にしなかった種類の言葉だった。


 相沢のために掃除をする。相沢のために扇風機を向ける。相沢のために海へ行き、看病し、身体を壊し、いまは敵を押し止める。ナナは何をしても、相沢を理由にした。


 けれど、それだけではなかったはずだ。


 相沢に見てほしかった。似合うと言ってほしかった。同じスイカを食べ、同じ海を見て、同じ祭りを歩きたかった。そうでなければ、浴衣を着たとき鏡ではなく相沢を見る必要はなかった。


 それを勝手だと言うなら、相沢も同じだった。


 ナナに帰ってきてほしい。そばにいてほしい。忘れたくない。どれもナナを救うためだけではなかった。相沢がそう望んでいるからだった。


「ナナも、自分のために決めたんだろ」


 ナナは答えなかった。


「だったら、俺にも自分のために決めさせろ」


 二十秒。


「私が防護を弱めれば、相沢は接近できます」


「うん」


「同時に、相沢の生存可能性は低下します」


「それもわかった」


「合理的な交換ではありません」


「交換じゃない」


 相沢の身体が、また数センチ押し戻された。


 ナナは彼を近づける計算と、遠ざける計算を同時に続けているように見えた。浮いた砂が前へ進み、戻り、彼女の周囲で細く震えていた。


「ナナは、俺に来てほしくないのか」


 右目の青が揺れた。


「相沢の接近を望んでいます」


 初めて、ナナは言った。


「ただし、その希望は相沢の生存と矛盾します。ゆえに撤回します」


「勝手に撤回するな」


「私の希望です」


「だったら、俺の希望も聞けよ」


 相沢は地面を掴んだまま、ナナを見た。


「俺も、ナナの近くにいたい」


 ナナは動かなかった。


「同じだ」


「相沢は、私に要求されたから接近するのではありませんか」


「要求されてない。逃げろって言われた」


「はい」


「それでも行く。俺が決めた」


 ナナの右目から、流れていた細い光が消えた。


「だったら、ナナも決めろ」


 十九秒。


 空で白い点が一つ弾けた。


 ナナの右肩が揺れた。肌の亀裂から光が強く漏れ、朝顔の袖が一部焦げた。彼女は敵へ向き直ろうとした。


 その途中で、止まった。


 ガラスの輪が一瞬だけ遅くなった。


 相沢の身体を押す力が緩んだ。


 両者は同時だった。


 相沢は立ち上がった。足の裏がまだ滑る。前へ倒れそうになりながら一歩進んだ。二歩目で膝が折れた。手をつかず、その勢いのまま身体を前へ投げた。


 ナナまで、あと一メートル。


「防護効率が低下しています」


「ナナがやったんだろ」


「はい」


「じゃあ文句言うな」


 十八秒。


 相沢はもう一歩進んだ。


 浮いていた砂が頬へ当たった。ガラス片の輪は相沢を避けなかった。制服の肩が切れ、布が開いた。熱い線が皮膚を走った。


 ナナが右手を動かした。


 煙の残る手だった。


 その手が、相沢の手首を掴んだ。


 強くはなかった。


 最初にスクラップ置場から運び出したときなら、ナナの腕一本にも負けていただろう。いまの握力は、相沢が振りほどこうと思えばできる程度だった。


 相沢は振りほどかなかった。


 ナナが引いた。


 相沢は最後の半歩を越えた。


 見えない斜面が消えたのではない。ナナが作った細い通路を、二人で両端から繋いだのだと相沢には思えた。


 十六秒。


 相沢の身体がナナへぶつかった。


 重かった。


 浮きかけていても、百三十八・五キロはそこにあった。肩を抱いても動かせない。背中へ腕を回すと、浴衣の帯が掌へ当たった。黄色い布は熱く、その下には人間の身体にはない硬さがあった。


 相沢は壊れていない右肩へ頬を押しつけた。


 ナナの肌は熱かった。


 風邪の夜に額へ触れた手よりも、スイカを割ったあとの指先よりも熱い。けれど、痛くて離したくなる熱ではなかった。真夏の午後、日向に置かれた古い扇風機の外枠へうっかり触れたときのような、夏そのものの熱だった。


 頬の下で、かすかな震えが続いていた。


 浴衣を着せた夜、ナナが武者震いだと言い張った震えに似ていた。あのとき相沢は信じなかった。今も信じなかった。ただ、震えを止めさせようとは思わなかった。


 背中へ回した腕に力を込める。


 硬く、重く、熱い身体だった。


 相沢がスクラップ置場から連れ帰った身体と同じだった。壊れた箇所が増えても、触れればわかった。ここにいるのはナナだった。


「相沢」


 耳のすぐ横で、ナナの声がした。


「近すぎます」


「これでいい」


「体表温度が上昇しています」


「知ってる」


「心拍数も」


「数えるな」


「十一秒です」


「そっちは数えろ」


 ナナの右腕が相沢の背中へ回った。


 片腕だけの抱擁だった。


 動かない左腕は、二人の間に挟まれていた。相沢はそこへ触れないよう、身体を少しずらした。それでも離れなかった。


 ナナが右手に力を入れた。


 相沢の制服の背中を、五本の指が掴んだ。


「相沢」


「何」


「顔を上げてください」


 九秒。


 相沢は顔を上げた。


 片方だけの青い目が近くにあった。左目は暗いまま、頬には細い亀裂が伸びている。浴衣の襟は焦げ、ほどけた髪が相沢の頬へ触れていた。


 ナナは何も説明しなかった。


 右手を相沢の背から首の後ろへ移した。


 唇が触れた。


 短かった。


 柔らかさを確かめるより先に離れた。熱だけが残った。


 相沢は息をすることを忘れた。


 七秒。


「いまのは」


「回答しません」


 ナナは相沢を見ていた。


 逃げる時間を減らしたことも、防護を弱めたことも、いまの行為も、正しいとは言わなかった。相沢のためだとも言わなかった。


 だから、相沢にはわかった。


 あれはナナがしたかったことだった。


「わかった」


 相沢は言った。


「じゃあ、これは俺がしたいこと」


 六秒。


 相沢はナナの頬へ手を添えた。


 亀裂を避け、まだ肌の残っている場所へ指を置く。ナナは動かなかった。相沢を止めなかった。


 今度は相沢から口づけた。


 同じくらい短くした。


 離れたとき、ナナの青い目がまだ閉じていた。


 機械が目を閉じる必要などない。


 それでも彼女は、ほんの一瞬、そうしていた。


 三秒。


 ナナが目を開いた。


「相沢」


「うん」


「記録しました」


「俺も」


 二秒。


 ナナの腕が背中から離れた。


 相沢は離さなかった。


 一秒。


「もう少し」


 相沢は言った。


 ナナの右手が、もう一度だけ相沢の制服を掴んだ。


 零秒。


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