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最期の飛翔

 零秒になっても、ナナは相沢を離さなかった。


 空から落ちてくる白い点が、夜を埋めていた。ひとつひとつが細い線へ伸び、神社の屋根も、薬局の看板も、二人の立つ道も、同じ白の中へ消そうとしていた。


 相沢はナナの背中へ腕を回していた。


「もう少し」


 もう一度言った。


 ナナの右手が、制服を掴んでいた。


 五本の指から、ひとつずつ力が抜けた。


「ナナ」


 最後の指が離れた。


 ナナは、煙の残る右手を相沢の胸へ置いた。


 押された感触はなかった。


 相沢とナナの間だけが、急に遠くなった。


 触れていたはずの浴衣の帯が指の間を抜ける。ほどけた髪が頬から離れる。相沢は腕に力を込めたが、何も抱けなかった。ナナの姿は目の前にあるのに、彼女までの距離が一瞬で十メートルにも百メートルにも引き延ばされた。


 相沢の身体が後ろへ運ばれた。


 投げられたのではない。落ちていた。ただし、地面ではなく薬局の方へ落ちていた。足も、肩も、内臓も、身体のすべてが同じ方向へ引かれる。相沢は手を伸ばしたまま、壊れた通りの上を滑った。


「待て!」


 声だけがナナへ届いた。


 彼女の右目が相沢を追った。


 ナナは笑っていなかった。


 泣いてもいなかった。


 ただ、見ていた。


 二度の口づけを記録した片方の目で、相沢の姿を最後まで見ていた。


 薬局の壁が近づいた。激突すると思った瞬間、相沢の身体は速度を失った。背中がシャッターへ触れる。押しつけられる力は強かったが、呼吸はできた。腕も動いた。


 相沢は壁を蹴った。


 一歩も進めなかった。


「ナナ!」


 彼女の名前を叫んだ。


 ナナの浴衣が鳴った。


 右の裸足が地面から離れた。左足も続いた。跳んだのではない。膝を曲げず、何かを蹴らず、朝顔の浴衣を着たまま、彼女の身体は静かに持ち上がった。


 十センチ。


 一メートル。


 提灯の高さを越え、屋台の屋根を越えた。


 百三十八・五キロの少女が、夜空へ昇っていく。


 変わったのは周囲の方だった。割れたガラスも、砂も、敵の白い線も、ナナへ向かって落ちた。空に散らばっていた黒い輪郭が引き寄せられ、いくつもの面を重ねながら彼女の前に集まった。


 ナナは人の形を失わなかった。


 砕けた肩も、動かない左腕も、消えた片目も隠さなかった。裂けた袖から白い構造が見え、黄色い帯が長く後ろへ伸びている。それでも、相沢の目に映っているのは、浴衣を着た女の子だった。


「帰ってこい!」


 相沢は叫び続けた。


「あとで怒るって言っただろ!」


 ナナの顔が、わずかに動いた。


 返事は聞こえなかった。


 黒い影が彼女を囲んだ。


 ナナの輪郭が、夜の中で小さくなった。


 朝顔の色が見えなくなる直前まで、少女の姿だった。


 そして地上と彼女の間に、音の届かない距離が開いた。


 *


 私は、死にたくない。


 相沢に会う前なら、自己保存と呼んだだろう。いまは、帰りたいと言える。スイカを食べたい。海をもう少し見たい。相沢が風邪を引いたら、また同じ布団で眠りたい。来年も浴衣を着たい。


 欲しいものが多すぎた。


 いつからか、相沢に選ばれたいと思うようになった。そう思う自分を、ずるいと思った。


 けれど三十秒の最後に、相沢は自分から私へ来た。私が触れたかったように、彼も触れたかった。最初の口づけと二度目の口づけは、同じだった。


 ゼロナナをナナと呼んだのは相沢だった。振り向くことを選んだのは私だった。


 黒い多面体が視界を塞いだ。


 面と面の隙間を走る位相を、私は知っていた。名前を持つより古い場所に、その壊し方だけが残っていた。


 私は中心へ進んだ。身体が、波の音のように静かになっていく。止まるたび、最後まで残すものを選んだ。相沢の声。相沢の顔。唇に残った短い熱。


 地上へ向いていた白い線を、私へ向ける。私の出力と、多面体が自らを保つ力を同じ場所へ集める。


 相沢を救える。


 帰りたい。そのまま出力を上げた。生きたい私が、それでも相沢を選んだ。


 まあ、相沢のためなら、仕方がない。


 そう思うと、少しだけ可笑しかった。


 通信は開かなかった。


 記録を送らなかった。


 言葉は届かない。二度目の口づけが、もう返事だった。


 多面体の奥で、白い点がひとつに重なった。


 私の身体の境界が光へ溶け始めた。


 祈るように、私のすべてを相沢のいる方へ向けた。


 部品も、記録も、帰還の目印も残らない。私はここで終わる。それでも二度目の口づけを思えば、もう何も頼まなくてよかった。


 多面体のすべての辺が白くなった。


 地上へ伸びていた光が引き返し、私のいる一点へ集まった。黒い面が端から消え、空の欠けた場所が夜へ戻っていく。


 相沢のいる町は残った。


 それでよかった。


 いいえ。


 それだけでは足りない。


 私は生きたかった。


 その未練も、恐怖も、エゴも、全部が私だった。


 相沢がつけ、私が選んだ名前を持つ、ナナだった。


 白い光の中で、朝顔の浴衣も、黄色い帯も、片方だけの青い目も、輪郭を失った。


 何ひとつ、落ちなかった。


 何ひとつ、残さなかった。


 最後に、相沢の名前を思った。呼ばず、届けず、私の中だけで大切にした。


 そして、敵と私を保っていたすべての力を、同時に手放した。


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