六秒と七秒
放送室の時計は、祭りの前から二分進んだままだった。
相沢はそれを直さなかった。
窓の外では、校庭の白線が引き直されていた。石灰を積んだ一輪車がバックネットの脇にあり、体育教師が曲がった線を靴の裏で消している。蝉の声はまだ残っていたが、鳴き方が少し疎らになっていた。
放送卓の上に、一枚の原稿が置かれた。
「相沢。読め」
榊は床に座り、ケーブルの癖を一本ずつ直していた。祭りへ持ち出したものではない。放送室に残っていた、黒く、太く、どこにも傷のないケーブルだった。
相沢は原稿を持った。
市内北部で発生した電力設備事故について、復旧作業は完了した。旧市街地の立入規制を解除する。不確かな情報を広めず、通常の生活を継続するよう協力を求める。
余白に、赤鉛筆で読み方が振ってあった。
「どこまで本当ですか」
「電力設備があること」
「それだけですか」
「俺が確認できたのはな」
榊はケーブルを巻き直した。最初の輪と同じ大きさで次の輪を作り、重ねた。
「読むのか」
「読みます」
相沢はマイクの高さを合わせた。
赤いランプが点いた。
「放送部から、全校生徒のみなさんへお知らせします」
原稿は短かった。
局地的な発光現象。電力設備の事故。立入規制の解除。根拠のない噂に注意すること。
書かれている文字を、書かれている順に読んだ。
「以上、放送部からのお知らせでした」
赤いランプが消えた。
校舎のどこかで椅子を引く音がした。廊下を走る足音がして、すぐに教師の声に追われた。窓の外では体育教師が一輪車を押し、引き直された白線の上を歩いていった。
「一か所」
榊が言った。
「分かってます」
「なら次は直せ」
「はい」
相沢が原稿を返すと、榊は裏返して机の端へ置いた。紙の白い面が上になった。
それから二人でケーブルを巻いた。
巻き癖に逆らわず、輪を作る。端子が床に当たらないよう持ち上げる。最後の一本を棚へ戻すころには、窓から差す光の角度が変わっていた。
「戸締まり」
「します」
榊は機材鞄を肩に掛けた。
「また明日」
「はい」
足音が廊下の向こうへ消えた。
相沢は窓を閉めた。空を見るためではなく、風で原稿が落ちそうだったからだ。
白い面を上にした紙は動かなかった。
アパートへ戻ると、六畳間の隅で水の音がしていた。
小さな水槽のろ過器が、細い泡を吐いている。黒い金魚が、相沢の影を見て水面へ上がってきた。
「ただいま」
金魚は口を開いた。
相沢は餌を二粒落とした。一粒目を追い、二粒目へ向きを変える。水温計は二十六度を示していた。ガラスの内側に薄くついた汚れを、スポンジで一筋だけ拭った。
金魚は餌の匂いと水の流れを知っていた。
それ以外のことは、何も知らなかった。
相沢は制服を脱ぎ、シャツを籠へ入れた。流しで手を洗い、米びつを開けた。
計量カップが米の中へ沈んだ。
一杯すくい、釜へ入れる。
指はもう一度、米びつへ戻りかけた。
戻らなかった。
蓋を閉めた。
米を研いで水を切る。新しい水を入れ、釜を炊飯器へ戻した。味噌汁の鍋は小さい方を使った。豆腐を半分だけ切り、残りは水を張った容器へ入れた。
誰かに教わったわけではなかった。
そうする手順が、もう手に馴染んでいた。
炊飯器のスイッチを押すと、窓際で乾いた音がした。
古い扇風機だった。
黄ばんだ網。台座のひび。首振りの途中で一度だけ鳴る、軽い摩擦音。
電源コードは抜かれたまま、壁際で丸めてあった。
相沢は扇風機を机の前へ引き出した。裏蓋を外し、電源線を追った。接点は黒くなり、古い油が埃を固めていた。
綿棒に洗浄液をつけて磨いた。軸へ油を一滴だけ差し、余った分を布で拭った。網を戻し、ねじを締める。
直せるものだった。
相沢は電源コードを差した。
スイッチを押す。
羽根はすぐには回らなかった。
モーターが低く唸り、少し間を置いて、風が生まれた。古い油と熱を持った樹脂の匂いがした。
相沢は机の前へ座った。
向かい側には、何も置かなかった。
座布団ひとつ分の畳が空いていた。
首振りのつまみを押した。
扇風機の頭が左へ動き始めた。
一秒。
二秒。
三秒。
風が相沢の頬を離れた。
四秒。
五秒。
六秒。
風は、空いている畳へ届いた。
そこで止まらず、扇風機は右へ戻り始めた。
一秒。
二秒。
三秒。
空席から風が離れた。
四秒。
五秒。
六秒。
七秒。
風が相沢へ戻った。
相沢は目を閉じなかった。
呼ばなかった。
扇風機はまた左へ向かった。
六秒後、風は誰もいない場所へ届いた。
炊飯器が小さく鳴った。
相沢は立ち上がり、茶碗を一つ出した。
扇風機は止めなかった。
扇風機は、そこに誰がいたのか知らない。
六秒と七秒の意味も知らない。
記憶しているのは、相沢だけだった。
風が戻ってきた。
相沢は、忘れなかった。




