帰って来た・常連
ある春の日だった。
最高時速キロメートルを超える鉄の塊が、轟音を響かせながら長い新関門トンネルを潜り抜けた。
急激な気圧の変化に軽い頭痛を覚えつつ、私は眉間にしわを寄せたまま、ようやく明るさを取り戻した窓の外へと視線を泳がせる。あえて逸る気持ちを悟られぬよう、フッと手元の文庫本へと視線を戻した。
あと二時間もすれば、新大阪へ到着する。
あの無慈悲な辞令による九州への転勤から、およそ半年が経った頃。大阪でかつてお世話になった同僚の送別会に招待されたのだ。私はクローゼットから引っ張り出した小綺麗な服に身を包み、再び約束の地へと舞い戻ることとなった。
いくら義理堅い私とはいえ、送別会という大義名分でもなければ、遥か600キロメートルも離れた土地へ赴こうとはなかなか気が進まない。
――だが、もちろん。私の脳内スケジュールには、あの「我が城」へと帰還し、無骨な店主くんに拝謁する時間が、何よりも最優先で確保されていた。
件の送別会は夜からの開催だ。
にもかかわらず、元城主としての神聖な義務を果たすためだけに、私はわざわざ「六時間」も前に現地入りする計画を立てたのだ。
半年間、主を失っていたあのカウンター席は、今どうなっているだろうか。
私が消えたことで、年間6万5千円の機会損失に頭を抱え、店主くんは店を畳んでしまってはいないだろうか。
期待と一抹の不安を胸に、私は本州のレールをひた走る――。
実を言うと、半年前の転勤から私は完全にこの地と決別していたわけではない。年末年始の帰省の折、私は一度、あの城へと極秘裏に足を運んでいたのだ。
しかし、やはりというべきか。お店の年末年始休業期間と私のスケジュールが寸分の狂いもなく被ってしまい、店主くんの無骨な顔を拝むことは叶わなかった。
だからこそ、今日こそは文字通りのリベンジをさせてもらう。
(半年も私が不在だったんだ。まさか、腕が落ちたなんて言わないだろうな? まったく、私というお目付け役がいなくても、しっかり営業を維持してくれないと困るよ、店主くん)
そんな尊大な脳内シミュレーションを何度も繰り返しながら退屈な移動時間を消費し、私はようやく、懐かしき「第二の故郷」へと降り立ったのだった。
普段は持ち歩かない、慣れないスーツケースのハンドルを握り、アスファルトの上で「カラカラ」と軽快な音を響かせる。
私の凱旋を祝福するかのように頭上に広がる、おあつらえ向きのどんよりとした灰色の空。半年ぶりのその街は、私という人間が消えたことなど気にも留めない様子で、平穏な営みを淡々と維持していた。
ここは、あまり変わらないな。
古き良き街並みの趣を肌で感じながら、私はスーツケースを引きずり、足早にスクランブル交差点を渡った。
しばらく歩いたその先。見覚えのある商店街の一角に、こう々と輝く「カレー」の文字が突如として視界に飛び込んできた。
次の瞬間、春の風に乗って、あの懐かしい芳醇なスパイスの香りが私の鼻腔をまっすぐに突き抜けていった。
それだけで私の胃袋は「準備は万端だ」と言わんばかりに、溌剌とした刺激を享受しようと激しく脈打ち始める。
ああ、これだ。
ついに帰ってきたぞ、懐かしき我が城よ――。
懐かしい引き戸をスライドさせると、入れ替わるように中年の男が店から出てきた。あわや衝突寸前というところだったが、私はそれを華麗なステップで回避し、滑り込むように暖簾をくぐった。その瞬間、私の全身が待望の芳醇なスパイスの香りで包まれていく。
同時に、私の帰還を歓迎するかのように、高い聲音の挨拶が飛んできた。
「いらっしゃいませー!」
(……ん? 待て。貴様、誰だ⁉)
驚いて調理場へと視線を向けると、そこにいるはずの無骨な店主くんの姿はどこにもなかった。代わりに、二十代前半とおぼしき若い女性が、実に楽しげな様子でカレーを皿に盛り付けているではないか。
私は食券機の前で立ち尽くしたまま、数秒間、完全に脳内がフリーズして固まった。
そして、驚愕の事実はそれだけではなかった。
なんと店内は、ほぼ満席だったのである。かつて私が夜に訪れていた頃の静けさはどこへやら、幸せそうにカレーを頬張る「カレーニキ」たちが狭い店内にひしめき合っていたのだ。
私が不在だったこの半年間のうちに、一体何が起きたというんだ。
幸いにも、私がかつて愛用していた入り口手前の「特等席」だけは、奇跡的に空席のまま私を待っていた。なるほど、店主くんが私の帰還の気配(覇気)を察知し、あえてこの席だけを開けておいたに違いない。
私は相棒のスーツケースをその王座の前に鎮座させ、席をキープすると、いつものメニューを探すべく食券機へと視線を落とした。
すると、そこには見慣れない文字が躍っていた。――『ランチ』。
なんと、あの夜間1450円まで高騰していた『チキン南蛮カレー』が、ランチタイムに限っては1300円という格安のプライスで提供されていたのだ。
くっ……。私がいない間に、なんという小賢しいマーケティング戦略を導入しているのだ、この店は……!
私は時代の波に吸い込まれるようにランチのボタンを購入し、その発券された紙きれを、震える手で見知らぬ厨房の女性へと手渡した。
すると彼女は、これまでの無骨な城の歴史を塗り替えるような、実におしゃれで飄々とした態度でこう言ってのけた。
「ご飯の量、どうしましょー?」
(どうしましょー、だと? フン、そんなもの大盛りに決まっているだろうが! 私とこの店のご飯の量は、大盛りという強固な契約で結ばれているのだ!)
と、脳内では猛々しく咆哮したものの。
「あ、っ……大盛りで、オナシャス……」
現実はこれだ。悲しいかな、私は極度の人見知りなのだ。初対面の若い女性店員の前では、大盛りの契約など一瞬で霧散し、ただの蚊の鳴くような声のオタクに成り下がるしかなかった。
私は、まるで借りてきた猫のように大人しく王座(特等席)で縮こまり、差し出されたコップの水をちびちびと喉に流し込みながら、じっと店内の様子を窺った。
現場系のいかついお兄ちゃんに、近くの歓楽街から流れてきた風の、インテリっぽい黒服の男。年齢も職業もバラバラな男たちが、みな一様に幸せそうな顔でカレーにしがみついている。
その光景を眺めていたその時、私はある真理に気がついたのだ。
ここは、ただの私の城などという矮小な規模の場所ではない。
――一国、である。
このカレーをこよなく愛する同志たちは、みな我が国家の親愛なる民なのだ。
私は彼らの王として、この繁盛ぶりを深く嬉しく思う。よかったな、店主くん。君の作ったカレーは、今やこの国の民たちに熱狂的に支持され、大成功を収めているぞ。
さしずめ、目の前でテキパキと厨房を回すこの女性従業員は、昼の時間帯の統治を任された「女王」といったところか。
流れるような手つきで私のカレーを盛り付けていくその所作から、彼女がただの新人バイトではないことは一目瞭然だった。でなければ、ソースの容器をあんな風に逆手で掴み、迷いなく美しくぶっかけるようなプロの技は繰り出せない。フン、私の目は誤魔化せないぞ。
「お待たせしましたー!」
突如、鈴を転がすような軽やかな声が響いた。
それと同時に、はにかむような満面の笑顔が、私のチキン南蛮カレーをそっと目の前へと配膳する。
好き。
いかんいかん。目の前の女王にばかり気を取られていては、我が城の「本体」に失礼だ。貴様もしっかりと愛でてやらねばな。私は視線を、配膳されたカレーへと落とした。
何一つ変わらない、あの琥珀色のルーと完璧な佇まい。あやうく涙がこぼれそうになるのを堪え、私はカトラリー入れからスプーンを勢いよくかっさらうと、この半年間の飢えを埋めるように食らいついた。
瞬間、全身の細胞を駆け巡る圧倒的なエナジー。脳髄に稲妻が走る。これだ、これだよこれ!
しかし、その感動に浸れたのも束の間だった。
奥の席の現場系のお兄ちゃんが帰り支度を始め、トイレへと向かうのを横目で確認したその時、私の耳に見覚え……いや、聞き馴染みのある低い声が飛び込んできたのだ。
「ありがとうございます」
(店主……っ! ♡)
見れば、厨房の奥の少し窪んだスペースから、あの無骨な店主くんが顔を覗かせているではないか。元気そうで何よりだよ、店主くん! そう叫びそうになった私の目に、次の瞬間、信じられない光景が飛び込んできた。
「店長、今日のやつ、めっちゃ辛かったっすわ」
「そうでしょ~。だからやめといた方がいいって言ったのに(笑)」
「マジできつかったっす。次からは大人しく普通にします」
「ははは、午後のお仕事も頑張ってね」
……絶句した。
そこにあったのは、現場系のお兄ちゃんと実に仲睦まじく、楽しげに世間話を交わす店主くんの姿だった。
おい待て。あの寡黙で鉄壁の防衛線を誇っていた店主くんのパーソナリティは、すべて偽りだったというのか!? 私以外の人間には、そんな風に気さくに微笑みかけるというのか!?
男性が「トイレ借りますね」と去っていくのを、私はただ呆然と見つめることしかできなかった。
店主くん……君は私を裏切ったのか。織田信長を討った、あの明智光秀の生まれ変わりか何かなのか……⁉
激しい動揺のあまり、彼を凝視する私の熱い視線が伝わってしまったのだろう。なんと店主くんが、私の顔をじっと見つめながら、狭い厨房内をこちらに向かって歩いてくるではないか。
バチリと、目が合う。
私と店主くんは、互いに視線を交わしたまま、一秒ほどその場で硬直した。
「あの……」
店主くんが、静かに口を開いた。
『本多さん、お久しぶりです。しばらくお見かけしないから、僕、ずっと心配してたんですよ』
『すまない、店主くん。実は急に九州へ転勤になってしまったんだ。本当は君に気の利いた挨拶でもしたかったのだけれど、どうにも気恥ずかしくてね……。しかし、元気そうで安心したよ。店も随分と繁盛しているじゃないか』
『お陰様です。あの一年間、本多さんが捧げてくれた年間6万5千円の売上があったからこそ、私はこの城を守り、ここまで大きくできたんです。これはすべて、本多さんの残した偉大な成果ですよ』
『よしてくれ。私はただ、君の作るカレーを愛し、応援していただけさ』
アハハハ! ウフフフ!
――なんて、全米が涙するような美しい会話が繰り広げられるのだと、私は確信していた。
だが、現実は違った。
「あの、スーツケース、そこに置かれると入り口のドアを開けたときに当たっちゃうんで。もっと席の奥の方に引っ込めてもらえますか」
「あ、はい……っ。すみません……」
私は、死にたくなった。
店主くんは、私のことを完全に忘れていたのだ。あろうことか、この城の、いや、このカレー国家の絶対的な主であったこの私の存在を。
底知れない悲壮感に打ちひしがれながらも、私はプロ常連としての本能だけで残りのカレーを五分ほどで完食した。食べ終えた後の動きは、まるで重力に逆らうナマケモノのようなスローペースだった。未練がましくスーツケースの手元を引き寄せ、重い腰を上げて立ち上がる。
(達者でな、店主くん……。まあ、最後にお前の元気な顔が見られただけでも、よしとするさ……)
私は誰に宛てるでもない哀愁のメロディを背中に漂わせながら、入り口の暖簾へと向かってトボトボと歩き出す。
そんな私の寂しげな背中に向けて、厨房から声が上がった。
「「ありがとうございましたー!」」
女性従業員と店主くんの声が重なった、いつもと変わらない、一ミリのブレもないテンプレートの挨拶。
ああ、やっぱり私の片思いだったのかな。あの年間6万5千円の機会損失のシミュレーションも、すべては陰キャの悲しい独りよがりだったんだ――。
そうやって、完全に心をポッキリと折られかけた、まさにその瞬間だった。
「また、お待ちしてますね」
——ッ⁉
背後から飛んできたのは、明らかに店主くんの、低くも温かいトーンの声だった。
ハッとして、私は弾かれたように後ろを振り返った。しかし、そこに彼の姿はなく、店主くんはすでに照れ隠しをするかのように厨房の奥へと引っ込んでしまっていた。
だが、私の耳は、そしてハートはごまかせない。
通算五十数回目にして、一度だって口にされることのなかった、マニュアルの防衛線を踏み越えた「テンプレート外」の特別な挨拶。
その一度きりのパスによって、私は、今度こそ心の底から確信したのだ。
――私は、間違いなくこの店の「常連」だったのだ、と。
ガラリと引き戸を開けて外へ出ると、優しく吹き抜ける春の風が、私の縮こまっていた心をじんわりと温めていった。




