続・常連
「ゴチソゥサマデッス」
いつも通り、わずか七分ほどで大盛りのチキン南蛮カレーを胃袋へと流し込んだ私は、米粒ひとつ残さぬ更地の皿をカウンターへ上げ、後ろ髪を引かれる思いで店を後にした。
数日前、上司から突然言い渡された転勤の辞令。
あと二週間もすれば住み慣れたこの土地を離れ、遥か彼方の九州へと旅立たねばならないのだ。
私は独身だし、新天地でも仕事の内容自体が変わるわけではない。ただひとつ、私の人生において致命的な変更点があるとすれば、それは――毎週通い詰めたあの城に、あの無骨な店主に、簡単には会えなくなるということだけだった。
仕事帰りの電車に揺られ、ガタゴトという振動に身を任せながら、私はふと、ある重大な懸念に突き当たって思考を巡らせた。
私が九州へと消え去るということは、あの店にとって「貴重な太客(常連)」を一人、永遠に失うことを意味する。一回あたり約1300〜1450円のカレーを年間で五十回以上。……つまり、あの店は私の移住によって、年間でおよそ「6万5千円」もの機会損失を被ることになるのだ。
これは個人経営の飲食店にとってかなりの大打撃ではないだろうか。
やっていけるのだろうか、あの店は。考えれば考えるほど、私の脳内には、無骨な店主が深夜の厨房でパチパチと電卓を叩き、「クソ、今月あと6千円足りない……あの大盛りの客さえ来てくれれば……」と頭を抱えてむせび泣く、あまりにも悲惨な絵面が浮かんできて止まらなくなった。
しかし会社組織の歯車である以上、こればかりは私個人の力ではどうしようもない不可抗力なのだ。許してくれ、店主くん。私が経済の循環を止めてしまうことを。
私は静かに拳を握りしめた。
来週の夜。私はこの一年間の感謝を込め、最後の来店において、店主にこの残酷な真実を直接告げようと心に決めた。
そして、その日は呆気なく訪れた。
皮肉にも、明日にはすべての荷物と共に九州へ旅立つという引越し前日の夜。これこそが、この慣れ親しんだ土地で私に残された、正真正銘「最後の暇」だった。この貴重なオーラスの時間を我が城に使わなくて、一体何が城主か。
つい先日、医者から「コレステロール値が異常に高いから、今すぐ食生活を改善しなさい」などと、現実に引き戻すような戯言を言われたばかりだった。フン、勝手に言ってろ。
そんな健康上のリスク程度で、私と店主くんの一年間に及ぶ黄金の絆が朽ち果てると思ったら大間違いなのだ。
私はいつも通り、引き戸を滑らせて店の暖簾をくぐった。入り口の食券機へ、これが最後とばかりに愛おしさを込めて2千円の「餌」をやる。ボタンを押し、釣銭を回収する。ひとつひとつの動作を、儀式のように大切に噛み締めなければならない。
カウンターの特等席へ腰掛け、食券を差し出す。店主はいつも通りの無骨な表情で、私の手から無慈悲にそれを掻っ攫っていった。――そして、ポツリと。
「ご飯の量は?」
実を言うと、引越し準備の激務と寂しさ、そして医者の宣告のせいで、私の心と胃袋は穴が空きそうなほど疲弊していた。今夜の私には、あのわんぱくな大盛りチキン南蛮カレーを迎え撃つ元気など、どこを探しても残っていなかった。
しかし、ここで「あ、普通盛りで……」などと弱気な返答をすれば、店主に余計な気を遣わせてしまうかもしれない。
「おや、いつも大盛りを七分で平らげるあいつが、今日はどうしたんだ? 体調でも悪いのか?」などと、こだわり職人の心を乱したくはなかった。せめて最後くらい、普段通りの『カレーを通じた無言の信頼関係』を完璧に演じ切りたかったのだ。
私は、己の限界を超えて無理をした。
震える喉を震わせ、大人の余裕を精一杯に気取って、こう絞り出した。
「お、大盛りでオナシャス……」
大盛りの『チキン南蛮(風)カツカレー』が提供されるまでの数分間を、私は一秒たりとも無駄にすまいと、全身の五感で噛み締めるように味わった。
用もないのにわざわざトイレに立って個室の空間を愛で、席に戻っては調理場の奥をじっと覗き込み、一連の情景を網膜に、そして記憶のハードディスクへと焼き付けていったのだ。
ついに、最後のカレーが私の前に召喚される。
今日も揚げたてのカツは熱々で、ルーはどこまでも芳醇だ。本当にあったけぇ。
私は、感動とコレステロールのせいで目元に浮かびそうになる熱い雫をグッと堪え、胸の奥から込み上げる愛おしさと共に、大盛りカレーを猛烈な勢いでかき込んでいった。
今日もまた、ものの数分。
プロ常連としての意地を見せるマッハの速度で完食すると、コップの水を一気に飲み干した。
よし。更地となった皿をカウンターへ上げる。
まさにその刹那、私は店主の目を真っ直ぐに見据えて、温めてきたすべての想いを伝えるのだ。
『――店主くん。じつは私、明日から九州へ転勤になったんだよ。突然の報告になって本当にすまない。だけど、この一年間、私は君の作るカレーを食べるためだけに、過酷な一週間の労働を戦い抜くことができた。辛い時も、楽しい時も、このチキンカツ南蛮は間違いなく私の心の支えだったんだ。……この店の味、ずっと守り続けてくれよな。遠い九州の空から、君の健闘を応援している。それじゃっ!』
――なんて、全米が泣くような粋でスマートなセリフ、陰キャでオタクな私が言えるはずなかった。
泥臭い現実は、こうだ。
「あの……えと……あ、ゴチソサマデス……」
「ありがとうございましたー」
カチリ、と切ない音を立てて皿が戻り、いつも通りの、一ミリのブレもない定型文の挨拶が私を見送った。結局、私はただの「毎週やってきて大盛りをマッハで平らげる、ちょっと挙動不審な無口なオタク」のまま、この城を去ることになったのだ。
一歩店の外へ出ると、夜気を含んだ冷たい風が、大盛りカレーで火照った私の頬を優しく撫でた。
見上げれば、雲ひとつない夜空に、綺麗な月がこう々と輝いていた。
頑張れよ、店主くん。
君が電卓を叩いて頭を抱えた時は、遠い九州の地から私がエールを送るからな。
いつの日か、私がたまにこちらの地方へ帰ってきた時は、またフラリと顔を出してやるよ。その時こそ、君の鉄壁の防衛線を崩してみせるさ。
――アディオス、我が城。




