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常連

 ドラマや漫画でよく見かける、大人の格好いいシチュエーションに憧憬を抱いたことはあるだろうか。

 

 ある時、私は無性に「行きつけの店」が作りたくなったのだ。それも、ただ頻繁に通うだけではない。店主と寡黙な信頼関係を築き上げているような、いわゆる本物の「常連」というやつだ。

 私がカウンターに腰掛け、一言「いつもの」とだけ告げる。すると、すべてを察したマスターが、スっと気を利かせてお目当ての品を差し出す――。こういう渋い大人の世界線に、私はひどく憧れていた。

 

 しかし、志した直後に致命的な問題が浮上する。

 私は、お話にならないほどの下戸なのだ。缶ビール一本(三五〇ミリリットル)さえまともに飲み干すことが難しい。これでは、当初イメージしていた隠れ家風のバーや、赤提灯の居酒屋を開拓するのはハナから不可能である。

 

 ならば、と私は普通の飲食店に目を向けた。「いつもの」と言ったら、スっと馴染みの定食が出てくるような店だ。……憧れのシチュエーションが随分とガッツリした飯テロにシフトしてしまった気もするが、背に腹は変えられない。

 

「常連」の定義は曖昧だが、だいたい週に一度のペースで通い詰めれば、その称号を勝ち取れるはずだ。

 週一で無理なく通えるジャンルを脳内で天秤にかけた結果、私は「行きつけのカレー屋」を作ることに決めた。カレーなら毎日でも食べられるほど好きだし、一週間の仕事を頑張った自分へのご褒美として通うのにもちょうどいい。

 

 カテゴリが決まれば、次は店選びだ。仕事帰りにふらっと立ち寄りたいので、駅前が望ましい。

 CoCo壱――いや、大手チェーン店は除外だ。スタッフの人数が多すぎるし、どれだけ通ってもマニュアル通りの洗練された接客しか得られない。私が求めているのは、もっとこう、店主の顔が見える個人経営の店なのだ。

 

 条件を絞って記憶を検索しているうち、私はある店の存在を突如として思い出した。

 それは、かつて私が働いていたカラオケ店のすぐ隣。そこに、数年前に新進気鋭のカレー屋がオープンしていたはずだ。

 当時、一度だけお試しで食べに行った記憶がある。確か、結構なクオリティで美味しかった気がする。

 難航するかと思われた私の「行きつけの店開拓計画」は、こうして灯台下暗しな場所で、あっさりと目的地が決まった。

 

 私が「いつもの」の称号を手に入れるための、静かなる戦いが幕を開けようとしていた。


「今日から私には、行きつけの店ができるのだ」

 そんなワクワクとした高揚感を胸に、終始ニヤニヤとした不審な笑みを浮かべながら仕事を終わらせた。電車に揺られること数十分、私はお目当ての駅へと降り立った。

 

 事前のネットリサーチは完璧だ。Googleのレビューで写真もメニューも頭に叩き込んできた。今夜のターゲットは『チキン南蛮カレー(1200円)』一択である。

 商店街の一角、堂々と暖簾のれんを掲げる店の前まで赴くと、鼻腔を心地よく刺激する芳醇なスパイスの香りが漂ってきた。そういえば、店の公式Instagramには「ルーに数種類のフルーツをじっくり煮込んでいる」と書いてあったな。なるほど、確かにどこかフルーティーな甘みを含んだ香りがする。――ような気がする。

 

 よし、と私は意を決して暖簾をくぐった。

 厳密には人生二度目の来店ということになるのだが、店内の細かい雰囲気までは記憶に残っていなかった。

 ほうほう、なるほど。客席はカウンターが八席のみ。調理場が遮るものなく丸見えの構造だ。奥には、絵に描いたような「こだわり派のカレー職人」といった風貌の店主が、鋭い目付きで美味そうなカレーを皿に盛り付けていた。

 

「いらっしゃいませ」

 店主から飛んできたのは、実を削ぎ落としたような無骨な挨拶だった。

(フン、いいさ。今はそんな塩対応でも構わない。私が週一で通い詰め、真の常連となったあかつきには、君はパブロフの犬の如くしっぽを振ってその相好を崩すことになるのだからな。今に見ているがいい)

 

 私は、調理スペースが最もよく見える手前の席へと腰掛けた。いわば特等席だ。

(私の行きつけにふさわしい城かどうか、ここでじっくりと品定めさせてもらうよ。店主くん)

 

 目の前に水の入ったコップがトン、と置かれた。その刹那、私は店主の目を見据え、少し気取った低音のボイスで、スマートにこう告げた。

「チキン南蛮カレーを、ひとつ」

 

 我ながら、じつに通慣れた大人の注文の通し方だったと思う。

 しかし、店主は表情ひとつ変えず、落ち着き払ったトーンで言った。

 

「食券機でお願いします」

「……あ、はい」

 

 やってしまった。

 よく見ると、私が堂々とスルーして通り過ぎた入り口のすぐ脇に、メカニカルな存在感を放つ最新鋭の食券機が、文字通り鎮座していた。

 まさか……私を、試したというのか?

 店主は、私がこの店を行きつけにふさわしいか査定しに来たことを見抜き、あえて初見殺しの位置に食券機を配置していたとでもいうのか。こちらの動揺を誘うための心理トラップ……。

(この店主、やはり只者ではないな……)

 

 ゴクリと、喉が上下に鳴った。こちらもハナから本気ガチで行かねば、一瞬で足元をすくわれる。私は一度立ち上がり、平静を装いながら入り口の食券機へと歩み寄った。

 上から順番に、ボタンの文字列を舐めるようにして視線で追っていく。あった、お目当ての『チキン南蛮カレー』だ。

 

 しかし、その液晶に表示された数字を見た瞬間、私は己の目を疑った。

 ――1400円。

 

「……なっ!?」

 事前にGoogleマップで確認していた金額と、明らかに違う。ハッとして手元のスマホで確認し直すと、私が見ていたメニュー写真の投稿日付は「二年前」のものだった。

 くっ……まさかのタイムラグ。この物価高のご時世、容赦なき値上げの波がこの店にも押し寄せていたのだ。

 

 1400円。現在の私の財政状況において、それは決して気軽に出せる金額ではない。だが、いまさら「高すぎるので帰ります」などと、こだわり職人の前で背中を見せるわけにはいかないのだ。それは敗北を意味するのだから。

(い、いいさ。やってやるよ。1400円、払ってやろうじゃないか……!)

 私は引きつった笑みを浮かべ、震える手で財布から千円札(野口英世)を二枚、メカニカルな投入口へと滑り込ませた。機械はガガガと無慈悲な音を立て、二千円の富を、掠れた文字で『チキン南蛮カレー』と印字された、たった一枚の紙切れへと変え果てた。

 

 お釣りをひったくり、私は再び特等席へと帰還。カウンター越しに、その魂の紙切れを店主へと差し出した。

 すると、無骨な職人が私の目を見て言った。

「ご飯の量はどうします?」

 

 なに? ほほう、なるほど。

 メニューをよく見ると、どうやら大盛りまでは無料で変更できるシステムらしい。

(ならば大盛りだ。これは一週間を生き抜いた、私への神聖なご褒美なのだからな)

 

「大盛りでお願いします」

 今回は、おとなしく質問に答えてやろう。しかし、店主くん。君が私の顔を見て「ご飯の量は?」と尋ねるルーティンを、一体あと何回続けられるかな?

 

 ――なぜなら私は、近い将来、君に「いつもの」と言い放つ常連になるのだからな!


 私から食券を鮮やかに奪い去った店主は、慣れた手つきでフライヤーへと食材を投入し、手際よく調味料の準備を進め始めた。どうやら注文が入るたびに、その都度衣をつけて揚げるスタイルのようだ。素晴らしい。この時点で私のなかでのポイントはかなり高い。1400円の価値は十分にありそうだ。


 油の弾ける心地よい音を聴きながら、待つこと数分。

「お待たせしました」

 カウンター越しに、ついに私のお目当てのカレーが静かに召喚された。


 だが――私は、我が目を疑った。


 私が注文したのは、確か『チキン南蛮カレー』だったはずだ。それなのに、白米という名のアイランドの上に傲然ごうぜんと鎮座していたのは、どう見ても、サクサクのパン粉を纏った「チキンカツ」だったのだ。そのカツの上から、申し訳程度に甘酢風のソースと、たっぷりのタルタルソースがこれでもかとぶっかけられている。


 これは……本場の宮崎県民が見たら、その場でちゃぶ台をひっくり返して怒り狂うレベルの歴史的改変ではないか。せめて『チキン南蛮「風」チキンカツカレー』と表記すべきだろう。


(それとなく、この重大なバグを店主に伝えるべきか……?)

 一瞬、正義の心が頭をもたげた。しかし、ここはこれから私が「いつもの」の称号を手に入れ、常連として君臨する予定の聖なる城である。初日からメニューの定義を巡って店主とレスバを展開し、余計な波風を立てるべきではない。


 私は、そっと一口だけ水を含み、喉元まで出かかった異議申し立ての言葉を、冷たい水と一緒に胃の奥底へと力づくで飲み込んだ。


 いいや、いい。細けえことはいいんだ。

 四の五の言わずに、まずは食おう。

 

 カウンターの隅に備え付けられたカトラリーケースから、白銀に輝くスプーンを一本引き抜く。私は、琥珀色のルーをすくい上げ、まずは一口(すす)った。


 ――ッ!!


 鼻腔を鮮烈に突き抜けるスパイスの心地よい刺激。そして、その奥からじわじわと追いかけてくる、果実由来のほんのりとした優しい甘み。

(……美味い)

 これが事前のインスタ情報に引っ張られたプラシーボ効果(思い込み)なのかは定かではないが、私はこの瞬間、確信した。ベースとなるルーがここまで美味いカレー屋は、絶対に「当たり」なのだ。注文ごとに揚げる丁寧な仕事ぶりといい、この城は、私の行きつけの店として君臨するにふさわしい。


 私は、飢えた野獣のようにスプーンを動かした。

 絶妙な硬さに炊き上げられた米のコンディション。フライヤーから上がったばかりのチキンカツは、どこまでも熱々で、驚くほど肉厚だ。そして何より、濃厚なタルタルソース、酸味の効いた甘酢、そして深みのあるカレールーという、本来なら喧嘩しそうな三者が見事な三位一体シナジーを成し遂げていた。


 美味い。チキンカツだろうが何だろうが、美味ければ官軍なのだ。一口食べ進めるごとに、私の五臓六腑が、そして腹の底が、圧倒的な幸福感で満たされていく。

 ものの五分ほどの逢瀬おうせだったろうか。私は一心不乱に、大盛りの『チキン南蛮(風)カツカレー』を胃袋へと流し込み、一気に平らげてみせた。


 極上の満足感に酔いしれながら、私はカウンターの上に、米粒ひとつ残らず「更地」と化した美しい白い皿を持ち上げた。

 カチリ、と皿が置かれる音に反応して、調理場の店主とバチリと目が合う。


「ご馳走様でした。また来ます」

 私は短く、それだけを告げた。


 無骨な店主がほんの少しだけ、お辞儀をしたように見えた。

 私は背筋を伸ばし、大人の余裕を背中に纏いながら、店の暖簾をくぐって夜の商店街へと踏み出した。


 そう。また来るからな、店主くん。

 私の「いつもの」を君が覚えるその日まで、私の静かなるカレー通いは続くのだ――。


 ***



 あれから、一年という月日が流れた。

 私はすっかり肌馴染みの良くなった夜風を肩で切りながら、いつもの商店街を闊歩かっぽしている。目的の城はすぐそこだ。この一年で、もう50回以上は通い詰めたろうか。

 無骨な店主が、時折見せるようになった、ほんの少しだけ下がった目尻。それだけで、私たちが紡いできた時間の長さが証明されていた。


 一週間の過酷な労働の対価にふさわしい、私だけの聖域で極上の体験を。

 吸い込まれるように暖簾をくぐると、耳慣れた無骨な声が私を迎えた。

「いらっしゃいませ」

 これだよ、これ。この実家のような安心感。


 私は財布から、少し皺の入った千円札を二枚投入し、慣れた手つきで『チキン南蛮カレー』と書かれた紙切れへと変える。チャリン、と落ちてきた釣銭の550円を握りしめ、この一年の間にさらに進んだ物価高の波をひしひしと感じつつも、私はその魂の食券をカウンター越しに店主へと手渡した。


 さあ、店主くん。今夜も私たちの「いつもの」を始めようじゃないか。

 食券を受け取った店主は、私の顔をじっと見つめ、静かに口を開いた。


「ご飯の量はどうしますか?」

「……あ、大盛りで」


 通算、約51回目の全く同じやり取りである。

 こいつは驚いた。これほど熱烈に通い詰める私を前にして、この一年、店主の鉄壁のディフェンスはついにただの一度も崩れなかったのだ。彼との会話は、この「ご飯の量の確認」と「揚げ物に時間がかかりますが大丈夫ですか」という業務連絡のみ。まったく、どこまでシャイな男なんだ。


 当初思い描いていた、「いつもの」の一言でカツカレーがスっと出てくるような関係性には、ついに成れなかった。

 しかし、私が毎週この店に通い詰め、愛し続けたことは紛れもない事実だ。私はこの店の椅子の座り心地から、トイレの便器のメーカーにいたるまで、隅々まで知り尽くしている。


 ――行きつけの店が出来て、本当に良かった。

 私は心の底から、文字通り身も心も満たされる最高の空間を手に入れたのだ。……まぁ、相変わらずマッハで完食するので、滞在時間は一回につき十分ほどなのだが。


 幸福な余韻に浸りながらカレーを待つ私の手元で、カウンターに置いたスマホの画面が、不意に冷たい光を放った。

 社内SNSから届いた、一通の業務通知。

 画面を覗き込んだ私の目は、そこに並んだ不穏な文字列に釘付けとなった。


 『【重要】転勤の打診について』

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