歯車
私は、アルバイトの経験がかなり豊富な方だと思う。
理由はシンプルで、若い頃は常にお金に困っており、複数の仕事を掛け持ちするのが当たり前だったからだ。今思えば明らかに肉体の限界を超えた無理な働き方をしていたのだが、当時の私はとにかく生きるために必死だった。
これも、もう十年ほど前の話になる。
当時、私はあるフランチャイズのお弁当屋で「正社員見習い」として研修を受けていた。のちに小さな店舗の責任者(奴隷)へと抜擢されるのだが、この研修期間中は名目上バイト扱いのため、とにかく給料が安かった。知人の家に居候させてもらっていなければ、日々の食費にも困るレベルである。
加えて、当時の私には速やかに返済しなければならない借金もあった。いくら稼ぎが少ないからといって、滞納など許されるはずもない。
追い詰められた私は、ひとつの極端な結論に至る。
「そうか、寝る時間を削って、もう一つバイトをすればいいんだ」
今振り返っても本当に馬鹿な考えだと思う。だが、背に腹は変えられなかった。
お弁当屋のシフトは昼前から夕方まで。ならば、そこから夜勤で働ける何かがあれば、丸一日をフルに稼働させることができる。
私は血眼になって求人情報を漁った。条件は「未経験可」「ママチャリで行ける距離」そして「それなりにまとまった稼ぎになること」――。
そして、見つけてしまった。
地域の幹線道路沿いにある、巨大な食品加工工場。そこが夜勤の製造・加工スタッフを募集していたのだ。深夜手当を含めた時給は、なんと破格の「一三〇〇円」。
当時の私にとって、それはあまりにも輝かしい数字だった。私は何度も何度も電卓を叩き、夜勤に入った場合の月々の収支計算に明け暮れた。むふふ、これなら借金なんて一瞬で返せるじゃないか。
私はすぐさま応募のボタンを押した。直雇用ではなく、いわゆる派遣会社を通した形でのエントリーだった。
応募から数日後、勤務先となる工場近くの駅前で、派遣元の担当者との簡単な面談が行われた。
面談の内容は非常に簡素なもので、「持病はないか」「週に何日くらいシフトに入れるか」といった確認程度。当時はまだ二十代そこそこの健康体だったこともあり、私の稼働開始はトントン拍子でその場で決まった。数日後の夜勤から、いよいよ私の「夜の工場デビュー」である。
私は、電卓の数字通りに懐が潤っていく幸福な妄想に、終始胸を躍らせていた。
そして迎えた、初稼働日の夜。
昼間のお弁当屋のシフトをいつも通りにこなし、合間に少しばかりの仮眠も取った私の肉体は、みなぎる気合に満ちあふれていた。
夜勤の拘束時間は、深夜〇時から翌朝の八時まで。休憩を含めたジャスト八時間の勝負である。
私は意気揚々と、夜の静寂に浮かび上がる巨大な工場内へと足を踏み入れた。
ロビーには、老若男女を問わず驚くほど多くの人が集まっていた。深夜にもかかわらず異様な活気があり、外国人の姿も多く見受けられる。
学校の部室を大きくしたような集団更衣室を抜け、全身真っ白な完全防備の衛生服を身に纏う。髪の毛一本、塵ひとつ落とさないための徹底されたルールだ。仕上げに目の眩むようなエアーシャワーの部屋を通り、全身の埃を吹き飛ばされる。慣れない重装備に戸惑いつつも、私はぞろぞろと移動するベテランたちの集団に混じって、順路の奥へと進んでいった。
メインの加工場の手前では、いかにも現場叩き上げといった風貌の、偉そうなおじさんが点呼を取っていた。スタッフの返事が少しでも小さいと、容赦なく「声が小せえ!」と激昂する。めちゃくちゃ怖い。
私はここで気圧されてなるものかと、腹の底から「はいッ!!」と、自衛隊員ばりの威勢の良い返声をぶちかましてやった。「お、こいつは他の新人とはちょっと違うな」と、初日で一目置かれたかったのだ。
しかし、おじさんは私の顔を見ることすらなく、完全にスルーして次の名前を読み上げた。完全なる一人相撲である。
点呼を終えると、私たちは列をなして、ひんやりとした空気が漂う広大な加工場へと入場していく。
入り口付近に立つ社員が、コンベアの前に並ぶスタッフたちを、機械的に各ポジションへと割り振っていく。
「君は三番。君は五番、そっちは七番……」
さながら、ベルトコンベアという名の巨大な歯車に、それぞれのパーツが嵌め込まれていくような光景だった。
列が徐々に進み、ついに私の番が来る。
私が冷徹な社員によってカチリとはめ込まれた、そのポジションについて説明しよう。
まず、大量のキャベツがベルトコンベアに乗って流れてくる。
それを掴んで切れ目を入れる人がいる。隣には、切れ目の入ったキャベツを豪快に引き裂く人がいる。その先には、裂かれたキャベツの芯を神速でくり抜く人がいる。そうして細かくカットされたキャベツは、下からライトで照らされた通称「光るコンベア」へと流され、そこでは異物が混じっていないかを鋭い眼光でチェックする検品担当の人が待ち受けている。――そうして、キャベツは次の加工工程へと進んでいくのだ。
この完璧にシステム化されたキャベツ・ロードにおいて、私に与えられた任務は何か。
それは、「光るコンベア」の手前に立ち、検品担当の人がチェックしやすいように、流れてくるキャベツの山をただひたすらに、薄く、平らに広げるという役目だった。
時間は、あと七時間。
姿勢は常に中腰。右手をまるで車のワイパーのごとく左右に往復させ、ただただ、無心でキャベツを広げ続ける。それだけの作業である。
……えっと、開始三十分で、めちゃくちゃ辛いです。
肉体的な疲労もさることながら、流れる緑色の物体を凝視し続けることで精神がゲシュタルト崩壊を起こし始めていた。しかし、地獄はそれだけではなかった。
私の目の前には、同じ「ワイパー職人」として対面に配置された同僚がいるのだが、それが外国人の若い女の子だった。
ふと視線をやると、彼女は普通に立ったまま熟睡していた。
おい! 起きろ! 寝るな!
彼女が睡眠モードに入った瞬間、対面から流れてくるキャベツの処理がすべてこちらに雪崩れ込んでくる。私のワイパーの稼働範囲が、強制的に倍に跳ね上がるのだ。腕がもげる。
見かねた隣のベテランおばちゃんが、「こら、寝ちゃダメよ!」と彼女の肩を激しく揺すって叩き起こす。ハッと目を覚ました女の子は、申し訳なさそうに手を動かし始める……のだが、ものの数分もしないうちに、コク、コクと船を漕ぎ出し、すぐにまた深い眠りへと落ちやがるのだ。
頼むから起きてくれ。おばちゃん、もっと強く揺すってくれ。
私は、睡魔という名の怪異と戦う対面の少女を睨みつけながら、ただ狂ったように右手を往復させ、深夜のキャベツの海で溺れかけていた。
その不毛なワイパー作業を、およそ二時間ほど続けた頃だったろうか。
時計の針は二時間しか進んでいなかったが、私の体感ではすでに三日くらいキャベツを広げ続けていた。
その時、私の下半身に、何やらムズムズとした不快な感覚が押し寄せてきた。
加工場を覆う容赦のない冷気に数時間さらされ続けた私の肉体が、ついに限界を迎えたのだ。そう、尿意である。
(……トイレ、行っていいのだろうか?)
コンベアのスピードは落ちない。今ここで私が戦線を離脱すれば、対面で爆睡を繰り返している外国人のお嬢ちゃんが、このキャベツの荒波を一人で制御できるとは到底思えなかった。一瞬で防衛ラインが崩壊し、検品レーンに緑の山が雪崩れ込む。
私は内股になり、くねくねと気持ちの悪い動きで腰をくねらせ、その場で小刻みなステップを踏みながら必死に耐え抜いた。かつて鏡の前で磨き上げたあのヒゲダンスのステップが、まさかこんな生死の境目で活きることになるとは思わなかった。
――いや、無理だ。これ以上は決壊する。
私はプライドを捨て、近くにいた鋭い眼光の社員に向けて懇願した。
「すみません! トイレに行かせてください……!!」
漏れ出る水分を抑え込むため、なんとも情けない裏返った声だったと思う。そして案の定、周囲に響き渡る声でめちゃくちゃ怒鳴られた。
「早く行ってすぐ戻ってこい!!」
背中に飛んできた怒声を防波堤にして、私は加工場を脱出。必死の形相で更衣室を抜け、休憩室の横にあるトイレへと滑り込んだ。
冷え切った身体から、すべての水分が解き放たれていく。生きた心地がした。
再び全身真っ白な衛生服をその身に纏い、厳重なエアーシャワーを経て、私は清潔な肉体となって持ち場へと戻った。
そこで私は、信じられない光景を目にする。
私が抜けた穴を埋めていたのは、あの点呼の時に大声を荒げていた高圧的なおじさんだった。おじさんは、ものすごい速度で右手を往復させ、押し寄せるキャベツを神速で捌き切っていた。そのワイパースピード、まさに残像。
(あのおじさん、もしやこのワイパー一本でここまで成り上がったのでは……?)
そんな職人技に気圧されつつ、私は「すみません、ありがとうございました」と縮こまりながら元の配置へと戻った。
だが、安息の時間は長くは続かなかった。
戦線に復帰して、わずか数十分後のことである。
私の下半身が、再び、あの懐かしいムズムズ感を検知した。
私は……またしても、催してしまったのだ。
極限状態に追い込まれた私の脳内に、人生最悪の二択がよぎる。
プライドをすべて捨てて土下座でも何でもし、再びあの怖い社員に怒鳴られながらトイレへ駆け込むか。――あるいは、このコンベアの前で、すべてを解き放って尊厳を失うか。
もはや人間の尊厳などどうでもよかった。どのみち私は、初日の職場でキャベツ相手にゲシュタルト崩壊を起こし、周囲に怒声を浴びせられる哀れな迷い子羊なのだ。全身真っ白な衛生服を身に纏っているせいで、なおさら自分が惨めな家畜のように思えてくる。
完全に諦め(悟り)の境地に達した私は、ワイパーの手を止め、涙目で近くの社員を見つめてそっと手を挙げた。
「あの……すみません、トイレ、行ってもいいですか……」
今度はどんな大声で怒鳴られるのだろう。私は首をすくめて身構えた。
しかし、社員は怒鳴るどころか、驚くほど落ち着いた、氷のように冷ややかなトーンでこう言った。
「あ、君。もう帰っていいよ」
「……ひゃい」
それは、怒りではなく、完全なる「戦力外通告」だった。
高圧的なおじさんが残像を残しながら高速ワイパーを繰り出すようなプロの戦場において、一時間に二回も尿意で戦線を離脱するような足手まといは、一瞬で切り捨てられる運命なのだ。
こうして、私の華々しい夜勤の加工派遣バイトは、朝を迎えることなく、わずか数時間であっけなく終わりを迎えた。
トボトボと夜道をママチャリで帰り、翌朝、私はすぐに派遣元の担当者へ連絡を入れた。そして平謝りしながら、加工工場の稼働を未来永劫、停止してもらった。
電卓を叩いて「むふふ」とほくそ笑んでいたあの輝かしい深夜手当は、私の脆弱な膀胱の手によって、キャベツの海へと静かに溶けて消えていったのである。




