初体験
これは、私の「初体験」の話である。
あらかじめ断っておくが、そっちの下の話ではない。どちらかといえば、遥か上空の話だ。
私が二十代中盤の頃。
当時、私は大阪のカラオケ店にフリーターとして人生を捧げていた。時給は一〇五〇円ほどだったと思う。抱えていた借金を返済するため、毎日十時間以上の過酷な労働に勤しむ日々を送っていた。
チェーン店とはいえ規模の小さな店舗で、必要最低限の人数で回すワンオペ気味の構成。現場の責任者は私と、都会の店舗から異動してきたばかりの「Kちゃん」。それとアルバイトの女の子が数人。
このKちゃんと私はとにかく波長が合った。互いに言葉を交わさずとも、阿吽の呼吸で怒涛の業務を捌いていける。まさに一心同体。長年連れ添ったお笑いコンビの相方ばりに相性が良かったのだ。
シフトが重なれば、自然とプライベートな話もするようになる。くだらない恋愛の悩みや、近所のまずい飯屋の情報。そんな他愛のない雑談を交わすうち、私は「Kちゃんと一緒にどこかへ遊びに行きたいな」と自然に思うようになっていた。
しかし、それは物理的に不可能な願いだった。
なぜなら、私とKちゃんは「互いの休みを回し合う」という関係性であり、常にどちらかが店舗を守っていなければならない、噛み合って離れない歯車のような状態だったからだ。
「いつか一緒に遊びに行きたいよね」というのは、もはや二人の間で定番の切ないジョークと化していた。
だが、そんな私たちに最大の転機が訪れる。
――コロナ禍である。
言うまでもなく、カラオケ業界は大打撃を受けた。「蔓延防止等重点措置」、通称“まん防”の発令によって、私たちの店舗も休業へと追い込まれた。
最初のうちは大人しく真面目に自宅自粛を決め込んでいたのだが、一年の間に何度も休業と再開を繰り返すうち、感染者数の減少の波を見計らって、私はある決意を固める。
(しっかり感染対策をしたうえでなら、これ、Kちゃんと遊びに行く千載一遇のチャンスでは……?)
ぶっちゃけ、めちゃくちゃ暇だったというのもある。
私はすぐにKちゃんにLINEを送った。「最初で最後のチャンスだから、遊びに行こう」と。
快諾を得た私たちは、さっそく行き先の検討に入った。当然、密閉された空間は避けるべきだ。互いの家を行き来するのも時期的に気を遣う。ならば、広大で、かつ感染対策が徹底されている屋外の場所がいいのでは? となり、浮上したのが『ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)』だった。
聞けば、Kちゃんは学生時代に年間パスポートを所有し、毎日のようにパークに通い詰めていたという、自他ともに認める「PRO USJer」だった。
「だったら私が全部案内してあげるよ!」と、彼女はノリノリで胸を叩いてくれた。
しかし、ここで私は、一つの重大な疑問にぶち当たることになる。
実は――私はそれまでの人生で、一度も「遊園地」という場所に行ったことがなかったのだ。
これまで乗ったことのある移動手段は、車と電車のみ。それ以外の「重力に抗うタイプの乗り物」に、私はただの一度も乗った経験がない。
はたして自分は、あの狂気じみた絶叫マシーンとやらに耐えられる身体なのだろうか?
脳内で自問自答を繰り返したが、導き出された答えはひとつ。「乗ってみないと解らない」だった。
「本当に絶叫系、大丈夫?」とプロの視点から本気で心配するKちゃんに対し、私は「乗ってから確認するわ」という、我ながら訳の分からない回答を返した。
混雑緩和のため、あえて平日のスケジュールを選んだ。
西九条駅で乗り換え、これまで我が人生において全く無縁だったJRゆめ咲線に揺られること数分。車窓の向こうに、かつて遠い憧憬を抱いていた異国情緒あふれる世界が、突如として姿を現した。
こ、ここが、噂に聞く遊園地……!
だが、違った。まだ改札を出たばかりだというのに、ユニバーサルシティ駅のホームからは、すでに圧倒的な非日常感が漂っていた。同じエンターテイメント業界の端くれで働きながらも、ただただ気圧されるほどの徹底された空間づくり。この時、私の胸中では、得体の知れない不安よりも純粋な好奇心が完全に勝利を収めていた。
テンションの上がった私たちは、開園前のゲートをくぐるや否やショップへと直行し、スヌーピーの被り物を買い求めて頭に装備した。手の部分を握ると、無駄に耳がピコピコと動くやつだ。三十路手前のフリーター二人がスヌーピーの耳を羽ばたかせている。テンションは最高潮だった。
そして何より、コロナ禍の奇跡か、パーク内には驚くほど人が少なかった。毎日通っていたプロであるKちゃんをして「こんなの見たことない」と言わしめるほどの異常事態。
「今のうちにどんどん行くよ!」と手を引かれ、私たちは最初の目的地へと到達した。
プロいわく、絶叫レベル1。――『ジュラシック・パーク・ザ・ライド』。
大型のボートに乗り込み、熱帯のジャングルを進みながら、機械仕掛けのリアルな恐竜たちのフィギュアを眺めるアトラクションだという。
(フン。所詮は作り物ね……)
私は心の中で余裕の笑みを浮かべていた。
ボートに乗り込み、水路をカタカタと揺られながら進む。スピーカーからは、不穏なトラブル発生を知らせる演出のアナウンスが流れていた。
(はいはい、こういう演出ね。お約束お約束)
事前情報は皆無だったが、高を括っていた。どれほど凶暴なティラノサウルスが出てこようとも、相手がハリボテの造形物であるならば、恐怖を感じる理由などどこにもない。
そう――本気でそう思っていたのだ。
ボートが、なぜか上方向へと激しく傾斜し始めた。水路を離れたレールが、重々しい金属音を響かせながら、暗闇に包まれた急斜面の坂をじわじわと登っていく。
……あれ? なんか、めちゃくちゃ登ってない?
隣で楽しそうに目を輝かせているKちゃんを横目に、私の胃のあたりには、未だかつて経験したことのない「内臓がじわじわと浮き上がってくるような不思議な感覚」が込み上げていた。
そして、ボートは長い上り坂の頂上へと到達する。
目の前が、一気に開けた。
直後、世界が反転した。
重力から完全に切り離された、未知の角度と未知の速度による急降下。
私は、人生で一度も出したことのない、情けないほどに擦り切れた絶叫を、五臓六腑から絞り出していた。
「あああああああああああ!!!!」
このまま地面に激突して死ぬ! と確信した矢先、ボートは轟音とともに水面へと勢いよく突っ込み、激しい水飛沫をあげてようやく静止した。
心臓が、文字通り口から飛び出しかけていた。ビショビショに濡れたスヌーピーの耳が、心なしか悲しげに垂れ下がっている。
二十何年間か生きてきて、私はこの瞬間、ひとつの確固たる真実に直感で行き着いた。
(あ、私、この手の乗り物、絶対にダメな人間だ……)
しかし、私の脳細胞が導き出したその賢明な結論は、隣にいるプロの無慈悲な笑顔によって、一瞬で木っ端微塵に打ち砕かれることになる。
「すごかったねー! じゃあ、次はあっちに乗ろう!」
満面の笑みを浮かべたKちゃんが指差した先。
そこには、空を切り裂くようにして優雅に、そして凶悪にのたうち回る、白銀の巨大なレールがそびえ立っていた。
――『ハリウッド・ドリーム・ザ・ライド』。




