執筆ルーチン
執筆とは、完全なる孤独な戦いである。
並走してくれる担当編集者がついているプロの作家ならまだしも、私のようにただインターネットの海へ粛々と駄文を羅列するだけの素人は、企画・構想から実際の執筆、そして終わりのない反省会に至るまで。文字通りすべてを一人きりでこなさなければならない。これは、世のすべての「書き手」の方々なら間違いなく深く共感してくれるに違いない。むしろ、この環境で精神を正常に保っていられる人間がいるのだとすれば、そいつの方がどうかしている。
どれほど自信満々で書き始めた作品であっても、執筆の途中でふと「……あれ、これ本当に面白いのか?」と猛烈な迷走と不安に襲われるのは、もはや毎度お馴染みの風物詩だ。
今回は、そんな孤独な戦場に身を置く私の、至高の執筆ルーティンを紹介しよう。
——朝三時、起床。
深刻な不眠症を抱えている私は、ベッドの中でほとんど眠ることもできないまま、静寂に包まれたこの時間から動き出す。すぐに愛用のパソコンへ向かい、オーディオの電源を入れる。選曲は落ち着いたクラシックだ。やはり、芸術を紡ぐ時間には、芸術の調べが最も相性が良い。
頭が冴えてきたところで、朝食の準備だ。じっくりと焼き上げた天然酵母のパンに、丁寧にハンドドリップした、熱々でコクの深いブラックコーヒー。
私の物語は、これがないと始まらないのだ。
——嘘である。
いや、朝三時に起きているのだけは悲しいかな事実なのだが、現実はこうだ。
寝起き一番、ゾンビのような足取りで冷蔵庫へ向かい、脳髄にエナジードリンクをガツンとぶち込む。朝食はチンするだけの冷たいパックご飯。そして部屋に鳴り響くBGMは、十年前の、私が最もオタクとして輝いていたあの頃のアニソンをフルリピートである。
すまない。あまりにも孤独な戦いなもので、つい見栄を張ってカッコつけてしまった。
十八番のアニソンで適当にテンションさえ上がれば、それで私の執筆体制は完全に整う。
エナドリとパックご飯で腹を満たした私が最初に行うのは、自分が現在進行形で作品を投稿している小説サイトの一通りに渡る巡回だ。そして、「……よし、今日も1ポイントも増えていないな」と静かに落胆する。これもお馴染みのルーティンだ。読者からの評価が付かないのは、ひとえに自分の実力がまだ伴っていない証拠である。いたし方ない、と即座に割り切ってキーボードへ指を置く。
早朝五時くらいまでの静寂は、私にとって執筆のゴールデンタイムだ。ゾーンに入ってノッている時は、この時間帯だけで一気に三千字程度を叩き出すことができる。もちろん、これは推敲を一切挟まない、熱量だけで突っ走った「勢いバージョン」の原稿だ。
そうしてある程度まとまった分量を書くことができたら、一旦その原稿を「寝かせる」のが本多流である。深夜のテンションや勢いだけで書き殴ったものほど、翌日の昼間に読み返してみれば「……待て、こいつは一体なにを言っているんだ?」と、我ながら戦慄するほど冷静に我に返る場合が多いからだ。私はこの手痛い教訓に基づき、執筆のあとは必ず、過去の原稿の推敲と次話以降のプロット作成に時間を充てるようにしている。
思い返せば、昔の私はプロットの「パ」の字も知らなかった。
事前の設計図など一切作らず、すべて自分の頭の中だけで話を整理し、行き当たりばったりで物語を紡いでいたのだ。世の中には、プロットレスでいきなり書き始めても完璧な傑作を生み出せる、天才という名の「化け物級の作家」が存在する。当時の私は、あろうことか「自分もそっち側の人間だ」と信じて疑わなかったのだ。ああ、恥ずかしい。過去に戻ってその顔面を殴り飛ばしてやりたい。
まともな設計図がないまま突っ走る物語は、いずれ必ず致命的な破綻を迎える。そうして私の迷走の末、文字通り「空中分解して崩壊していった世界」が、過去に一体いくつあっただろうか。
今の私は深く反省している。自分は天才などではなく、ただの地道な「凡人」なのだと日々言い聞かせ、どれほど面倒でも、箇条書きのメモ程度から全体のプロットを必ず作成するようになった。
筆が進むときはプロットがちゃんと機能している証拠であり、逆にどうしても書けないときは、高確率でプロットのどこかに致命的なバグや無理が生じている。そういう時は意地を張って書き進めず、一度立ち止まってプロットの練り直しというスタート地点へ戻る勇気が持てるようになった。
誰からも督促されず、いつ止めても誰にも怒られない、締め切りのないアマチュアの書き手だからこそ。
物語の神様に対してだけは、絶対に妥協してはいけないのだと、私は日々キーボードを叩きながらひっそりと強く思うのである。
朝六時を回れば、ここからはお待ちかねの「朝活タイム」である。
およそ三キロの軽快なランニングと丁寧なストレッチで心地よい汗を流し、昇りゆく朝日を背に浴びながら、今日という一日を全力で乗り切るために己の肉体と精神を極限まで鼓舞するのだ。
――嘘である。
一丁前にブランドもののランニングシューズは買い揃えたが、箱から出されたそれは今日に至るまで一度も地面を踏んだことはない。新品特有の匂いを放ったまま、玄関の片隅で静かに息を引き取っている。言い訳をさせてもらえるなら、「そういう有意義な朝を過ごしてみたい」という、三十代の淡い希望と憧れだけは人一倍持ち合わせているのだ。許してほしい。
実際の朝六時は、二度寝を決め込むか、あるいは読書に没頭しているかの二択である。
私はだいたい、月に五冊から十冊ほどの小説をコンスタントに読んでいるのだが、一度面白い作品に出会ってしまうとページをめくる手が止まらなくなる。さらに最近は、通院で処方されている薬の副作用のせいか、朝方にどうしても強い眠気が残ってしまい、結局は家を出る限界ギリギリの引き揚げ時間まで泥のように眠りこけているのがリアルな体たらくだ。度重なる盛り癖を、ここに深くお詫び申し上げたい。
仕事のある日は、貴重な休憩時間を使ってせっせとこのエッセイの執筆に励み、帰宅後は自室でプロットの作成か、あるいは読書に更ける。こうして一日のタイムラインを冷静に振り返ってみると、私は「書き手」としてキーボードを叩いている時間よりも、圧倒的に「読み手」として他者の世界に没入している時間の方が遥かに長いことに気づく。
しかしながら、この膨大な読書体験から得た無数の感情や言葉のシャワーこそが、めぐりめぐって私の脳内から紡がれていく新しい物語の、最も濃厚な糧となっているのだろう。
そう信じれば、私の二度寝も、進まないシューズの慣らし運転も、すべては創作のための崇高なインプットと言えなくもない。
——思えば、かつて私の人生において、何かの手違いで「虫を食んだ」あの異次元の経験すらも、きっと今後の作家活動において、何らかの形で怪しく活かされていくに違いないのだから。
ちなみに、休日であっても私のルーティンは基本的に何も変わらない。
日中は創作関連の作業に充てていることもあれば、ただただ貪るように読書に耽ったり、気になっていた映画を観たりして過ごしている。「せっかくの休日なのだから、普段より執筆量が劇的に増えるのではないか」などという、天変地異レベルの奇跡が起きることは万に一つもない。私の貧弱な執筆キャパシティは、平日仕事をしている時点ですでに満身創痍なのだ。
であれば、無理にキーボードを叩いて脳を枯渇させるよりも、映画や本から新たなインプットを最大限に補給する方が、長期的に見て圧倒的に効率的かつ建設的と言えるだろう。……そう、すべては素晴らしい物語を生み出すための、崇高な戦略的撤退なのだ。
今回は私の「主にダメな方の見本」として、飾り気のないリアルな執筆ルーティンをご紹介した。
エナドリを胃袋に流し込み、十年前のアニソンを爆音でリピートしながら、パックご飯片手にプロットのバグと格闘する——そんな泥臭い日々の中に、私の物語のすべてが詰まっている。
もし、私のこの拙い文章を読んでくださっている読者の中にも、同じように孤独な戦場に身を置く「書き手」の方がいらっしゃれば、ぜひ、あなたなりのサバイバル・ルーティンを教えていただきたい。
他の誰かがどんな燃料を脳内に注ぎ込み、どんな音楽を背に浴びて自分の世界を紡いでいるのか。
それをおかずに、私はまた次の休日の、至高の「二度寝とインプット」を楽しもうと思う。




