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続・呼吸

 さて、怒濤(どとう)の検査スタンプラリーを見事にコンプリートした私は、再び呼吸器内科の待合室へと戻ってきていた。さすがに時計の針が昼過ぎを回ったことで、午前中のあの狂気的な人の波はすっかりと落ち着き、静けさを取り戻している。あれだけ狭い空間にひしめき合っていた民たちは、一体どこへ消えてしまったのだろうか。まるでゴーストタウンだ。


 長すぎる待ち時間の暇つぶしにスマホを操作していると、画面の上部にひとつの通知が滑り込んできた。上司からの社内SNSである。私はさきほどの検査の直前、一連の事態を会社に報告し、「早急に三連休を取得したい」旨をメッセージで送っていたのだ。

『問題ないです。お大事に』

 実にあっさりと、簡潔な返答だった。この業務連絡の承認をフラグとして、私の『ドキドキ検査入院体験ツアー』の開催が、正式に確定した瞬間であった。


 ――それから、だいたい二週間後くらいのことだったと記憶している。

 私は病院から指定された最低限の入院セット(パジャマや歯ブラシの詰め合わせ)を腕に抱え、再びあの城砦の入院受付の前に立っていた。いくつかの書類にサインをし、事務手続きを終えると、私は案内係の手によってあっという間にこれから数日間を過ごす病室へと連行されたのだった。

 割り当てられたのは、四人部屋の最奥。窓からは大都会の喧騒を文字通り一望できる、ロケーション最高の特等席であった。


 しかし、カーテンの隙間から周囲の様子を(うかが)うと、どうやら他の病床の住人たちはみな人生の大先輩――それも、かなりガチの闘病中とおぼしき高齢者の方々のようだった。あちこちから、苦しそうに小さく唸る声が途切れ途切れに響いてくる。

 そんな厳粛な空間のなか、見た目だけは無駄にピンピンしているアラサーが一人、カバンを傍らに置いてベッドにちょこんと腰掛けているのだ。

 ……なんだか、私だけすこぶる元気で、本当にすまん。


 (くだん)の気管支鏡検査は、二日目の午前中に予定されている。つまり、一日目である今日のスケジュールは、午後にいくつかの定型的な検査をサクッと済ませるのみで、残りの時間はすべて自由時間という名の一大モラトリアムなのだ。

 しかしながら、四人部屋のベッドの上で迎える自由時間というのは、これが恐ろしいほどに退屈だった。当時はまだ今のように小説の執筆に(ふけ)っていたわけでもなく、これといって熱心に追いかけているアニメやドラマのストックもない。

 周囲の唸り声に配慮して完全に消音設定にしたスマホを握りしめ、私はYouTubeの字幕多めな動画を、網膜が干からびるほどひたすら見漁ることでどうにか正気を保っていた。

 そんな娯楽が絶滅した極限環境において、唯一にして最大のひそかな楽しみとなるのが、やはり入院食である。

 大昔に扁桃腺の手術で入院した際、術後の痛みで食欲など皆無のはずだったのに、出された病院食の鶏肉が美味しすぎてペロリと完食し、看護師たちを仰天させるほどの超回復を遂げた実績が私にはある。

 そう、この退屈な白い部屋において、食こそが最大のエンターテインメントなのだ。


 ありがたいことに、特に食事制限のない元気な入院患者には、栄養バランスが完璧に計算されたnoshを彷彿とさせる、実においしい現代的なメニューが提供された。味に関しては大満足である。……まぁ、王の胃袋を満たすにはいささかボリュームが少なすぎたが、そこは入院中につき致し方あるまい。


 そんなこんなで、文字通り食うかスマホを見るかだけで時間を潰し、夜の静寂を乗り越え――あっという間に、運命の二日目の朝がやってきた。

 さあ、いよいよ本番。私の肺の正体を暴く、『気管支鏡検査』の幕開けである。


 決戦の当日の朝を迎えても、私の心は比較的落ち着いていた。なぜならば、この私は過去に数回、あの悪名高き胃カメラの修羅場を経験しているからだ。いずれの検査も、私の記憶にあるのは室内のベッドに寝そべるところまで。その後は強力な全身麻酔の恩恵によって、文字通り泥のように眠っている間にすべてがあっけなく終了していたのだ。

 今回調べる対象が胃から肺へと変わったところで、結局のところ、カメラを挿入する入り口は同じなのだ。多少の疲労感はあるにせよ、まぁ似たようなものだろう。たかを括っていた。

 ――言うまでもなく、これは完璧なフラグであった。


 やがて、主治医のケンちゃん先生が、朝特有のどこかダウナーな雰囲気を全身から纏って現れた。「おはよー」と実にあっさりと挨拶を済ませると、彼は私を無機質な検査室の奥へと手招く。

「はーい、じゃあ今から喉の麻酔するからねー」

 ケンちゃん先生はそう言って、小さな紙コップを私に差し出してきた。底の方に、怪しげな無色の液体が少しだけ溜まっている。先生の指示はこうだ。「これで喉の奥をしっかりうがいして」

(……うがい? 眠らせてから勝手にやってくれるんじゃないの?)

 このあたりから、私の心臓の鼓動がじわじわと速くなり、嫌な予感が急激に膨れ上がっていく。あれ、これ、もしかして全身麻酔じゃないお。

 戸惑う私の喉元へ、さらに追い打ちをかけるようにスプレー状の麻酔が何度も容赦なく吹き付けられていく。

 シュッ、シュッ、と冷たい霧が直撃するたびに、私の喉は急速に感覚を失っていった。自分の唾液すらまともに飲み込むことができなくなり、生命維持の基本バグを起こした脳は激しい不快感とストレスで一気に混乱を極める。


 なす術もないまま、私はまるで今からシェフに美味しく調理される高級食材の如く、冷たい検査台の上へと仰臥の姿勢で並べられた。

 ちょっと待ってくれ。嘘だろ。

 これ、まさか、完全に意識がハッキリした状態のまま、あの極太のカメラを喉の奥にブチ込まれるスタイルなのか――!?

 完全なる無抵抗のまま、私の動悸だけが激しく(たか)っていく。そんな私のパニックをよそに、ケンちゃん先生はほぼ無表情のまま、マシーンのように淡々と準備を進めていく。やがて、仰々しいプラスチック製のマウスピースのような器具によって、私の口腔はガチリと強制的に固定された。


「はーい、じゃあカメラ入れますからねー」


 お、おい! 待て! まだ心の準備が、1ミリも――っ!

 私の魂の絶叫も空しく、喉の奥へと最悪な不快感の塊がヌルリと侵入してきた。ぐっ、ぐっと、それは確実に、そして容赦なく私の身体の中心へと向かって進んでいく。

 感覚の消えた喉元で溺れそうになる飲み込めない唾液、そして己の五臓六腑をダイレクトに蹂躙していく未知の違和感――。恐怖と不快感のメーターが限界を突破したその瞬間、私の脳はある天才的な決断を下した。


 ――私は、静かに気絶したのだ。


 医療の力に頼らない、防衛本能100%による奇跡のセルフ全身麻酔の完成である。

 その後、ケンちゃん先生の「はーい、終わりねー」という、相変わらずのはにかむようなダウナー声によって私が正気を取り戻すまで、本当に、一切の記憶が文字通り丸ごと吹っ飛んでいるのである。

 素晴らしい。フハハ、やりゃあできるじゃねえか、私の脳よ。


 艱難(かんなん)(なんじ)(たま)にす。――私はあの極限の窮地において、ついに特殊能力に目覚めたのかもしれない。こうして、今回の入院における最大の難関であった気管支鏡検査を、私は奇跡のノーダメージで乗り越えたのであった。

 以降の入院生活は、検査の後遺症による絶妙な肺の痛みに耐えつつも、ただひたすら入院食だけを生きがいに満喫した。皆が期待するような、深夜の病棟を徘徊する謎の影だとか、他の患者との複雑な人間関係ドラマなんてものは一切起こらなかった。いや、起こらなくていいのだ。退屈こそが平和の証なのだから。


 ――そして、入院から一週間後。私は再びあの城砦のような総合病院を訪れていた。

 診察室の前に座る私の脳内では、例のシミュレーションが始まっていた。

(よし、告知されたら100点満点のリアクションで『ガーン』って言うぞ、絶対に言うぞ……)

 最悪の事態に備えて、せめて表情一つ変えずにボソッと面白い返しができればいい。そうやって不謹慎なユーモアで防衛線を張っていなければ、本当に気が気でなかったのだ。


 静かに扉が開き、あのケンちゃん先生が相変わらずの神妙な面持ちで口を開いた。

「本多さんね、これ――『サルコイドーシス』です」


(……サル? サル何だって?)


 私の口から飛び出しかけた「ガーン」の言葉は、未知の単語の前に虚空へと消えた。

 サルコイドーシス。それは、全身の様々な臓器に肉芽腫(にくげしゅ)と呼ばれる特有の腫瘍ができる病気らしい。現代の医学でも未だ発症の原因は解明されておらず、国が「指定難病」に定めている疾病(しっぺい)なのだという。


 果たして、これは手放しで安心していい結果なのだろうか。私には全く分からなかった。

 最悪のシナリオであった悪性腫瘍ではなかったことは間違いない。しかし、代わりに私の人生のカルテへ刻まれたのは、まさかの難病宣告だったのだ。


「今は肺に腫瘍がある状態なんだけど、これが他の場所に転移する可能性もあるのね。目とか、皮膚とか、あとは心臓とか。もし心臓に腫瘍ができちゃって、心臓を動かす電気信号を遮断されたら――最悪、死んじゃうからさ」

 軽く言うな。私のたった一つの命だぞ。


 このライトで恐ろしいケンちゃん先生の宣告を皮切りに、私はその後、およそ二年間にも及ぶ定期検診を重ねることとなる。

 幸いなことに、私の肺の腫瘍はそれ以上大きくなる気配を見せなかった。最終的には、病気自体は抱えたまま、今後はもし身体に異変があれば「すぐに受診するように」という忠告だけで、実質的な経過観察は終了したのだった。

 まさか、その緊迫した二年間の定期検診の裏で、私が毎週のようにあのライス大盛りのボリューミーなカレー屋に通い詰め、医者の知らないところで完全に胃袋を肥大化させていたとは、ケンちゃん先生も夢にも思うまい。


 ――というわけで。

 自分の身体がいつどこで異常を発生させているかは、本人にも全く分からないものである。みなさんも、年に一回は必ず健康診断を受けることを、私はここに強くお勧めする。

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