呼吸
『――肺に異常が見受けられますので、できるだけ早急に、総合病院などの専門医療機関を受診してください』
スマートフォンのスピーカーから漏れる相手の声は、どこまでも神妙なトーンを維持したまま、淡々と冷徹な事実を告げていた。所詮、事務的に診断結果をさばく彼らにとっては、一日に何十件とこなすルーティン作業のひとつに過ぎないのだろう。
しかし、その宣告をダイレクトに脳天へ受けた側――この私は、電話口では「あ、はい……分かりました」と平静を装いつつも、内心ではひどく取り乱していた。
およそ十年近くに及ぶフリーター生活にようやく終止符を打ち、晴れて正社員として雇用されてから、まだ間もない頃。会社の手厚い福利厚生の一環として、初めて健康診断を受診したのだった。その結果が紙で郵送されてくるより前に、わざわざ本人の携帯へ直接連絡を入れてくるほどの緊急事態。どうやら、肺のレントゲン写真に見過ごせない「影」が写っているとのことだった。
(影……? 嘘だろ、大病じゃん。終わった。私、死ぬのだろうか)
そう自覚した瞬間から、なんだか本当に胸のあたりが息苦しい気さえしてくる。人間、現金なものだ。思い返せば、これまでの長年の不摂生極まりない自堕落な生活が、ここにきて一気に祟ったのだろう。これもまた甘んじて受け入れるしかない、変えられぬ運命というやつか。
よりによって、貴重な昼休憩の最中にそんな人類滅亡レベルの凶報を受けてしまったものだから、案の定、私は午後からの仕事にまったく集中できなかった。PC業務を試みるも、指先が震えて誤字を量産し続けたため、早々に業務を諦めた。
それだけではない。日々の密かな楽しみである「トイレの姿見の前に立ち、野生のミーアキャットの警戒姿勢を完コピする練習」にさえ、今日はどうしても身が入らないのだ。
いつもならキリッと周囲を警戒するはずのその場所で、独り寂しく腰を捻り、情けないポーズをとっている鏡の中の鏡像は、光を失ったどこか虚ろな目で、ただじっと私を見つめ返しているウォンバットだった。
翌週の休日。
私は朝イチの張り詰めた空気の中、地域の呼吸器内科クリニックを受診した。健康診断で『肺に影がある』と言われた旨を震える声で告げ、改めてレントゲンを撮影する。
不安で胸が押し潰されそうになりながら過ごした、さらに翌週。運命の結果を聞きに行くと、医師の口から出たのは残酷な現実だった。やはり、私の肺にはしっかりと『影』が写っているとのことだった。
「うちではこれ以上の判別がつきません。市内の総合病院へ紹介状を書きますので、そちらでさらに詳しい精密検査を受けてください」
目の前の医師もまた、こちらの不安を増幅させるような、1ミリの余裕も感じられない神妙な面持ちで告げる。その深刻なトーンに、私はさらなる焦燥感の底へと突き落とされていった。
数日後、私はついに伝家の宝刀である「有給休暇」を行使し、紹介された総合病院へと向かった。
慣れない大都会の喧騒と、容赦ない人の波に揉まれながらようやく辿り着いたそこは、病床数五百を超える超巨大病院だった。――さながら白亜の城砦。きっとこの病院のトップである院長は、最上階の天守閣に住まいを構え、下界を見下ろしているに違いない。
紹介状専用の物々しい受付で事の次第を告げると、そのまま呼吸器内科のフロアへと案内された。
まだ午前中の早い時間帯に訪れたにもかかわらず、そこはすでに人でごった返す狂気の待合室と化していた。標準の椅子だけでは到底足りず、廊下にまでズラリと長椅子が急造されている始末である。
そこで私を待ち受けていたのは、特大の待ち時間――いや、死刑宣告を前にした、あまりにも残酷な『焦らしプレイ』であった。
実際に医師による診察室へと呼び出されるまで、たっぷり小一時間は待機させられた。いつ自分の名前が呼ばれるかまったく予測がつかない、まさにブラックボックスのような待合室で、私は巨大モニターに延々と流れる提携病院の案内と、何の根拠もない今日の星座占いを、虚無の目でおよそ二十周ほどループして見つめ続けていた。私の天秤座の運勢は、何度画面が切り替わっても最下位のままだった。
そうしてようやく、呼吸器の専門医と対面する。
……まだ若い。おそらく研修医を終えたばかりの、三十代前半といったところだろうか。いかにも親しみやすい雰囲気を醸し出しており、どこか少年っぽさを残した印象を受ける。心の中で、彼を『ケンちゃん先生』と名付けた。
ケンちゃん先生は、事前に紹介状やレントゲン写真に目を通していたようで、パーテーションの向こうから、はにかみながら開口一番にこう言い放った。
「悪いんだけど、うちでもう一回諸々の検査ね。それとさ、気管支鏡検査もしておきたいんだけど、二、三日入院できる日ってある?」
(――にゅういん?)
彼はあまりにも爽やかに、真顔でとんでもないことを言ってのけた。ちょっと待ってくれ、普通の会社員は週休二日制なのだぞ!? 簡単に二、三日を差し出せるわけがないだろう。
いや、しかし。そんな現実的なツッコミの裏で、心臓が冷たく脈打つ。もしかして私の身体は、自分で思っているよりも相当マズい状態なのではないだろうか。不安ばかりが急激に募っていく。
「大体の予想はついているんだけどね。ちゃんと細胞を取って調べてみないと、はっきりとは分からないから」
ケンちゃん先生は、カルテに向き直りながら言葉を続ける。
(なるほど。大体、最悪であるという予想がついているわけですね、先生……)
暗黒の未来が脳裏をよぎる。果たして数週間後、最悪な結果説明を突きつけられたその時、私は患者として100点満点のリアクションで『ガーン……』と呟くことができるだろうか。
――そうやって、脳内でくだらないおふざけでも繰り返していなければ、私はとうにその場で恐怖に震え、平静を保っていられなかったのだ。
ケンちゃん先生による一方的な入院宣告が終わると、代わりにベテラン風の看護師のお姉さんが現れ、本日これから実施する検査のスタンプラリーについて淡々と説明を始めた。
血液検査、レントゲン、CTスキャン――。ここまでは想定内だ。だが、彼女の口から最後に飛び出したのは、聞き馴染みのない不穏な単語だった。
「……最後に、スパイロメトリーね」
(待て。なんだそれは。新手の必殺技か何かか?)
まあ、他の一般的な検査シーンはエッセイとして地味なので全面割愛する。今回は、この見知らぬ強敵「スパイロメトリー」との死闘について語らせてほしい。
調べてみると、これは「肺機能検査」と呼ばれるものらしい。仰々しい測定機械の先端に口をつけ、そこで指示通りに息を吸ったり吐いたりして、肺のポテンシャルを数値化するのだそうだ。
おずおずと機械の前に鎮座した私は、白衣を着た検査技師の言われるがまま、妙に存在感のあるプラスチックの筒をパクりと咥えた。
「はい、吸ってー」「吐いてー」
マニュアル通りの指示が繰り返され、私はまるで精密機械のピストンのように、ただ無心で胸を上下させていた。ここまでは、平和だった。しかし、ここから検査技師の追い込みが急に牙を剥く。
「はい吸ってー! もっと吸って、吸って吸って吸って吸って!!」
(吸ってる! 限界まで吸ってるよ! もう私の肺に吸い込める酸素の余白なんて残ってないよ!!)
「はい次、吐いてー! もっと吐いて! 吐いて吐いて吐いて、出し切ってー!!」
(――私の知っている『呼吸』と違う)
人間、あんなにも肺をペシャンコに絞り尽くされるものなのだろうか。身体の限界を超えた酸欠一歩手前のディープな呼吸を何度も強制され、私は予想を遥かに超えるレベルで己の体力をガリガリと消耗していった。検査が終わったときには、スポーツジムで一汗かいた後ばりに息が上がっていた。
そして、命懸けで戦ったその測定結果が、ピッとレシートのように吐き出される。
画面に表示された私の肺機能の判定は、驚愕の「五十代相当」であった。
当時の私は、まだピチピチのアラサーである。どうやら私の肺は、私の実年齢を遥かに置き去りにして、一足先に第二の人生を満喫しているようだった。




