Chapter8 境界線
[ルーアン社・応接スペース]
「……少し、お時間よろしいですか」
柊の声は、穏やかだった。
高瀬玲子は、一瞬だけ目を細めてから、微笑む。
「ええ。構わないわ」
2人は、人目の少ない応接スペースに移動した。
ガラス越しに見える廊下では、社員たちが行き交っている。
“普通”の光景。
だからこそ、ここで交わされる言葉は、とても静かで、とても危うい。
「単刀直入に言います」
柊は、椅子に腰掛けず、立ったまま言った。
「環に、過去の話を持ち出すのは、やめてください」
玲子は、小さく肩をすくめた。
「注意喚起よ。同じことが起きないように」
「それは、こちらの仕事です」
柊の声は、低く、揺れない。
「今の環は、アークシステムズの社員です」
「ええ、分かってるわ」
玲子は、柔らかく笑う。
「でも、過去は消えない」
その言葉に、柊は一瞬だけ、視線を落とした。
そして、顔を上げる。
「……だからこそ、です」
玲子の視線が、わずかに鋭くなる。
「彼女は、もう一度、その名前で呼ばれる必要はない」
「……三浦さん、のこと?」
あえて、その名を口にする。
柊は、眉ひとつ動かさなかった。
「如月環です」
静かな訂正。
「それが、今の彼女です」
玲子は、ふっと息を吐く。
「相変わらず、優しいのね」
その声には、どこか嘲るような響きがあった。
「優しさじゃありません」
柊は、きっぱりと言った。
「線です」
そのひと言で、空気が変わる。
「ここから先は、踏み込まないでください」
玲子は、しばらく柊を見つめてから、ゆっくり笑った。
「……警告?」
「お願いです」
柊は、あくまで穏やかに言う。
「仕事を、仕事として進めたいだけです」
その言葉に、玲子は理解した。
――怒っていない。
――まだ。
だからこそ、この線は、壊してもいい線だと。
「わかったわ」
玲子は、あっさり頷いた。
「気をつける」
その言葉が、どれほど軽いか。
柊は、その時はまだ、知らなかった。
◇◇◇
その日の午後。
環は、1人で資料室にいた。
コピー機の音。
紙の擦れる音。
静かで、落ち着いた空間。
「……如月さん」
背後から、声がした。
環の背中が、ぴくりと揺れる。
振り返ると、そこに立っていたのは、高瀬玲子だった。
「少し、話せる?」
環は、一瞬迷った。
でも、逃げなかった。
「……はい」
資料室の奥。
人の気配はない。
玲子は、ゆっくり口を開いた。
「さっき、柊くんから“線を引かれた”の」
環の胸が、ざわりとする。
「優しいわよね、彼」
微笑みながら、続ける。
「でも……
ああいう優しさって、守りきれないのよ」
「……何の話ですか」
環は、必死に声を保った。
玲子は、一歩、近づく。
「クロノスの、情報漏洩事件」
その言葉で、空気が凍る。
「あなたが犯人にされた、あの事件」
環の喉が、ひくりと鳴る。
「……実はね」
玲子の声は、驚くほど穏やかだった。
「仕向けたのは、私よ」
世界が、一瞬、遠のく。
「……どうして」
絞り出すような声。
玲子は、はっきりと言った。
「あなたが、柊くんのお気に入りだったから」
環の視界が、揺れる。
「仕事もできて、守られて、気づけば、彼の目があなたを追ってた」
「……そんな……」
「邪魔だったのよ」
笑顔のまま、言い切る。
「だから、排除した」
環は、何も言えなくなった。
「あなたが崩れる姿、見たかった。そうすれば、彼も、私を見ると思ったから」
玲子は、一歩、下がる。
「でも……
意外と、強くなったわね」
その言葉を残して、踵を返す。
「さて。
どこまで耐えられるかしら」
環は、その場に立ち尽くした。
胸が、ぐちゃぐちゃになる。
怖い。
苦しい。
でも――
逃げたい、とは思わなかった。
境界線は、あっさり越えられた。
そして、高瀬玲子はまだ、気づいていない。
それが、最後の越境になることを。




