Chapter9 女帝の誤算
[アークシステムズ・作業スペース]
ドアが、静かに開いた。
「……お待たせしました」
環は、そう言って部屋に入ってきた。
声は、いつも通り。
表情も、笑顔。
ほんの少しだけ、口角を上げた、“大丈夫です”の顔。
「資料、揃いましたか?」
凪が、いつもの調子で聞く。
「はい……」
環は頷いた。
でも――
その足取りが、ほんの一拍、遅れている。
その瞬間。
柊は、画面から視線を上げた。
そして、環の顔を見た。
1秒も、迷わなかった。
「……環」
その声は、低く、静かだった。
「なにがあった?」
環の肩が、ぴくりと揺れる。
「え……?」
「なにが、あった」
繰り返す。
問い詰める口調じゃない。
責める声でもない。
“逃がさない”という確信だけがある声。
凪も、環を見て、笑顔を消した。
「……環さん」
環は、一瞬だけ、視線を伏せた。
それから、もう一度、笑おうとした。
「だ、大丈夫です……
ちょっと、資料室で……」
言葉が、続かなかった。
喉が、詰まる。
柊は、すっと立ち上がった。
環の前に来て、視線を合わせる。
距離は近い。
でも、圧はない。
「……笑わなくていい」
そのひと言で。
環の中で、何かが、ぷつりと切れた。
「……柊……」
声が、かすれる。
「……高瀬さんが……」
そこまで言って、息を吸う。
「……わたし……
あの、情報漏洩事件……」
凪が、無言で椅子を引き、環が座れるようにする。
「……黒幕だったって……」
環は、両手を、ぎゅっと握った。
「……仕向けたのは、自分だって……」
部屋の空気が、一気に冷える。
「理由は……」
環は、一度、目を閉じた。
「……柊のお気に入りだったから……
それが、気に入らなかったって……」
沈黙。
深い、
深い沈黙。
凪は、何も言わなかった。
柊も、すぐには、言葉を発さなかった。
ただ。
拳が、音もなく、強く握られていた。
それでも。
柊は、環から視線を逸らさない。
「……環」
低い声。
「それで……
おまえは、どうなった?」
怒りを、押し殺した声。
環は、ゆっくり答える。
「……怖かったです」
正直な言葉。
「……でも……」
少し、間を置いて。
「……逃げたいとは、思いませんでした」
凪が、小さく息を吐く。
「……それ、すごい進化ですよ」
環は、かすかに笑った。
「……柊と、凪くんがいるから……」
その言葉を聞いた瞬間。
柊の中で、何かが、はっきりと“切り替わった”。
まだ、爆発はしていない。
でも。
怒りの炎が、完全に、芯まで灯った。
柊は、静かに言った。
「……わかった」
短い言葉。
「ここから先は……」
一度、息を吸う。
「俺の番だ」
凪が、静かに頷いた。
「……完全に、地雷、踏みましたね」
柊は、環の肩に、そっと手を置く。
その手は、震えていない。
「……環」
声は、穏やかだった。
「もうひとりで、受け止めなくていい」
環は、その言葉で、ようやく深く息を吐いた。
高瀬玲子は、まだ知らない。
自分が、一番怒らせてはいけないものに、触れたということを。
それが、どんな結末を呼ぶのかを。
◇◇◇
[アークシステムズ・作業スペース]
「……俺の番だ」
そのひと言で、場の空気が、はっきり変わった。
凪は、何も聞かなかった。
もう十分すぎるほど、わかっている。
「……環さん」
凪は、やさしく声をかける。
「少し、僕と一緒にいましょう」
環は一瞬だけ迷い、それから、静かに頷いた。
「……はい」
凪は、環の席を画面から見えない位置に移し、さりげなく、背中を遮る。
守る配置。
柊は、それを確認してから、端末を操作した。
◇◇◇
[ルーアン社・会議室/臨時ミーティング]
「急な招集、申し訳ありません」
柊の声は、いつもと同じトーンだった。
冷静で、丁寧で、礼を失わない。
だからこそ――
異様だった。
画面の向こうにいる織原梨杏、情報システム部、財務経理部。
そして――
高瀬玲子。
「要件は、2つです」
柊は、画面共有を始める。
「1つ目」
表示されたのは、経費処理のフロー図。
「このバックドア構造。
ルーアン社の現行システムに、最初から存在していました」
ざわり、と空気が揺れる。
「2つ目」
今度は、過去ログ。
3年前。2月。Février。
「この構造は、クロノスが主導した再建プロジェクト時に、組み込まれています」
織原の表情が、一瞬だけ固まる。
「……それが、どう問題だと?」
高瀬玲子が、口を開いた。
落ち着いた声。
余裕のある態度。
柊は、視線を向けない。
「問題は――
その構造が、“事故を必要とする設計”だという点です」
「事故?」
「ええ」
柊は、淡々と続ける。
「一度、責任の所在を“人”に集中させることで、構造そのものを見えなくする設計」
画面が切り替わる。
――情報漏洩事件
――原因特定
――再発防止策
「この流れ、不自然なほど早すぎる」
織原は、黙ったまま画面を見ている。
「……柊くん」
高瀬玲子が、口角を上げた。
「それは、過去の話でしょう?」
「はい」
柊は、ようやく視線を向けた。
「そして――
今も続いている話です」
玲子の表情が、わずかに揺れる。
「この構造を作った人物は、“都合のいい犯人”が必要だった」
柊は、一拍置いて言った。
「……如月環です」
その名前が出た瞬間。
「柊くん」
玲子の声が、少しだけ低くなる。
「それ以上は、言い過ぎじゃない?」
「いいえ」
柊は、一切声を荒げない。
「事実です」
凪が、別の資料を共有する。
アクセスログ。
権限付与履歴。
指示系統。
「……あ」
誰かが、小さく声を漏らした。
「……これは」
辻井響が、息を呑む。
常見紘一は、画面から目を逸らした。
織原梨杏は、何も言わない。
「高瀬さん」
柊は、初めて、名前を呼んだ。
「あなたは、如月環に――」
一拍。
「黒幕であることを、直接、告げましたね」
会議室が、凍りつく。
「……それが、どうしたと?」
玲子は、笑みを浮かべる。
「私情の話よ。仕事とは関係ない」
柊は、その言葉を静かに否定した。
「関係あります」
「……?」
「彼女は、このプロジェクトの担当者です」
柊の声が、一段、低くなる。
「その担当者に、過去の冤罪を利用して、精神的圧迫をかけた」
「それは――」
「業務妨害です」
高瀬玲子の笑みが、消えた。
「そして」
柊は、最後の一枚を表示する。
「動機が、嫉妬心であることを自白している」
沈黙。
完全な沈黙。
柊は、静かに言った。
「……高瀬玲子」
初めて、フルネームで呼んだ。
「あなたは、一線を越えました」
その声に、怒鳴り声はない。
でも。
逃げ場も、言い訳も、残されていなかった。
「……柊くん」
織原梨杏が、ゆっくり口を開いた。
「この話、本当なの?」
柊は、即答する。
「すべて、証拠があります」
織原は、一度、目を閉じた。
「……神話、ね」
誰にともなく、呟く。
「私が信じてきたものが、人を傷つけていたとしたら……」
高瀬玲子が、初めて焦りを見せた。
「社長!それは――」
「高瀬さん」
織原は、遮る。
声は、震えていない。
「今日は、もう結構です」
そのひと言で、すべてが決まった。
◇◇◇
[アークシステムズ・作業スペース]
会議が終わり、柊は席を立った。
環のもとへ行く。
「……終わった」
環は、恐る恐る顔を上げる。
「……大丈夫、ですか?」
柊は、静かに微笑んだ。
「大丈夫なのは、おまえだ」
環の目に、涙がにじむ。
「……ありがとう……」
凪が、そっと言う。
「女帝、完全に誤算でしたね」
柊は、環の手を、そっと包む。
「環」
低く、確かな声。
「おまえを傷つける理由なんて、この世界にひとつもない」
環は、深く息を吐いた。
怖さは、まだ残っている。
でも――
もう、ひとりじゃない。
高瀬玲子は、最後までわからなかった。
環を壊せば、柊が壊れると思い込んでいたこと。
実際には――
環を傷つけたことで、柊を完全に怒らせてしまった、ということを。




