Chapter7 触れてはいけない名前
[ルーアン社・会議室]
キックオフから数日後。
定例の進捗共有ミーティングは、表向きは滞りなく進んでいた。
仕様。スケジュール。タスク分担。
すべて、“問題ありません”という言葉で整えられていく。
「……以上です」
凪が話を終え、軽く息を吐いた、そのときだった。
「ところで――」
高瀬玲子の声が、会議室に落ちた。
やわらかい。
けれど、わずかに温度が低い。
「経理側の確認事項なんだけど……
その資料、三浦さんが作ったのよね?」
空気が、止まる。
環の指が、無意識に机の縁をつかんだ。
――まただ。
名刺にも。資料にも。システム上のアカウントにも。
すべて、『如月環』と書いてある。
それなのに。
「……はい」
環は、ゆっくり答えた。
声は震えていない。
でも、胸の奥がきゅっと縮む。
「三浦さんって、クロノスにいた頃も、経理寄りの仕事をしてたわよね」
その言葉に、柊の視線が、一瞬だけ鋭くなる。
「……高瀬さん」
柊が、穏やかに、しかし間に入る。
「今は、如月環が、アークシステムズの担当です」
「ええ、わかってるわ」
玲子は微笑んだ。
「ただ……
過去を知っていると、どうしても、ね」
“過去”。
その言葉が、環の中で反響する。
情報漏洩。犯人。説明されなかった真実。
「……あの事件のこと、覚えてる?」
玲子の視線が、まっすぐ環を捉えた。
会議室の空気が、重くなる。
「高瀬さん」
今度は、凪が口を開いた。
声は明るい。
けれど、いつもより少し低い。
「その話、今ここでする必要、ありますか?」
「ただの確認よ」
玲子は肩をすくめる。
「同じことが起きないように、気をつけないと」
環の呼吸が、一瞬だけ浅くなる。
怖い。
でも――
逃げたい、ではなかった。
◇
会議が終わった後。
廊下の片隅で、環は立ち止まった。
「……柊」
小さな声。
柊は、すぐに立ち止まる。
「どうした?」
「……ちょっと、怖かったです」
凪が、環の顔を覗き込む。
「言ってくれて、ありがとうございます」
その言葉に、環は少し驚いたように目を瞬かせた。
「前は……
怖いって、言えなかったので……」
「うん」
柊は、環の肩にそっと手を置く。
「今は、言えてる」
その手は、確かだった。
「高瀬さん、わざと名前を使い分けてる」
凪が、淡々と言う。
「揺さぶって、判断を鈍らせたいんですよね」
「……たぶん」
環は、ゆっくり息を整えた。
「でも……
今は、ひとりじゃないって、わかってます」
柊の目が、やわらかくなる。
「そうだ」
「だから……」
環は、少しだけ迷ってから、続けた。
「一緒に、戦いたいです」
その言葉は、強がりじゃない。
怖い。
でも、逃げないと決めた声。
凪が、にっと笑う。
「それ、僕らの得意分野です」
柊は、静かに頷いた。
「触れてはいけない名前を、使ってくるなら……」
一瞬、言葉を切る。
「俺たちは、事実だけを使う」
環は、胸の奥が、じんわり温かくなるのを感じた。
怖さは、消えない。
でも――
一緒なら、立っていられる。
それを、初めて確信した瞬間だった。




