Chapter4 開けてはいけない扉
[アークシステムズ・作業スペース]
数字の確認作業は、表面上はいつも通りに進んでいた。
「……問題、なさそうに見えるんですよね」
凪はモニターを眺めながら言った。
「合計も合ってるし、処理も正規ルートを通ってる」
「そうだな」
柊は短く答える。
“問題がないように見える”
その言い方が、すでに問題だということを、3人とも分かっていた。
環は、自分の画面に表示された数字を見つめている。
ノンブル。
ページ番号のように並んだ数字。
Février。
2月に集中する処理。
ノンブル・プルミエ。
割れない数字。
それらは、どれも「正しい場所」にあるようで、本当の居場所から、ほんの少しだけずれていた。
「……凪」
柊が声を落とす。
「経理システムの中、“履歴”じゃなくて、“通り道”を見られるか?」
凪は一瞬だけ柊を見ると、すぐに頷いた。
「了解です」
キーボードを叩く音が、部屋に静かに響き始める。
「通常のログじゃなくて……
処理の“前”と“後”をつなぐ部分ですね」
「そうだ」
環は、そのやり取りを聞きながら、胸の奥がきゅっとするのを感じていた。
――これは、
――開けちゃいけないところなんじゃないか。
そんな感覚。
でも同時に、開けなければならない扉だということも、どこかで分かっていた。
「……あ」
凪の指が、止まる。
「ありました」
「何が?」
「正規の処理フローとは、少し違う“枝”が」
画面に表示されたのは、一本の細いライン。
太い幹から、目立たないように分かれた、ごく細い経路。
「それ……バックドア、ですか?」
環の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
凪は、慎重に言葉を選ぶ。
「……バックドア“みたいなもの”、ですね」
「最近作られた?」
柊の問いに、凪は首を横に振る。
「いいえ。
かなり前から、“ここにある前提”で組まれてます」
環の背中を、冷たいものが走った。
「前から……?」
「ええ。
新しく作ったっていうより……最初から“含まれてた”感じです」
最初から。
その言葉が、静かに重く落ちる。
「……Février、だな」
柊が、画面の一部を指した。
そこには、処理の起点を示すコード。
FEV_INIT
「……2月……」
環は、思わず呟いた。
凪は、画面を拡大する。
「この“INIT”……
初期化とか、開始を意味するやつですね」
「最初の2月」
柊の声は、低く、静かだった。
「ノンブル・プルミエ」
環の口から、自然と言葉がこぼれる。
割れない。
分解できない。
他と混ざらない。
「……きれいだな」
凪が、ぽつりと言った。
「わざと、“きれいに作ってる”」
「気づかれないように?」
「気づかれても、“説明できる”ように、です」
その言葉に、柊の目が細くなる。
「……これは」
柊は、一度だけ深く息を吸った。
怒りではない。
まだ、怒りではない。
でも――
一線を越えたことは、はっきりと理解していた。
「数字で、人を揺さぶるのは、まだ“仕事”の範囲だ」
凪と環が、同時に柊を見る。
「でも」
柊は続ける。
「最初から“裏口”を仕込むのは、違う」
環は、自分の名前を呼ばれる気がして、小さく肩をすくめた。
柊は、それに気づいていた。
だから、声のトーンを変えずに言う。
「……環。
これは、おまえのせいじゃない」
環は、ゆっくり顔を上げた。
「はい……」
「そして」
柊は、画面のコードを見つめたまま続ける。
「これは、まだ“触る段階”じゃない」
凪が頷く。
「証拠は、全部残します」
「消さない」
「直さない」
「隠さない」
3人の言葉が、自然に重なった。
その夜。
誰にも知られない場所で、その“扉”は、確かに開かれた。
高瀬玲子が想定していたよりも、ずっと静かに。
ずっと慎重に。
そして、彼女が一番誤算していること――
その扉の向こうに触れたのが、如月柊だったということに、まだ気づいていなかった。




