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第9話 俺の専門外だ

「はぁっ……はぁっ……! いきなり、こんなに激しいなんて……!」


「伊阪利くん、もっと! もっと速く動いて!」


「走琉……これが俺の限界だ!」


「もう少しだから……ね? 頑張って!」


「む、無理だ……もう、もたない……!」


「伊阪利くん! あとちょっと! ここからが、すっごく気持ちいいところなんだから!」


「ああ……もう駄目だ。うっ……!」


 ドサッ。


 俺はとうとう力尽き、その場へ倒れ込んだ。


「もう……伊阪利くん、だらしないなぁ」


 そんな俺を見下ろしながら、走琉が呆れたように笑っている。


 ——放課後のグラウンド。


 美少女から「すっごく気持ちいいことをしよう」と誘われた俺は、なぜか死に物狂いで走らされていた。


「…………」


 おかしい。


 どうしてこんなことになった。


「全力で走ってるときに感じる風って、すっごく気持ちいいんだよ!」


 走琉は満面の笑みを浮かべている。


「……まあ、薄々そんなことだろうとは思っていたが」

「ん? ほかに何があるの?」

「いや、なんでもない」


 純粋な瞳を向けられ、俺はそれ以上何も言えなかった。


◇◇◇◇◇


 その後、俺はグラウンド脇のベンチへ腰を下ろした。


 走琉から渡されたスポーツドリンクを、一気に喉へ流し込む。


「はあ……生き返る」

「伊阪利くん、体力なさすぎだよ」

「俺は今まで、勉強一筋だったんだ」

「あははっ! じゃあ、これからボクが鍛えてあげよっか?」

「遠慮しておく」


 隣に座った走琉は、あれだけ走ったというのに涼しい顔をしている。


 呼吸一つ乱れていなかった。


「走琉は、本当に走るのが好きなんだな」

「うん! 大好き!」


 迷いのない即答だった。


「そんなに楽しいものなのか?」

「楽しいよ! 走ってると風が気持ちいいし、昨日より少しでも速くなれたら嬉しいし!」


 走ることについて話す走琉は、本当に楽しそうだった。


 だが——。


「……まあ、最近はちょっと違うんだけどね」

「違う?」

「最近、タイムが全然伸びなくなっちゃってさ」


 そう言って、走琉は自分の脚へ視線を落とした。


「前は走れば走るほど速くなったんだ。自己ベストもどんどん更新できて、それが嬉しくて、もっと走って……」

「…………」

「でも最近は、どれだけ走っても全然タイムが縮まらないんだよね」

「そうなのか」


 先ほどまで弾んでいた声が、ほんの少しだけ沈む。


 しかし、走琉はすぐに顔を上げた。


「ねえ、伊阪利くん」

「なんだ?」

「せっかくだし、タイムを測ってくれない?」

「タイム?」

「うん。百メートル!」


 走琉はそう言うと、ベンチから勢いよく立ち上がった。


「今から走るのか?」

「もちろん! 今日はなんだか、いける気がするんだ!」

「さっき、あれだけ走ったばかりだろ」


 走琉は不思議そうに目を丸くする。


「あれはウォーミングアップだよ?」

「…………」

「本番はこれから!」

「俺は、そのウォーミングアップで死にかけたんだが」

「あははっ! 伊阪利くん、本当に体力ないね!」


 声を上げて笑う走琉は、やはり楽しそうに見えた。


 俺は走琉からストップウォッチを受け取り、ゴール地点へ向かう。


 百メートル先。


 スタートラインに立った走琉は、軽く跳ねながら脚や肩をほぐしていた。


「準備はいいかー?」

「いつでもいいよ!」


 俺は片手を高く上げる。


「位置について——」


 走琉が姿勢を低くする。


 その瞬間、先ほどまで浮かべていた笑顔が、すっと消えた。


 身体から余計な力が抜け、視線がまっすぐ前だけを捉える。


「よーい——」


 俺は上げていた手を、勢いよく振り下ろした。


「ドン!」


 合図と同時に、走琉が地面を蹴る。


「速っ……!」


 思わず声が漏れた。


 先ほど俺と走っていたときとは、まるで違う。


 一歩ごとに力強く地面を蹴り、一気に加速していく。


 青い髪を風になびかせ、走琉はあっという間に百メートルを駆け抜けた。


「はい!」


 俺の横を通過した瞬間、ストップウォッチを止める。


「はぁっ……はぁっ……。何秒!?」

「えっと……十二秒二」

「…………」


 走琉の表情が、目に見えて曇った。


「……やっぱり駄目か」

「十分速いと思うが」

「駄目だよ。自己ベストより遅いもん」


 走琉は悔しそうに唇を結ぶ。


 乱れた呼吸を整えながら、もう一度スタート地点へ目を向けた。


「もう一本、お願いしていい?」

「今、全力で走ったばかりだぞ?」

「大丈夫! 体力には自信があるから」


 俺の返事も待たず、走琉はスタート地点へ戻っていく。


 二本目。


「十二秒四」

「……もう一本!」


 三本目。


「十三秒一」

「もう一回!」


 四本目。


「十二秒八」

「…………もう一本」


「走琉。一度、しっかり休んだ方がいいんじゃないか?」


 走琉は苦しそうに息を吐き、額の汗を腕で拭った。


「大丈夫。まだいけるよ」

「だが——」

「お願い、伊阪利くん」


 まっすぐな瞳で見つめられる。


 その奥にある焦りに気づきながらも、俺には強く止めることができなかった。


「……分かった」


 五本目。


「十三秒四」

「……もう一回」


 六本目。


「十三秒八」

「もう一回」

「走琉、さすがに今日はもう——」

「もう一回!」


 俺の言葉を遮るように、走琉が声を張り上げた。


「…………」

「あ……ごめん」


 走琉は気まずそうに目を伏せると、取り繕うように笑った。


「でも、もう一本だけだから。ね?」

「…………」


 その笑顔には、先ほどまでの楽しそうな色がなかった。


 俺は迷った末に、ストップウォッチを握り直す。


「分かった。ただし、次で本当に最後だ」

「……うん」


 走琉は七本目のスタートラインへ戻っていく。


 肩で大きく息をしている。


 脚も、すでに限界へ近づいているはずだ。


 それでも走琉は低く姿勢を構え、前だけを見つめた。


「位置について——」


 身体が、わずかに揺れている。


「よーい……ドン!」


 走琉が地面を蹴る。


 だが、その速度は明らかに最初より遅かった。


 それでも必死に腕を振り、重くなった脚を一歩ずつ前へ運んでいく。


 そして——ゴール。


「はぁっ……はぁっ……。何秒……?」


 俺はストップウォッチへ目を落とした。


「……十三秒六」

「…………そっか」


 走琉が俯く。


 頬を伝った汗が、ぽたり、ぽたりと地面へ落ちた。


「今日も……駄目だったか」


 ぽつりと漏れた声は、さっきまでの明るい走琉からは想像できないほど弱々しかった。


「ボク……もう、速くなれないのかな」


 その言葉を聞いた瞬間、先ほどの笑顔が脳裏に浮かぶ。


 ——全力で走ってるときに感じる風って、すっごく気持ちいいんだよ!


 あんなにも楽しそうに笑っていた。


 走ることが大好きだと、迷いなく言い切っていた。


 だが、今の走琉は——。


 大好きだったはずの走ることに、ひどく追い詰められているように見えた。

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