第10話 勝負なら負けないからな
「槍田くん……何、その歩き方」
「ぐぬぬ……筋肉痛だ」
「おじいちゃんみたいになってるよ」
「笑うな。一歩進むたびに、全身に激痛が走るんだぞ」
ぎこちない足取りで、なんとか教室までたどり着く。
そして、慎重に自分の席へ腰を下ろした。
「ぐおっ……! まさか、ここまで辛いとは……」
「槍田くんがスポーツしてるイメージ全然ないもんね」
なじみが楽しそうに笑っている。
「そういうなじみは、何かやってるのか?」
「私はテニス部だよ」
「テニス部か……」
テニスウェア姿のなじみが、頭に浮かぶ。
短いスカートから伸びる健康的な脚。
汗を拭いながら、ラケットを構える姿。
うん。絶対に可愛い。
「今度、見学させてもらっても——」
「絶対に嫌。どうせ、いやらしいこと考えたんでしょ」
「考えてないぞ。なじみのテニスウェア姿は絶対に可愛いだろうなと思っただけだ」
「……もう、そういうこと平気で言うんだから!」
なじみは少しだけ頬を赤くして、ぷいっと顔を逸らした。
そんな会話をしながら、ふと走琉へ視線を向ける。
昨日、あれだけ走ったというのに、普段とまったく変わらない。
むしろ朝から元気よく、席に座ったまま身体をほぐしている。
「走琉は元気だな」
「槍田くん、昨日は長木仁さんにしごかれたんでしょ?」
「ああ……ウォーミングアップに付き合わされただけだがな」
「軟弱だね、槍田くんは」
なじみが、また楽しそうに笑う。
そんな他愛のない話をしているうちに、朝のホームルームが始まった。
◇◇◇◇◇
そして、放課後。
走琉は授業が終わると、今日も真っ先にグラウンドへ向かった。
教室の窓から外を眺める。
走琉は昨日と同じように、何度も百メートル走を繰り返していた。
昨日、タイムが伸びないことに、あれほど落ち込んでいたというのに。
それでも腐ることなく、今日も全力で走っている。
「やっぱり、走琉はすごいな」
結果が出なくても、諦めない。
一生懸命に、好きなことと向き合い続けている。
地面を力強く蹴り、懸命に前へ進もうとするその姿が、俺にはとても魅力的に見えた。
「……やっぱり、走琉はいい女だな」
「また始まった……」
隣から、なじみの呆れた声が飛んでくる。
「決めたぞ」
「まさか……?」
「走琉も俺のハーレムに欲しい」
「はぁ……やっぱりそうなるんだ」
なじみが深いため息をついた。
「またハーレム候補が一人増えたぞ。なじみ、紀律、そして走琉。全員、最高に可愛くて魅力的だ!」
「だ、か、ら! 私を勝手にハーレム候補に入れないで!」
なじみが俺の太ももをぺしっと叩く。
「ぐぅっ! 痛い!」
そこは今、一番ダメなところだ!
「筋肉痛の場所をピンポイントで狙うな!」
「知らない!」
なじみは、ぷいっとそっぽを向く。
「まあ……別に止めないけど」
「おお。なじみもハーレム一号としての自覚が芽生えてきたようだな」
「……もう一回やられたい?」
「なじみさん、勘弁してください」
なじみはにっこり笑いながら、軽く握った拳を持ち上げていた。
◇◇◇◇◇
その後、俺は教室を出てグラウンドへ向かった。
走琉にハーレム入りを頼む——という目的も、もちろんある。
だが、それ以上に気になっていることがあった。
昨日、最後に見せた走琉の顔だ。
グラウンドへ着くと、ちょうど走琉が百メートルを走り終えたところだった。
「はぁっ……はぁっ……」
肩で息をする走琉の表情は険しく、どこか沈んでいるように見える。
俺は昨日のお返しに買ってきたスポーツドリンクと、新しいタオルを手に、走琉のもとへ向かった。
「走琉、今日も頑張っているな」
「……伊阪利くん?」
走琉は俺に気づくと、いつものような笑顔を浮かべた。
「どうしたの? 昨日ので、走るのにハマっちゃった?」
「そんなわけあるか。今も全身が筋肉痛だ」
「あはは……そっか」
走琉は笑っている。
だが、昨日見た眩しい笑顔とは、どこか違った。
「ほら。昨日のお返しだ」
スポーツドリンクとタオルを差し出す。
「……ありがと、伊阪利くん」
走琉はそれを受け取ると、タオルで汗を拭きながらベンチへ腰を下ろした。
俺も、その隣に座る。
しばらく、俺たちは何も話さなかった。
走琉はゆっくりと呼吸を整えながら、手の中にあるスポーツドリンクを見つめている。
「……今日も、タイム縮まらなかった」
「そうか」
「こんなに走り込んでるのに、おかしいよね」
走琉は、自分を嘲るように小さく笑った。
「もう……これがボクの限界なのかな」
「走琉」
「ん?」
「今、楽しいか?」
「……え?」
走琉が、きょとんとした顔で首を傾げる。
「今、走っていて楽しいかと聞いている」
「走るのは好きだもん。楽しいに決まってるよ」
「俺には、そうは見えない」
走琉の表情が、わずかに強張った。
「……伊阪利くんに、何が分かるのさ」
「…………」
「好きだからって、それだけで全部うまくいくわけじゃないんだよ」
走琉は手の中のタオルを、ぎゅっと握りしめた。
「走るのが好きでも、速くなれなかったら意味ないじゃん」
そう言って立ち上がると、再びスタート地点へ向かおうとする。
「走琉」
「……何?」
「俺と勝負しよう」
「伊阪利くんと?」
走琉が振り返り、困ったように眉を下げる。
「悪いけど……勝負にならないよ」
「だろうな。だから——鬼ごっこでだ」
「……鬼ごっこ?」
「ああ」
予想していなかったのか、走琉が目を瞬かせる。
「鬼ごっこなら、追う側は相手の動きを見ながら距離を詰められる。直線勝負よりは、俺にも勝ち目がある」
「そんな理屈、初めて聞いたんだけど」
「なら今から証明してやる。俺に鬼をやらせてくれ」
「ボクは練習しなきゃいけないんだ。伊阪利くんとの遊びに付き合ってる暇はないよ」
そう言って、走琉は練習へ戻ろうとする。
「逃げるのか、走琉」
「……なに、それ」
「鬼ごっこだって、走ることに変わりはない。それとも、俺から逃げ切る自信がないのか?」
「…………」
走琉は一瞬きょとんとしたあと、挑発に乗るように口角を上げた。
「そこまで言うなら——後悔しても知らないからね!」
「ルールは簡単だ。俺が走琉を捕まえたら、俺の勝ち。五分間逃げ切ったら、走琉の勝ちだ」
「伊阪利くんからなら、何時間でも逃げ切れるよ」
「言ったな?」
俺は屈伸しながら、太ももを伸ばす。
全身の筋肉が悲鳴を上げている。
だが——今は無視だ。
「それじゃあ、始めようか。伊阪利くん」
「ああ」
走琉が、俺から少し距離を取る。
その顔には、先ほどまでなかった挑戦的な笑みが浮かんでいた。
「行くぞ、走琉!」
こうして——。
俺と走琉の、本気の鬼ごっこが始まった。




