第11話 それは夜の運動だ
「待てぇぇぇ! 走琉!」
「あはははっ! 伊阪利くん、遅ーい!」
俺は必死に腕を伸ばす。
あと少し。
このまま行けば、指先が走琉の背中へ——。
「残念でした!」
触れる寸前、走琉がひらりと身を翻した。
「なっ!?」
急に方向を変え、そのまま俺の横を軽やかにすり抜けていく。
「ほらほら! こっちだよ!」
「なんて身軽なんだ!」
「ボクを捕まえるんじゃなかったの?」
走琉は俺をからかうように笑いながら、グラウンドを縦横無尽に駆け回る。
速い。
とにかく速い。
走琉はこちらの動きを見る余裕さえあるというのに、俺はまるで追いつけない。
「はぁっ……はぁっ……!」
おまけに、俺は昨日からの筋肉痛を抱えている。
鬼ごっこが始まって間もないというのに、すでに両脚が悲鳴を上げていた。
「伊阪利くーん! 鬼さん、こちらー!」
少し離れたところで、走琉が両手を振っている。
その顔には、心から楽しそうな笑みが浮かんでいた。
正攻法では、絶対に捕まえられない。
ならば——。
「走琉! 空にUFOが!」
「えっ!? どこどこ?」
走琉が驚いて空を見上げる。
今だ!
俺は痛む脚へ鞭を打ち、一気に距離を詰めた。
「もう! UFOなんていないじゃん!」
「もらったぁぁぁ!」
あと二歩。
あと一歩——!
「あまいよ!」
走琉は再びくるりと方向を変えると、あっという間に俺から離れていった。
「くそぉぉぉ!」
無理やり方向転換しようとしたせいで、脚がもつれる。
俺は勢いよく地面へ転がった。
「あははははっ! 伊阪利くん、大丈夫?」
グラウンドに、走琉の楽しそうな笑い声が響き渡る。
その笑顔は、眩しいほどに輝いていた。
◇◇◇◇◇
結局——。
五分間、俺は一度も走琉に触れることができなかった。
「はぁっ……はぁっ……。走琉、速すぎるだろ……」
「あははっ! 伊阪利くん、本当に駄目駄目だね」
走琉は笑いながら、地面へ座り込んだ俺の隣へ腰を下ろす。
「でも……ボク、久しぶりにこんなに笑った気がする」
「やっぱり走琉は、楽しそうに走っているときが一番魅力的だな」
「……なに、それ」
走琉の頬が、ほんの少し赤くなる。
「もしかして、ボクのこと口説いてるの?」
「ああ。俺は、笑っている走琉が好きだ」
「…………」
走琉が少し驚いたように目を見開く。
「タイムが気になるのは分かる。競技として走っている以上、当然のことだと思う」
「……うん」
「だが、昨日百メートルを走っていたときの走琉は、苦しそうに見えた」
「…………」
「最初に言ってただろ?」
俺は走琉を真っ直ぐ見つめる。
「走るのが大好きだって」
「…………」
「速くなることも大事なんだろう。だが、その大好きって気持ちはもっと大事なんじゃないか?」
走琉は何も答えなかった。
自分の脚を見つめ、考え込むように黙っている。
「……そっか」
やがて、小さく息を吐いた。
「ボク、いつの間にかタイムを縮めることばっかり考えてたんだね」
「…………」
「周りから期待されて、速くなれば褒められて……もっと速くならなきゃ、みんなをがっかりさせちゃうって」
走琉は膝を抱える。
「気づいたら、大好きだったはずの走ることまで、嫌いになりかけてたんだ」
走琉は力が抜けたように笑った。
「伊阪利くんと鬼ごっこして、走ることが楽しいって気持ちを思い出せたよ」
「そうか」
「うん。なんか……今なら、楽しく走れそう」
そう言って、走琉が立ち上がる。
「ねえ、伊阪利くん」
「なんだ?」
「今から、もう一度だけ百メートルを走ってもいい?」
「まだ走るのか?」
「うん。でも今度は、タイムを測らなくていいから」
「…………」
「今はただ、思いっきり走りたい。そんな気分なんだ」
走琉の表情に、もう焦りはなかった。
俺も立ち上がり、頷く。
「分かった」
走琉がスタート地点へ向かっていく。
その後ろ姿を見送りながら——俺はこっそり、地面に置かれていたストップウォッチを手に取った。
「準備はいいか?」
「いつでもいいよ!」
走琉が姿勢を低くする。
表情から笑みが消え、まっすぐ前だけを見つめる。
だが、昨日までの張り詰めた雰囲気はない。
全身から余計な力が抜けているように見えた。
「位置について——よーい、ドン!」
合図と同時に、走琉が飛び出す。
速い。
地面を蹴るたびに、軽やかに身体が前へ進んでいく。
風を切り、その風を楽しむように。
走琉は百メートルを一気に駆け抜けた。
「はぁっ……!」
ゴールした走琉が、ゆっくりとこちらを振り返る。
「やっぱり……走るのって気持ちいい!」
その顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
「そうか」
俺も笑いながら、手元のストップウォッチへ目を落とす。
「なんか今の、すっごくうまく走れた気がする! やっぱりタイムも測ってもらえばよかったなぁ」
「そうか。ちなみに、十一秒九五だ」
「…………」
「…………」
「測ってるじゃん!」
走琉が勢いよくツッコミを入れる。
だが、すぐにその目が大きく見開かれた。
「って……十一秒台!?」
「ああ」
「自己ベストだ!」
次の瞬間、走琉が満面の笑みを浮かべて駆けてくる。
「ありがとう、伊阪利くん!」
「うわっ!?」
勢いを落とさないまま、走琉が俺へ抱きついた。
「い、痛っ……いたたたたた!」
「えっ!? どうしたの!?」
「き、筋肉痛が……!」
「…………」
一瞬きょとんとしてから、走琉は痛がる俺を見て吹き出した。
「あはははっ! ありがとう、伊阪利くん!」
◇◇◇◇◇
次の日、俺は無理をしたせいか筋肉痛はさらに悪化していた。
「学園まで歩いてくるだけで精一杯だったぞ……」
「ほんと、何やってんだか」
震える脚でなんとか席に着く俺を見て、なじみは呆れたように笑った。
「おっはよー! 伊阪利くん!」
「ぐわっ!?」
突然、後ろから走琉が抱きついてきた。
「い、痛い……! せっかく美少女に抱きつかれているのに、喜ぶ余裕がない……!」
「あははっ! 伊阪利くん、もう少し身体を鍛えた方がいいよ?」
走琉は昨日までと変わらない——いや、それ以上に楽しそうに笑っていた。
「それよりも走琉。俺のハーレムの一員にならないか?」
「ハーレム?」
走琉はきょとんと首を傾げる。
「うん! いいよ!」
「おおっ!」
二つ返事だった。
「えっ!? 長木仁さん、本当にいいの!?」
なじみが驚き、会話へ割って入る。
「うん。よく分かんないけど、ボク、伊阪利くんと一緒にいるの好きだし!」
「意味分かってないのに返事しちゃダメだよ!」
「そうかそうか! ちなみに走琉が三人目だ! 一人目がなじみで、二人目が委員長の紀律だ!」
「だから、勝手に私を一人目にしないで!」
「なじみちゃんと委員長も一緒なんだ! 楽しそうだね!」
「だろ? 最高のハーレムになるぞ!」
話が分かるじゃないか、走琉。
「それで、俺は走琉とおせっせもしたい」
「おせっせ?」
走琉は顎に手を当て、不思議そうに瞬きをする。
「うん! いいよ!」
「おおおおっ!」
「ちょ、ちょっと! 長木仁さん!」
慌てるなじみに、走琉はにっと笑う。
「走琉でいいよ、なじみちゃん!」
「今は呼び方の話をしてる場合じゃなくて!」
ついに……。
ついに、おせっせまで許してくれるハーレムメンバーが!
「ところで、伊阪利くん」
「なんだ?」
「その『おせっせ』って何?」
「…………」
「運動? 体力使う?」
「ああ! かなり使うぞ!」
「へえ! 面白そう! ボク、楽しみにしてるね!」
「俺も楽しみだ! じゃあ今度、俺の家で——」
「——って、ダメに決まってるでしょ!」
なじみの叫び声が、教室中に響き渡った。




