第7話 前を走り続ける
その日から、俺の生活は少し前までのものに戻った。
朝、教室に着けば参考書を開く。
授業が始まるまでの時間も。
休み時間も。
昼休みでさえ、食事を取りながら問題を解いた。
少しでも時間が空けば、すぐに机へ向かう。
「槍田くん……なんか、前の学校にいた頃へ戻っちゃったみたい」
「ああ」
「返事まで前と同じになってるよ……」
なじみが呆れたようにため息をつく。
申し訳ないが、今はそれ以上の言葉を返している余裕がない。
一度受けた勝負だ。
相手が本気なら、俺も全力を尽くさなければ失礼だ。
放課後になると俺は毎日、自習室へ向かった。
そして、いつもの席には必ず紀律がいる。
「…………」
「…………」
隣の席に座っても、互いに言葉は交わさない。
紀律は俺を一瞥すると、すぐに問題集へ視線を戻した。
俺も参考書を開き、目の前の問題へ意識を集中させる。
ページをめくる音。
ペン先が紙の上を走る音。
静かな自習室に響くのは、それくらいだった。
言葉など必要ない。
手加減も、妥協もない。
同じ場所で、同じ試験へ向けて、互いに全力を尽くす。
今の俺たちは、まさしくライバル同士だった。
◇◇◇◇◇
そして、実力テスト当日。
久しぶりに本気で挑んだテストは、始まってしまえばあっという間に終わった。
「はぁ……やっと終わったよぉ……」
すべての科目を終え、なじみが力尽きたように机へ突っ伏す。
「槍田くんは、どうだった?」
「できることはすべてやった」
「なんだか余裕そうだね……」
「そういうなじみは?」
「聞かないで」
どうやら、あまり触れない方がよさそうだ。
「それより、玄朱さんは……どうだったんだろう」
「さあな」
教室の前方へ視線を向ける。
紀律はすでに帰り支度を終えていた。
ふと、こちらと目が合う。
「…………」
「…………」
言葉はない。
紀律はただ、眼鏡をくいっと押し上げた。
その凛とした表情からは、確かな手応えが感じられる。
俺も何も言わず、視線だけで応じた。
紀律はそのまま踵を返し、教室を出ていく。
俺と紀律。
どちらが上だったのか。
結果が出れば、すべて分かる。
◇◇◇◇◇
そして、数日後——。
廊下の掲示板の前には、大勢の生徒が集まっていた。
張り出されているのは、実力テストの成績上位者。
その一番上にあった名前は——
一位 槍田伊阪利。
二位 玄朱紀律。
「……そ、そんな」
紀律は順位表を見上げたまま、立ち尽くしていた。
小さく握りしめられた両手が、わずかに震えている。
「玄朱さんもすごいけど……槍田くん、本当に一番取っちゃったんだ」
なじみが感心したように俺を見る。
「本気でやると言ったからな」
俺は隣に立つ紀律へ視線を向けた。
「紀律」
「……私の負けよ」
紀律が、ぽつりと呟く。
「完敗だわ」
その声には、いつもの力がなかった。
「私から勝負を挑んで……勉強にも成績にも興味がないあなたを無理に付き合わせて……それでも、また勝てなかった」
紀律は悔しそうに唇を噛んだ。
「私って、惨めね……。邪魔して悪かったわ」
「…………」
「これからは、同窓さんとよろしくやればいいわ」
眼鏡の奥の瞳に、うっすらと涙が滲んでいた。
「玄朱さん……」
なじみが心配そうに手を伸ばそうとする。
だが、その前に俺は紀律の前へ出た。
「紀律は惨めなんかじゃない」
「……え?」
「あれだけ真剣に勉強と向き合える人間なんて、そうはいない。俺も同じことをしてきたからこそ、紀律の努力がどれほどすごいのか分かる」
「でも……結局、私は負けたわ」
「総合順位ではな」
紀律が顔を上げる。
「教科別なら、俺が負けた科目もあった」
「それは……」
「俺は紀律がいたから、ここまで本気になれた」
「…………」
「真剣に勉強へ打ち込む紀律を見て、純粋にすごいと思った。それに——」
俺は紀律の瞳をまっすぐ見つめる。
「格好よくて、素敵だと思った」
紀律の頬が、みるみる赤く染まっていく。
「な、ななな、何を言ってるのよ!」
俺はそんな紀律と、真っ向から向き合う。
「紀律が俺の背中を追い続けたいっていうなら——俺はこれからも、紀律に負けないよう、ずっと前を走り続ける」
「…………」
紀律は何も答えなかった。
ただ、真っ赤になった顔で俺を見つめている。
「槍田君……」
「なんだ?」
「私……あなたを追って、この学園に来て良かったかも」
視線を逸らしながら、控えめに呟く紀律。
普段の気の強い姿からは想像もできないほど、その表情は柔らかかった。
「槍田君とこれからも勝負できると思うと嬉しくて。でも——」
紀律は眼鏡を押し上げると、俺を見て柔らかく微笑んだ。
「次は、絶対に負けないから」
その笑顔を見た瞬間、胸が大きく高鳴った。
……なんて可愛いんだ、紀律。
努力家で。
負けず嫌いで。
何度負けても、諦めずに前を向ける。
気づけば俺は、そんな紀律に強く惹かれていた。
「紀律、少しいいか?」
「どうしたの、槍田君?」
紀律が微笑んだまま、小さく首を傾げる。
「俺は、紀律のことが好きだ」
「…………」
「よければ、俺のハーレムに入ってほしい」
「……へ?」
紀律がぽかんと目を丸くする。
「ハ、ハーレムって……私が?」
「ああ」
言葉の意味を理解したのか、みるみるうちに頬が赤く染まっていった。
「なんでそうなるのよ。それに、私……同窓さんみたいに可愛くないし……」
「何を言ってるんだ。なじみも最高に可愛いが、紀律だって負けないくらい可愛いぞ!」
「…………っ!」
紀律は真っ赤になり、俯いてしまった。
俺はそんな紀律へ、まっすぐ手を差し出す。
「もう一度言う。俺のハーレムに入ってくれ!」
「そ、そんなに急に言われても……」
紀律は困ったように、もじもじと指先を合わせる。
「そもそも……あなたの言うハーレムって、具体的には何をするのよ?」
「そんなの簡単だ、紀律!」
俺は満面の笑みで答えた。
「一緒に勉強したり、分からないところを教え合ったりするんだ」
「…………」
「ときには息抜きに雑談をして、励まし合いながら、お互いを高めていく」
「そ、そういう関係なら……悪くないかも」
紀律がおずおずと、俺の差し出した手へ手を伸ばす。
その指先が、俺の手に触れようとした——まさに、その瞬間。
「そして最後は、愛を確かめ合うためのおせっせだ!」
「…………」
紀律の伸ばしかけた手が、ぴたりと止まった。
「お、おせ……おせっせって……」
「もちろん、紀律みたいな魅力的な女の子とは、おせっせしたいに決まっている!」
「なっ……!」
紀律は勢いよく俺の手を払いのけた。
「せっかく……ほんの少しだけ、いいかもって思ったのに!」
「紀律……?」
「全部台無しよっ!」
そう言い捨てると、紀律は大きな足音を響かせながら、その場を立ち去っていった。
「紀律! 待ってくれ! まだハーレムに入るかどうか、返事を聞いていないぞ!」
「入るわけないでしょっ!」
廊下の向こうから、怒鳴り声だけが返ってくる。
「…………どうしてだ!」
「ああ、もう。本当にバカなんだから……」
隣で一部始終を見ていたなじみが、呆れ果てたように首を横に振っていた。




