第6話 ならば、本気で迎え撃つ
実力テストまで、あと数日。
あの日から、俺は玄朱紀律のことを少し気にするようになった。
朝、教室へ来ると、彼女はすでに参考書を開いている。
授業が始まるまでのわずかな時間も。
休み時間も。
昼休みでさえ、食事を早々に済ませると、すぐに問題集へ向かっていた。
「委員長、ずっと勉強してるな」
「玄朱さん、本当にすごいよね。休み時間くらい休めばいいのに」
俺の視線を追ったなじみが、感心したように呟く。
紀律は俺たちの会話など耳に入っていないかのように、黙々と問題を解き続けていた。
「なんか……前の学校にいた頃の槍田くんみたい」
「俺……みたい?」
そう言われて、ふと思い出す。
少し前まで、俺も同じような生活をしていた。
朝起きて、勉強。
休み時間も、勉強。
家に帰れば、また机に向かう。
遊びたい。
休みたい。
もう投げ出してしまいたい。
そんな考えを何度も押し殺し、ひたすら問題集を開き続けた。
すべては、この交娯矮学園に入るため。
そして——ハーレムを作るという、揺るぎない夢を叶えるためだ。
どれほど強い目的があろうと、辛いものは辛い。
経験してきた俺だからこそ分かる。
委員長は今、かなり自分を追い込んでいる。
「……そこまでして、俺を退学させたいのか?」
思わず、そんな言葉が漏れた。
◇◇◇◇◇
そして、放課後。
授業が終わると、紀律は足早に教室を出ていった。
どうしても彼女の真意が気になった俺は、そのあとを追うことにした。
紀律が入っていったのは、放課後も自由に利用できる自習室だった。
開いた扉から中を覗く。
「……ここに来ていたのか」
教室にいたときと変わらず、紀律は一人で問題集に向かっていた。
俺は自習室へ入り、その席まで歩いていく。
「委員長、少しいいか?」
「…………」
紀律は問題を解く手を止め、眼鏡の奥から俺を見上げた。
「勉強の邪魔をしに来たのなら、お断りよ」
「そんなつもりはない」
「なら、手短にお願い。今は一分でも惜しいの」
そう言って、紀律は再び問題集へ視線を落とす。
「委員長は、そんなに俺のことが嫌いなのか?」
「……え?」
ペン先がぴたりと止まる。
「な、なんで急にそんなこと聞くのよ?」
「だって、そこまで必死に勉強して俺を退学させたいんだろ?」
「…………」
紀律がゆっくりと顔を上げた。
「もしかして……本気にしてたの?」
「ああ」
「…………」
紀律は呆れたように額へ手を当てた。
「ごめんなさい。あれは勢いで言ってしまっただけ。本気であなたに退学してほしいわけじゃないわ」
「そうだったのか」
「ええ。だから、あの話は忘れてちょうだい」
「じゃあ、どうしてそこまで勉強するんだ?」
「……どうしても、あなたに勝ちたいの」
「俺に……?」
紀律が、まっすぐ俺を見つめる。
眼鏡の奥にある瞳には、強い意志が宿っていた。
「私は昔から、勉強だけは誰にも負けなかった」
紀律は静かに語り始める。
「いつだって成績は一番。それが私にとって当たり前だったの」
「…………」
「でも、ある全国模試を受けたとき……初めて私より上に名前があった」
そこで一度、紀律が言葉を切る。
「槍田伊阪利」
「……俺か」
「ええ。最初はただ悔しかった。次は絶対に勝ってやるって、それだけだったわ」
握ったペンに、わずかに力が入る。
「でも、何度受けても勝てなかった。どれだけ勉強しても、結果はいつも二位。私の上には、必ずあなたの名前があった」
「…………」
「気づけば、槍田伊阪利——あなたに勝つことが、私の目標になっていた」
その声には、積み重ねてきた悔しさが滲んでいた。
「次は勝てるかもしれない。今度こそ追いつけるかもしれないって……ずっと、あなたの名前を追いかけてきたの」
紀律は少しだけ視線を落とす。
「それから、あなたがこの交娯矮学園を志望していると知った」
「まさか……」
「そうよ。私は志望校を変えたわ」
「俺に勝つためだけに?」
「……ええ」
迷いのない返事だった。
「同じ学園へ行けば、またあなたと勝負ができる。ようやく直接追いかけられる。そう思っていたのに——」
紀律が再び俺を見る。
「実際に会ってみれば、ハーレムだのなんだのって浮かれて、女の子を追っかけ回して……挙げ句の果てには、勉強にも成績にも興味がないなんて言い出して」
悔しそうに唇を噛む。
「……もういいわ」
「委員長……」
「私がずっと追いかけてきた人が、こんな人だったなんて……がっかりよ」
紀律は俺から視線を逸らし、再び参考書へ目を落とした。
「いや、勝手にがっかりされても困るな」
「……今さら何よ」
「委員長……いや、紀律」
「き、紀律って……勝手に呼び捨てにしないでよ!」
紀律が勢いよく顔を上げる。
「俺はもう、紀律との勝負を受けたんだ。今さら降りるつもりはない」
「でも、あなたは勉強にも成績にも興味がないって——」
「ああ。成績そのものに興味がないのは、今も変わらない」
「だったら——」
「だが、負けるつもりはない」
俺だって、好きで勉強ばかりしていたわけではない。
遊びたい日もあった。
休みたい日も、すべてを投げ出したい日もあった。
それでも、やるからには誰にも負けないつもりで、ここまで積み重ねてきた。
だからこそ、紀律の努力がどれほどのものなのか分かる。
「本気で勉強に打ち込む紀律を見ていたら、あの頃の自分を思い出した」
「…………」
「紀律が本気で俺に勝ちたいというなら、俺も本気で相手をする」
俺は、紀律をまっすぐ見つめ返した。
「全力で来い、紀律」
「…………っ」
紀律は何かを堪えるように、唇をきゅっと結ぶ。
けれど、すぐにその口元がほんの少しだけ緩んだ。
「……後悔しても知らないわよ」
そう言いながら眼鏡を押し上げる紀律の声は、先ほどまでより少しだけ弾んでいた。
「あなたが腑抜けていた間も、私はずっと勉強を続けてきたんだから」
「望むところだ」
紀律は再び問題集へ視線を戻した。
そうと決まれば、これ以上時間を無駄にするわけにはいかない。
俺はその場を離れ、自習室の出口へ向かう。
扉を出る直前、最後に振り返った。
紀律の手に握られたペンは、先ほどまでよりもずっと軽やかに動いていた。




