第34話 取り柄しかないだろう
その気持ちは嬉しい。
だが、沙奏にはどうしても確かめておきたいことがあった。
「沙奏は今でも、理想のお姉さんになるために、おせっせがしたいのか?」
「…………」
沙奏はきょとんと目を瞬かせたあと、静かに首を横へ振った。
「もう、そんなこと思ってないよ」
「本当か?」
「うん。前は、早く経験できるなら相手なんて誰でもいいって思ってた。でも、今は違う」
沙奏が温水の中で、俺の手へそっと指を重ねる。
「私は、伊阪利ちゃんだからしたいの」
「沙奏……」
「伊阪利ちゃんが大好きだから、一つになりたい。私のことを全部知ってほしいし、私も伊阪利ちゃんのことを全部感じたい」
頬を赤く染めながらも、沙奏は俺から目を逸らさなかった。
「もう、誰でもいいなんて思わない。伊阪利ちゃん以外の男の人とは、絶対にしたくないよ」
男を誘惑するために覚えた言葉でもない。
理想のお姉さんを演じるための、作り物の声でもない。
沙奏は一人の女の子として、まっすぐに俺を求めてくれていた。
「俺も、沙奏とおせっせしたい」
「伊阪利ちゃん……」
「そのときは、今よりもっと二人で幸せになろう」
「……うん!」
沙奏は幸せそうに頷くと、俺の手をぎゅっと握り返した。
「あーあ。もう聞いてらんないって」
不意に、ぱなえが立ち上がった。
「アタシ、ちょっとのぼせてきちゃった」
「大丈夫か?」
「うん。少し涼んでくるだけ」
ぱなえはいつもの調子で軽く手を振る。
「二人はそのまま、ゆっくりしてなよ」
そう言い残し、一人で温水プールから出ていった。
「…………」
のぼせた、か。
確かに少し長く浸かっていたが——本当にそれだけだろうか。
「えへへ……伊阪利ちゃん、独り占めだ」
不意に、沙奏が後ろから俺へ抱きついてきた。
「…………っ」
水着姿で、この密着度。
濡れた肌同士が触れ合い、沙奏の柔らかな身体の感触が直接伝わってくる。
ああ……こんな幸せがあっていいのか。
沙奏は、俺のことをこんなにも好きだと言ってくれる。
しかも、誰もが振り返るような絶世の美女だ。
そんな沙奏と、水着姿で温水プールに浸かりながら、ぴったりと身体を密着させている。
この状況を羨まない男など、存在しないだろう。
だが——。
「…………」
やはり、さっきのぱなえが気になる。
「悪い、沙奏」
「ん?」
「俺、ぱなえの様子を見てくる」
「…………」
沙奏が一瞬だけ目を丸くした。
けれど、すぐに優しく微笑む。
「……ふふっ。うん、早く行ってあげて」
「いいのか?」
「もちろん。ぱなえちゃん、きっと伊阪利ちゃんのことを待ってるから」
沙奏は俺に回していた腕を解くと、そのまま背中をそっと押してくれた。
「今は、ぱなえちゃんにも伊阪利ちゃんが必要だと思う」
「……ありがとな、沙奏」
温水プールを出て辺りを捜すと、少し離れた風通しのいい場所に、ぱなえが一人で腰掛けていた。
「ぱなえ」
「……いざっち?」
ぱなえが驚いたように顔を上げる。
「はあ? なんでここにいんの? 沙奏さんは?」
「温水プールにいるぞ」
「一人で置いてきたの!?」
ぱなえは勢いよく立ち上がった。
「いざっちの馬鹿! 沙奏さん一人にして、また変な男にナンパされたらどうすんの! 早く戻って!」
「嫌だ」
「……え?」
ぱなえが目を丸くする。
「俺は今、ぱなえと一緒にいたい」
「でも……沙奏さんが……」
「沙奏なら大丈夫だ。もう変な男について行ったりはしない」
「…………」
ぱなえはしばらく俺を見つめたあと、諦めたように再び腰を下ろした。
「もう……馬鹿だよ、いざっちは。せっかく二人きりにさせてあげたのに」
「やっぱり、そういうつもりだったのか」
「…………」
返事の代わりに、ぱなえは顔を背けた。
俺もその隣へ腰を下ろす。
「沙奏さんほどいい子、なかなかいないよ?」
「……そうだな」
「あんなに美人で、スタイルも抜群で。それなのに素は天然で、子供っぽくて……本人は気にしてるけど、あのギャップとかマジで反則だって」
「ああ。沙奏は最高に魅力的だ」
「だったら——」
「でも」
俺はぱなえの言葉を遮った。
「ぱなえだって、最高に魅力的だ」
「…………っ」
ぱなえが驚いたように俺を見る。
「アタシなんて……沙奏さんと比べたら、勝てるところなんかないよ」
「ぱなえ……」
「沙奏さんは、あんなに一途にいざっちのこと想ってる。おせっせだって受け入れてるし……」
ぱなえは困ったように笑った。
「いざっちは沙奏さんと二人で付き合った方が、絶対に幸せになれるよ」
「誰といれば俺が幸せなのかは、俺が決める」
「いざっちは、絶対に後悔する!」
「しない」
俺は迷わず言い切った。
「俺の幸せを勝手に決めるな」
「…………っ」
ぱなえの表情が揺れる。
「でも……やっぱり駄目だよ」
「何がだ?」
「沙奏さん、いい子だもん。いざっちがちゃんと幸せにしてあげなきゃ駄目だよ」
ぱなえはそう言って、寂しそうに視線を落とした。
「分かってる。俺は沙奏を幸せにする」
「だったら——」
「だが、ぱなえのことも幸せにする」
「…………」
しばらく黙っていたぱなえが、自嘲するように唇を歪めた。
「アタシなんて……すぐヤれそうってことくらいしか、取り柄ないじゃん」
「…………」
「沙奏さんがしてくれるなら、もうアタシなんて——」
「黙れっ!」
「はぁ!?」
ぱなえが弾かれたように顔を上げる。
「何それ!? 喧嘩売ってんの?」
「俺の好きな女を、勝手に価値のない女みたいに言うな!」
「……え?」
「すぐヤれそうなことだけが取り柄だと? 俺の好きなぱなえは、そんな薄っぺらい女じゃない!」
「な、何言ってんのさ……いざっち」
さっきまでの勢いを失い、ぱなえが明らかに動揺する。
「こんなに可愛くて、明るくて、友達思いで、頼りになって——それに最高にエロい!」
「最後のいる!?」
「いるに決まってる!」
俺は立ち上がると、一歩踏み込んでぱなえを抱き締めた。
「全部……全部ぱなえの魅力だ。取り柄しかないだろうが!」
「…………っ」
「だから、もう勝手に身を引こうとするな」
「いざっち……」
抱き締める腕へ、さらに力を込める。
「沙奏は必ず幸せにする。なじみも、紀律も、走琉も、玖詩も……そして、ぱなえもだ」
「…………」
「俺は絶対に、誰一人諦めない」
ぱなえの身体が、腕の中で小さく震えた。
「好きだ、ぱなえ」
「……アタシも……好き」
ぱなえの腕が、恐る恐る俺の背中へ回される。
そして二度と手放すまいとするように、ぎゅっと強くしがみついてきた。
「……ねえ、いざっち」
「なんだ?」
「アタシ……もう、遠慮しなくていい?」
「当たり前だ」
「沙奏さんにも、なじっちにも……誰にも譲らなくていいの?」
「むしろ譲るな。好きなだけ俺を欲しがれ」
「…………っ」
ぱなえが俺の胸へ顔を埋める。
「……ほんっと、欲張りなんだから」
「ハーレムを作ろうとしている男だぞ。今さらだろ」
「あはは……確かに」
小さく笑ったぱなえは、もう俺から離れようとはしなかった。




