第32話 あと数ミリで……
「なーんてね!」
走琉は誤魔化すように笑うと、ぱっと俺から顔を逸らした。
「伊阪利くん、委員長なら売店の方に行ったと思うよ!」
「そ、そうか。ありがとな」
「うん! それじゃ、ボクはもう一回泳いでくるから!」
走琉は一度も俺と目を合わせないまま、逃げるような早足で競技用プールへ向かっていく。
「…………」
走琉はもう平気そうだな。
俺はまだ、こんなにも胸が高鳴っているというのに。
ウォータースライダーで、ぴったりと密着した身体。
腕の中で楽しそうに笑っていた走琉の姿。
その感触も笑顔も、さっきから頭を離れてくれない。
「…………ん?」
しかし、少し離れたところまで行くと、走琉の歩き方が急におかしくなった。
右手と右足を同時に出し、ぎこちなく前へ進んでいる。
しかも、後ろから見ても分かるほど、耳が真っ赤だった。
「走琉、大丈夫か?」
「だ、だだ大丈夫! 全然なんともないから!」
走琉は勢いよく振り返って答えると、再び早足で離れていった。
「…………」
目でも回ったのだろうか。
さっきまで平気そうだったのだが……。
まあ、あれだけ元気に返事ができるなら大丈夫だろう。
俺は深く考えず、紀律を探して売店へ向かった。
売店で冷たい飲み物を二本買い、辺りを見渡す。
「……いた」
少し離れたパラソルの下。
紀律が一人、プールサイドチェアに腰掛けていた。
今日は眼鏡を外しているせいか、いつもより表情が柔らかく見える。
白い肌に艶やかな黒髪がよく映え、改めて息を呑むほどの美少女だった。
紀律は両手を膝の上で揃え、賑やかな周囲から一人だけ取り残されたように、どこか心細そうにしている。
「…………」
身につけているのは、白を基調とした清楚な水着。
派手すぎない落ち着いたデザインに、小さなフリルが可愛らしさを添えていた。
いかにも紀律らしい。
よく似合っているし——文句なしに可愛い。
俺は紀律の隣まで歩いていき、わざと気取った声で話しかけた。
「お隣、よろしいかな? 可憐なお嬢さん」
「…………」
紀律がゆっくりと顔を上げる。
「……何をしてるのよ、槍田君」
「あまりにも可愛い子がいたから、ついナンパをな」
「もう……何を言ってるのよ」
先ほどまで心細そうだった紀律の顔に、いつもの調子が戻ってくる。
「ほら、差し入れだ」
買ってきた飲み物の一本を差し出した。
「……私に?」
「ああ。走琉に付き合って、大変だっただろ」
「…………ありがとう」
紀律は飲み物を受け取ると、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
俺もその隣へ腰を下ろす。
「プールはどうだ? 楽しくないか?」
「楽しいわよ」
そう答えたものの、紀律は困ったように視線を伏せる。
「ただ……こういう賑やかな場所へ、誰かと遊びに来るのは初めてなの」
「そうなのか?」
「ええ。今までは勉強ばかりしていたから。休日に友達と出かけることも、ほとんどなかったし……」
紀律が周囲を見渡す。
水を掛け合いながら、楽しそうにはしゃぐ人たち。
笑い声を上げて、プールへ飛び込んでいく集団。
次はどこへ行くか相談しながら、並んで歩いている男女。
「だから……何をしたらいいのか、よく分からなくて」
「…………」
「長木仁さんについて回ってみたけど、追いかけるだけで精一杯だったし」
「走琉を基準にするのは、やめた方がいいぞ」
「それは私も思ったわ」
紀律が小さく笑う。
「でも、槍田君は楽しそうね」
「俺か?」
「ええ。こういう場所には慣れているの?」
「いや、全然」
「……そうなの?」
「俺だって、今まで勉強ばかりしてきたからな。プール施設での正しい遊び方なんて知らん」
「だったら、どうしてそんなに楽しそうなのよ」
「そんなの、決まっているだろ」
答えを考えるまでもなかった。
「大好きなハーレムメンバーと一緒に来ているんだ。どこで何をしていても楽しいに決まっている」
「…………」
紀律が驚いたように目を丸くする。
「俺はこうして紀律と並んで話しているだけでも、最高に楽しいぞ」
「…………っ」
紀律は頬をわずかに赤らめると、手にした飲み物へ視線を落とした。
「……そういうことを、さらっと言うのね」
「それに、紀律の水着姿を見られるというだけで、ここはどんな場所よりも楽園だ」
「本当に……馬鹿なんだから」
呆れたような言葉とは裏腹に、紀律の口元には嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
「でも……私の水着姿を見たいと思うのなんて、槍田君くらいでしょ」
「そんなことはないぞ」
「え?」
「売店からここへ来るまでの間だけでも、紀律を見ていた男は四人いた」
「よ、四人!?」
「ああ。紀律が可愛いからな」
「…………」
紀律が呆気に取られたように俺を見る。
「紀律は、自分で思っている以上に可愛くて、魅力的なんだ」
「槍田君……」
「それをただで拝もうだなんて……まったく、虫がよすぎる」
俺は紀律を見ていた男たちへ、牽制するような視線を送った。
「ふふっ。槍田君……もしかして、嫉妬しているの?」
「当たり前だ。こんなに可愛い水着姿の紀律を一人にしておくなんて、俺は気が気じゃないぞ」
周囲へ目を光らせていると、不意に両手で頬を包まれた。
「……紀律?」
そのまま、ぐいっと顔を動かされる。
視線の先にいたのは——頬を赤く染めた紀律だった。
「心配しなくても……私は槍田君だけだから」
「…………」
「ほかの男の人に何を言われたって、ついていったりしないわよ」
「……紀律」
近い。
紀律の瞳が、俺だけを真っ直ぐに見つめている。
頬はほんのりと赤く染まり、どこか熱っぽい表情を浮かべていた。
「…………」
紀律の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
あと少し。
ほんのわずかに顔を動かせば、唇が触れてしまいそうな距離。
紀律……。
好きだ。
俺はもう——。
「委員長ー! 伊阪利くーん! お待たせー!」
「っ!?」
「っ!?」
俺と紀律は、弾かれたように身体を離した。
唇が触れるまで、おそらくあと数ミリだった。
「走琉……ずいぶん早かったな」
平静を装って声を出す。
だが、心臓は信じられないほど激しく脈打っていた。
「あれ? 二人とも顔が赤いよ? 暑いの?」
「た、確かに……今日は少し暑いわね」
紀律はぱたぱたと手で顔を仰ぎ、誤魔化すように飲み物を勢いよく口へ運んだ。
「なーんだ。てっきり、二人でキスしてるのかと思ったよ」
「——っ!?」
次の瞬間——。
紀律が盛大に飲み物を噴き出した。
「うわっ!」
真正面にいた俺は避けることもできず、まともに頭から浴びてしまう。
甘ったるい飲み物がぽたぽたと滴り落ちた。
「し、ししし、してないわよ!」
「あはははっ! 委員長、すごい勢いで噴き出したね!」
走琉は腹を抱え、楽しそうに笑っている。
「見てよ! 伊阪利くん、全身ベタベタだ!」
「誰のせいだと思っているんだ……」
「わ、私のせいじゃないわよ! 長木仁さんが変なことを言うから!」
「え? ボクのせいなの?」
走琉は本当に何も分かっていない様子で、きょとんと首を傾げた。
「俺、シャワーを浴びてくる……」
このままでは、身体中がベタついて仕方がない。
「ご、ごめんなさい、槍田君……」
「気にするな。紀律の口から出たものなら、ご褒美と言ってもいいくらいだ」
「なっ……!」
紀律はさらに顔を赤くすると、恥ずかしそうに身体を縮こまらせた。
俺はそんな紀律を残し、シャワールームに向かった。
「…………」
もし、走琉が来るのがあと少し遅かったら——。
俺は本当に、紀律とキスをしていたのだろうか。
そう考えただけで、心臓がまた大きく跳ねる。
——それにしても。
走琉といい、紀律といい……。
今日は心臓がいくつあっても足りそうにないな。




